劇ナビFUKUOKA(福岡)

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『オデッサ』ホリプロステージ

2024年2月18日(日)13:00 @キャナルシティ劇場

『オデッサ』

作・演出:三谷幸喜

出演:柿澤勇人、宮澤エマ、迫田孝也

音楽・演奏:荻野清子

ナレーション:横田栄司

美術:松井るみ

照明:服部基

音響:井上正弘

衣裳:前田文子

ヘアメイク:高村マドカ

映像:ムーチョ村松

演出助手:伊達紀行

舞台監督:瀧原寿子







 三谷幸喜の新作を見るのは久しぶりである。古い作品の再演は去年も1,2本見たのだが、正直なところ昨今の彼の作品にそこまで関心はない。今回見る気になった理由は、字幕を使うと知ったから。このところ私は耳が不自由な観客も芝居を楽しめる字幕の可能性について興味がある。もっとも本作はそのための字幕ではなく、他言語間のディスコミュニケーションを字幕でより明らかにするという意図であるが。


 舞台は1999年のアメリカ・テキサス州オデッサという田舎町。夜も更けたころの道路沿いのダイナーに、日本人旅行者コジマ(迫田孝也)が老人殺しの重要参考人として連れてこられる。聴収をするのは遺失物係の日系人、カチンスキ―警部(宮澤エマ)。折しも連続殺人事件が起きていて、オデッサ警察はその捜査で手いっぱいなため遺失物係の彼女が担当させられたのだ。ところが彼女を含め警察の誰もが日本語を話せず、また旅行者コジマは英語が全く分からないという。そこで地元のジムで働く日本人男性スティーブ日高(柿澤勇人)に通訳を頼み、取り調べを進めようとする。そのうちに容疑者のコジマとスティーブが鹿児島出身の同郷者だと分かり、スティーブはコジマの無罪を信じて助けるべくウソの翻訳を重ねていく…。


 役者3名の「話しぶり」がいい。日本語が全く分からないカチンスキ―役の宮沢の見事な英語と、二か国語を喋り分ける柿澤の舌の回りっぷり。しかも鹿児島弁まで登場し(柿澤にとっては三カ国語みたいなものだろう。迫田は鹿児島弁「指導」をしたらしいからネイティブかな)、言葉が本作において重要であるだけに3名の口達者ぶりが肝だが、これは見事だった。


 そのおかげもあって、字幕内容とのギャップで観客は大いに笑うことができている。字幕は背面の壁に大きく翻訳を映しだすという方法で、字幕が必要になった時には壁が少し前面に動く仕掛け。彼らの心情に合わせて字幕のフォントや大きさを変えるという効果もあり見慣れない人には新鮮に映ったようだが、難聴者向けの昨今の舞台字幕は新しい工夫にも挑戦しているので取り立てて新鮮な驚きはなかった。


 さて「言葉」を操って笑いを生み出すといえば、三谷の初期の作品『笑の大学』を思いだす。()の作品はコメディ戯曲への検閲を、「わざと」誤訳することで検閲係の権力に巧みに抵抗していこうとする話だった。本作も「言葉」を操ることで「一方的にコジマを犯人に仕立て上げている警察の権力に抵抗している」という意味では同じ。ただ二つは全く似て非なる。重要な二点が全く違うのだ。一つ目は「言葉を操ることによる面白さ」が本作は単純という点だ。相手がまったくその言語を理解しないため、操るのが簡単ということである。もちろんバレそうになる所でいかにごまかすかという面白さはある。だが仲間内だけに通じる隠語で誰かを馬鹿にするとか、通じない他言語で罵詈を投げかけるとか、そういったいじめや差別と「相手が分からないことを利用する」という点で同じ構造だと思ってしまうと、この作品の笑いの質が高くないことに気づくだろう。


 二点目は、物語の先に残るものがあるかないかという点だ。『笑の大学』は、戯曲を修正したくない作家と当局の指示に従って削除したい検閲係の攻防が、やがて友情を生み出し傑作を生み出し、――そしてクライマックスのあるコトで静かな感動を呼ぶ芝居となっていた。ところが本作では全てのウソがばれたその先にあるのが、真犯人が明らかになるというだけ。どんでん返しではあるが、早い段階で想像はつくし、あくまでも推理小説のオチでしかない。コメディは楽しければいいのかもしれないが、あの名作と同じ「言葉を操ることによるコメディ」であることを考えれば、本作が三谷の縮小再生産作品であると言わざるを得ない。


 帰りながら、本筋には関係ない、言葉に付随する「余計な力」について考えた。異国の地で母国語や出身地の言葉を聞いた時に、親近感や根拠のない信頼感が生まれる不思議(スティーブもこれに騙されたわけだ)。また、ラストでコジマがスティーブに「お前の鹿児島弁はディープじゃない、お前の英語も大したことない、英語を喋れるやつなんてごまんといて上には上がいる」といったニュアンスの捨て台詞をはくのだが、このマウントも言葉には付いてまわるもの。言葉はコミュニケーションツールに過ぎないのに、言葉ほど余計なものがくっつくものもない。そう思う一方で、宮澤エマちゃんの流暢な英語に羨ましさを感じ、字幕を見て「分かるわかる」と安心する、そんな英語コンプレックスを持ってしまう私の矛盾…。いやいやその話は横に置き、役者たちの見事な滑舌に感嘆したと結んでおきたい。

