2024年3月9日(土)13:00~ @J:COM北九州芸術劇場 中劇場
●インヘリタンス―継承―
作:マシュー・ロペス
演出:熊林弘高
訳:早船歌江子
ドラマターグ:田丸一宏
出演:福士誠治、田中俊介、新原泰佑、柾木玲弥、百瀬朔、野村祐希、佐藤峻輔、久具巨林、山本直寛、山森大輔、岩瀬亮、篠井英介、山路和弘、麻実れい
美術:二村周作
照明:佐藤啓
映像:松澤延拓
音響:長野朋美(オフィス新音)
衣裳;伊藤佐智子(ブリュッケ)
ヘアメイク:稲垣亮弐
ムーブメント:柳本雅寛
インティマシーコーディネート:西山ももこ
舞台監督:齋藤英明
大道具:伊藤清二(C-COM)
小道具:西村太志(高津装飾美術)
広報:森明晞子
これは「記憶」の継承である。
わずか数十年の、それもアメリカ社会に限定した話ではあるが、性的マイノリティ(本作では男性同性愛者・ゲイに特化している)がこの異性愛社会でどのように生きてきたのか、その記憶のバトンを渡していく作品である。冒頭で響く言葉「彼らには語るべき物語がある」――それは、個人やそのカップルたち固有の物語でありながら、同時にゲイとそのコミュニティの普遍的な物語である。
物語の主軸となるのは2組のカップル。30代のエリック(福士誠治)と劇作家のトビー(田中俊介)、初老の不動産王ヘンリー(山路和弘)とウォルター(篠井英介)だ。彼らの人生を通して、ゲイが生きにくかった時代からエイズ禍、そして同性婚が認められた現代までの歴史が描かれる。
歴史…とはいえ、描かれるのは基本的に個人的な話だ。痴話げんか、浮気による関係の破綻、失恋、恋人の元彼の存在(本作では元彼ではなく男娼だった恋人の「元客」なのだが)、病気、死。例えばこれを男女のカップルに置き換えても少し手を加えるだけで十分に成り立つほど、「よくある個人的な話」である。ところがそれが男性同士のカップルになった途端に、あらゆる面において社会的な意味が付加されてしまう。恋愛関係は隠さねばならず、欲望に満ちた出会いの場は性暴力の温床であり社会からは「HIVウィルスの温床」といった偏見の目にさらされることになり(だから性暴力の問題が顕在化しにくい)、エイズはゲイの病気だとの偏見が流布し、単なる婚姻にこぎつけるまでに長い年月を要し、(それらの問題によって)一人で最期を迎える者も多くいるだろう。
だから、彼らは生きるだけで「政治的な存在」にならざるを得ない。生きるだけで戦わざるを得ない。大文字の政治という点では、どの政党が政権を握るかは彼らにとって死活問題である。新しい恋人が共産党支持者と分かったとたん長年の友達がエリックから離れていったことからわかるように、彼らにとってそれは単なる主義主張の違いではない。暴力的に抑圧され、権利を取り上げられ、差別が助長される…作中でヒラリーか「あの男」か(名前すら出されない)の大統領選挙のシーンが大きな意味を持つのは、その結果によってアメリカでゲイとして安心して生きていけるかどうか大きく変わるからである。(「あの男」が再選される可能性がある2024年現在、これは物語ではなく「現実」だと改めて思った))
小文字の政治という点でも、いくつものセリフがそれを反映している。例えば、「『ゲイ隠し』(の時代)が懐かしい、今やゲイが文化的指標になっている、ゲイカルチャーを盗用し…」といった一連のセリフ(注:正確ではない)。解釈するなら「ゲイ文化ってなんかお洒落だよね」という好意的「持ち上げ」方をされる時代にもなったけれど、それは決して喜ばしいことではない…なぜなら都合の良いところだけを「評価する・受け入れる」という上から目線の傲慢さの表れであり、イメージの反転に過ぎないし(つまりは一方的で独断的)、またその像に合致しないゲイの存在を認めないことにつながるし、ゲイコミュニティーの文化が都合よく異性愛社会に盗用され消費されているのだと感じる…それぐらいなら大切なものを守るという点ではゲイであることを隠していた時代を懐かしく思う…といった所だろうか。異性愛社会の中でゲイが生きていく事は、本人が望まなくても政治的存在にならざるを得ないということなのだ。
「認知されるために頑張ってきた。でも文化的認知とゲイの認知は違う」というセリフもそうだ。ありのままの存在を認めてもらうという当たり前のささやかな要求が、なぜジャッジされ、否定され、戦わねばならないのか。テンポの良いセリフの応酬の中に彼らの苦しみや憤りや呆れや悲しみが詰まっている。
