劇ナビFUKUOKA(福岡)

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『受胎の森』ゴブノタマシイ

2025年5月18日(日)14:00~ @湾岸劇場博多扇貝

●「受胎の森」ゴブノタマシイ


脚本・演出:あおい みき

出演:松本征也(最新旧型機クロックアップ・サイリックス)、白川宏治、景乙(最新旧型機クロックアップ・サイリックス)、馬場佑介(Yb[イッテルビウム])、坂井籍暁、田村ちほ(Yb[イッテルビウム])、大谷豪

照明:出田浩志(stage lighting 大黒屋)

音響:青井美貴(最新旧型機クロックアップ・サイリックス)

装置:安部将吾(南無サンダー)

チラシ制作:わっきー

声の協力:山田彩加、峰尾かおり



 らい病患者の苦しみ、隔離された療養所の孤独と非人道性、らい予防法の問題について、真正面から描いた意欲作である。


 福岡において、具体的な差別問題をテーマに芝居を作る人々がいることに(しかも若い役者たちである)驚いた。なぜなら、(雑な表現だが言葉を選ばずに書けば)多くの人に「テーマとして受け入れられやすい」差別問題と、そうでないものとがあると感じているからだ。例えばジェンダーがテーマなら理解も賛同も得やすいだろう。現代ならセクシュアリティについても同様だ。人種問題も数多く舞台で扱われてきた。だが、らい病の社会的問題を若い劇団が芝居にするのは様相が異なる気がする。いろんな理由があるけれど、一つには現在において多くの人が共有する問題とされていないことがあるだろう(もちろん、裁判に決着がついたのは数年前だし、それも実名を伏せての原告だったことからわかるように、いまだに差別や偏見が根強く、この問題が終わっていないことは強調しておく)。病名程度しか知らないという若い人もいるかもしれない。言い換えると社会が封印してきた負の歴史の箱を、若い役者たちが開けたのが本公演ということになる。


 内容は、開演前に脚本・演出をしたあおいみきが説明したように北条民雄の『癩院受胎』を基にした創作である。人里離れた療養所内を舞台にしていること、そこに住む舟木家の兄妹、その妹・カヤコが同じ療養所内の久留米と恋仲になり子を孕むこと、兄の舟木は病気で肉体が朽ちていっても美しい精神は育つと主張し、他方で久留米は肉体に固執し病で蝕まれることを肉体の敗北だと言うこと、そして久留米は自殺をすること、それらをつぶさに見ながら自らもらい病患者である成瀬が小説を書き続ける…登場人物も大筋も確かに『癩院受胎』に倣っている。


 ただ本作『受胎の森』は、これを「遺された未完の小説」として、数十年後の現在、発見されたという構造を取る。小説の内容を演じる層と、閉鎖される療養所の図書館でそれを発見する現代の層という二つから成っているのだ。過去と現在を結びつけることは、本作においてとても大きな意味を持っている。それは作者の、現在も「まだ終わっていない」問題だという示唆であり、らい病に限らず「自分事の」差別の問題として捉えるべきだという主張だからである。(と私は受け取った)


 その一つが、「らい予防法」という言葉を出し明確に悪法として糾弾し、治療薬ができた後もその法律は生き続け40数年後にようやく廃止されたという事実をはっきりと批判するシーンを加えていること――そこにとどまらず「これが君たちの物語の終わりなのか」と問う点である。最後の入居者が亡くなればすべての問題は終わりになり、悲惨で残酷な事実も憎しみも悲しみも忘れ去られ、やがてなかったことにされていく…それが君たちの物語の終わりなのか? 過去を封印する行為は卑怯で愚かである(知らないことも同罪である)という強いメッセージだ。


 現代でその未完の小説を発見したケンイチが、らい病患者や著者の成瀬に自分を重ね、苦しくても生き続け(自分の物語を書き続け)ていかねばならないと決意する点も大きなポイントだろう。「忘れないこと」は、過去と今を断絶させないことである。そしてらい病が治る病になった現代だってそれに代わる何かが違う形で差別を生んでいるのかもしれない。繋げろ、自分事として考えろと言っているのだ。この点も評価したい。ただし、物語を引き継ぐというケンイチのバックグラウンドが、「期待されていたのにプレッシャーに負け受験に失敗し、暴力をふるい、社会不適合者として見捨てられてしまう」という設定はあまりにも弱い。病気と国によって理不尽に人生を奪われたらい病患者たちとケンイチの境遇を同列に扱うのは無理がある。この設定には不満が残った。


 個人的に興味深いと思ったのは、執筆をつづける成瀬に対して、成瀬の「思想」として阿久津という男を登場させている点だ。それも作家あおいみきがオリジナルだ。私の理解ではこの阿久津という男は実在しないのだが(あるいは『癩院受胎』の作者北条民雄の分身か)、芝居の後半で阿久津を演じる大谷豪が現代において療養所の図書館を管理していた者としてケンイチの前に現れることに胸が詰まる。小説の中で舟木と久留米が「肉体は朽ちかけても精神は育つ」「肉体が滅びることを前に精神の成熟は意味がない」といった心身を二つに分けて議論するのだが、まさに成瀬の肉体がらい病に侵されていく一方で、尊厳・知性・思想は侵されまいとする作家のゆずれない思いが阿久津の存在として現れているとみることができるからだ。そして阿久津のような人が、療養所の「知」としての図書館の管理人として登場する…同じ役者を使うことでうまく表現で来ていてなるほどと思う。


 惜しむらくは、多くの役者たちの芝居が大仰だったこと。肩に力が入りすぎているように感じられた。大谷の演技にはそれがなくホッとしたが、ラストで彼の写真を出したことで笑いが起きてしまい(彼のせいではない)、作品の空気が一変して残念だった。


 「もーいいかい」「まーだだよ」、劇中で何度も響くかくれんぼのやりとりにも意味を持たせ、ぶれない作品ができあがったと思う。

2025.05.26

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柴山麻妃

●月に一度、舞台芸術に関係するアレコレを書いていきまーす●

大学院時代から(ブラジル滞在の1年の休刊をはさみ)10年間、演劇批評雑誌New Theatre Reviewを刊行。
2005年~朝日新聞に劇評を執筆
2019年~毎日新聞に「舞台芸術と社会の関わり」についての論考を執筆

舞台、映画、読書をこよなく愛しております。
演劇の楽しさを広げたいと、観劇後にお茶しながら感想を話す「シアターカフェ」も不定期で開催中。
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