ラストになって、今見たこの「物語」が、登場人物の一人であるレオの小説だったのだと気がつく。演出の熊林弘高は、舞台上に枠を作りその中でエリックたちの物語を展開させ、枠の外に置かれた椅子に小説家が座って、始終その物語を眺めているという構図を作った。(冒頭で小説家志願の青年たちにこの小説家が、なぜ書くのか、何を書きたいのかを問う形で本作が始まる。その小説家が枠の外から「物語」を見ているという構図だ)最初はこの小説家の「傍観」を「無責任な傍観者の私(たち)」に重ね合わせているのかと勘ぐりもしたが、いや、むしろ彼のまなざしは優しい。そこで改めて冒頭をふり返ると、本作が「いっそのことヘレンの手紙から始めよう」という『ハワーズ・エンド』の冒頭から始まっていたことを思い出し、つまりはこの小説家こそが『ハワーズ・エンド』の作者E・М・フォスターなのだと気がついた。(マシュー・ロペスが、『ハワーズ・エンド』にインスパイアされて本作を書いたと後から知った。)ゲイたちの物語、を書いたレオの物語、をフォスターが穏やかに見守っているという入れ子構造だったのだ。その構造が、「大切な物語を幾重もの箱にしまっている」姿にも見える。
誰かを愛し、生きたこと。その存在の記憶を書き留めて繋いでいくこと。見終わってしみじみとその意味が身体に染みわたっていく。役者たちの演技は、新鮮で、生々しく、激しく、美しく、痛々しく、哀しく、「生」そのもの。どの存在も包み込んであげたいと思った。人を大切に愛しみたい、誰もがそんな存在であるし、そうできる人でありたいと、強く思える作品である。
2024.04.23
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2024年2月25日(日)11:00~ @さいとぴあ多目的ホール
『注文の多い料理店』
注文の多い舞台公演実行委員会
原作:宮沢賢治
脚本・演出:中嶋さと
出演:中嶋さと(FOURTEEN PLUS 14+)、百田彩乃(だーのだんす)、古澤大輔(FOURTEEN PLUS 14+ 劇団ショーマンシップ)
舞台手話通訳:野上まり(TA-net/福岡ろう劇団博多)
字幕:宮本聡(九州大学人間環境学研究院)
手話監修:八百谷梨江(TA-net)、福岡ろう劇団博多
舞台監督:吉田忠司(FOURTEEN PLUS 14+)
照明:中山京(good Light)
音響:諌山和重(Ride on CLAPS)
衣裳:倉智恵美子
音楽:吉川達也、岡田涼生
振付:百田彩乃(だーのだんす)
演出家・中嶋さと(FOURTEEN PLUS 14+)が難聴者も楽しめる舞台作品を初めて手掛けたのは、2023年1月の『注文の多い料理店』だった(第二弾とはカフカの『変身』)。今回はその『注文の多い料理店』を、出演者や演出を変更しての再演である。一つの作品を上演後は「終わり」にするのではなく、前作より伝わりやすく、よりわかりやすく、より面白くを目指して大事に作り直し続ける姿勢は評価に値する。1年ぶりの本作については備忘録程度になるが、気づいたことを記録しておきたい。以後、前作と表記するのは、2023年1月の『注文の多い料理店』のことを指す。
前作との大きな違いは3つ。1点目は会場である。前作はぽんプラザホール(福岡市博多区)にて上演、平土間の舞台(客席が見おろす形)だった。今作の上演はさいとぴあ(福岡市西区)の多目的ホールで、舞台も使用してはいたが基本的にはその前面(舞台から階段を下りた地の部分、客席最前列の前のスペース)を使って演技をしていた。舞台上はスクリーン(字幕)がメイン。だが客席前スペースとの差異を利用する形で舞台を使ってもいた。例えば料理店の最後の扉を開けるシーンでは、舞台に上がる階段にライトを当てそこを登っていくことでクライマックス感を演出。また字幕スクリーンが上がると歯を模した白い山形のオブジェが現れ、その左右には大きなナイフとフォーク、いよいよヤマネコの口の中に誘われ進んでいくというイメージを具現化していた。基本的に動きのあるシーンは全て客席前面のスペースで行い、舞台は限られた使い方をするという方法で、中嶋の演出の工夫が見られると思う。ただ、不満を言えばどうしても「学校巡演の芝居」臭さを感じてしまう。これは多目的ホールを使用する限界と言っていい。今回の公演の目的をどこに置いたのか――出来る限り多くの難聴者に見てもらうことか、学校巡演に適した作品にすることか――にもよるが、やはり会場の制約は大きい。作品の洗練度も上げるなら会場を選んでほしいというのが正直なところだ。
2点目の違いは、字幕の使い方。前作に比べて字幕で出来ることをさらに模索したという印象を受けた。前作の場合は、大きな扉の絵以外には基本的に文字で、その文字のフォントや大きさを変えるという「漫画のオノマトペ表象」が私には新鮮だった。今回は、始まる前からエフェクトをかけた森の写真?のような画面が映し出されており、作品の世界へと観客を誘う。またBGMのタイトルを一つ一つ字幕にしていたのも前作とはちがう所。元からついていたBGMの名前かもしれないが、「まよいの旋律」とか「スキンケアのお時間」などBGMが表したい内容を表示したことは難聴者に親切である。また音符や文字がパラパラと落ちるアニメーションの字幕は、デザインとしての機能も果たしている。私たちは「文字」の役割を「内容の伝達」のみだと思いがちだが、それを記号として、デザインとして、視覚的効果を狙うオブジェにしている。前作以上に字幕の可能性を追求していて、面白い。
3点目はラストシーンである。ほぼ原作通りだった前作に比べ、今作はまだまだ料理店から抜け出せないような余韻を残して終わる。最初に扉を開いて猟師二人を料理店に誘っていくのも、最後に扉を閉めるのも、舞台手話通訳者の野上まりである。
実はラストシーンの違いより印象に残ったのが、野上という舞台手話通訳者の存在である。彼女は舞台手話通訳者として、登場人物のセリフを通訳する時はその話者になりきった演技をするのだが、そうでないときは俯瞰的に登場人物を眺める立場になり彼らの行動に驚いたり呆れたりといった様子を見せる。「一部でありながら全体をも見る」存在、言ってみれば「狂言廻し」である。狂言廻しとは芝居において作品の進行をさりげなく観客に伝え導く役割のことで、それ自体は珍しくない。登場人物がとつぜん観客に向かって「この時はまだ~が起こるとはだれにも分からなかったのです」などと語り「観客と同じ現実の次元」におりて物語を進行させたり理解をサポートしたりする芝居もざらにある。しかしそれを舞台手話通訳者がやるということ、この特異性に強い関心を持った。
というのも、舞台手話通訳者を難聴者のためだけの存在として考えたら(=健聴者はその存在を無視してもいいと考えたら)、この芝居において、作品世界と現実(観客)世界を行ったり来たりするような人物はいないことになる。ところが、野上は役者の一人でもあり、その存在感は抜群。従って、難聴者のみならずどの観客にとっても野上はなくてはならない登場人物であり、「全体を説明しながらも、時として猟師の言葉を語り、時として山猫の仲間として猟師を陥れあざ笑う」という不思議な存在を自然に受け入れることになる。中嶋はそのように演出している。
手話通訳をする立場(対象は難聴者)でありながら、役者である(対象は全観客)、そして全体の音や声を通訳するという特殊性ゆえに、役柄を固定しないという不思議さ。実は、本作を見る1カ月ほど前に『こころの通訳者たち』という映画を見て、舞台手話通訳は「全体の通訳者であり全体の役者である」ことが求められると知ったところだった。もちろん手話ができる者なら誰でも舞台手話通訳をできるわけではなく、演出もその存在をうまく活かした上で芝居を作らねばならない。(言うまでもなく野上はかなり優れた手話通訳者であるし、演出の中嶋も舞台手話通訳の役割をしっかり把握してうまく彼女を活かしていたわけだ。)その意味でも、この舞台手話通訳者とは、従来の芝居においてはかなり斬新な存在ではないだろうか。何しろ、「部分(個々の通訳)でもあり全体(全体の通訳)でもある」、「部分(役者の一人)でもあり全体(芝居そのものを表現)でもある」存在なのだ。芝居の新しい可能性を開くことにつながる気がする。
まだ舞台手話通訳という新しい存在は浸透していないが、難聴者だけでなく健聴者にとっても新しい芝居の可能性を開いていることが興味深い。野上まりという舞台手話通訳者の存在を得て中嶋がさらに新たな境地を拓いていくのが楽しみである。
2024.04.08
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