2024.03.13

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『鮭なら死んでるひよこたち』第21回AFF戯曲賞受賞公演

2024年2月17日(土)14:00 @なみきスクエア大練習室

『鮭なら死んでるひよこたち』

第21回AFF戯曲賞受賞公演

戯曲:守安久二子

演出:羊屋白玉

スタンダップコメディのテキストおよび出演:遠藤麻衣、神戸浩、スズエダフサコ、羊屋白玉、田坂哲郎、リンノスケ

美術:サカタアキコ、小駒豪

衣裳:佐々木青

照明:則武鶴代

音響:安達玄

楽曲提供:羊屋白玉

舞台監督:糸山義則

プロダクションマネジメント・演出部:峯健、築山竜次(愛知県芸術劇場)

イラスト:Aokid

チラシデザイン:tami graphic design

動画制作:吉雄孝紀

記録写真:あだな

制作:糸山裕子、阿部雅子、山本麦子(愛知県芸術劇場)

制作アシスタント:丸太鞠衣絵、門司美紀(アートマネージメントセンター福岡)









 …いや何と言うか、みんな「役に立たなきゃいけない病」にかかってるんじゃないかと思うんですよ、世の中。その昔、子どもを二人産んだ友達が「私は社会に対して義務を果たした。出生率を超える人数産んだからね」と言ったのを聞いてのけぞったことがありまして。就職活動では揃いもそろって「御社(のみならず社会)に貢献したい」と熱く語ります。わかるんですよ、「自分は社会や他者に生かされている、だから自分も役に立ちたい」という気持ちは。私もそう思います。でもそれが本末転倒して「社会に役に立たなきゃ価値がない」病となって蔓延している気がするんです。生きる価値を見出したいのは人間の(さが)ですが、そもそも誰にとっての価値で、ここで言う「社会」って何なのでしょうねぇ…? 


 ――と、独り言ちてみる。どうやらこの雑多でパワフルな芝居に「巻き込まれて」しまったらしい。第21回AFF戯曲賞受賞の『鮭なら死んでるひよこたち』は、一筋縄ではいかない登場人物たちの破天荒な物語構造で、一昔前の芝居のような味がある。そこに羊屋白玉の大胆な演出が加わったことで、それぞれの人生はどれもがわちゃわちゃした舞台上の作品であるかのような印象を与えている。それは拍子抜けするほど軽やかで、人生に大仰な「意味」を与えない(誤解が無いよう先取りして言うが、人生の意味を軽んじているということではない)。誰かにとっては救い、誰かにとっては受容、また誰かにとってはチクリとした痛み、そんな作品である。


 タイトルにもある鮭とひよこが象徴的だ。劇中のセリフにもあるが、鮭は川をさかのぼり、産むために傷ついて死んで、我が子のために川にとけて養分になる。縁日で売られるカラースプレーで彩られたひよこたちは、狭い空間で餌箱の隅をつつくだけで、買われ(飼われ)ても数日しか生きられない。本作に登場する人々も同様だ。子を産み育てその挙句に家族に疎まれた人生を嘆くガリヤ夫人だったり、狭い世界で生きる無知で弱い自分を縁日のひよこに投影するチャラ男だったり、何かの大義を持って旅をしているつもりのムーと子を望んでいるフーの夫婦だったり…それぞれがそれぞれに考えて模索して選択して生きている、はず。ただそれが大きな川における(数多(あまた)いるうちの)一匹の鮭、狭い場所ではかなく鳴いている(数多(あまた)いるうちの)一匹のひよこにすぎない。 面白いのは、それなのに悲壮感や虚無感がかけらもないことだ。


 それは羊屋の演出の「わちゃわちゃ感」による。リモコンで動く木製のおもちゃの汽車が舞台上を走り(それを追いかける者がいて)、ボーイスカウトたちが舞台のあちこちでもぞもぞ何かをし、黄色っぽいライトの中で縁日も登場する。「わちゃわちゃ」と私が表現するのは、他人のことを気にせずにそれぞれの方向を見てる人たちが集まってる雑多な状況、というイメージ。彼らを見ていると、「鮭であれひよこであれ、彼らは彼らの人生を生きている、なぜならそれがやることだから」というシンプルな事実がストンと胸に落ちてくる。


 際立って本作を面白くしたのが芝居の途中で役者一人ずつがスタンドマイクに向かって語る時間。それを羊屋はスタンダップコメディに見立てたらしい。作品上の人物たちと、それを演じている役者というレイヤーの違う存在を同時に板に載せることが、「誰もがただ生きていること」を見せているようでユニークである。そのうえ、役者たちの語る内容がいい。例えばムー役の田坂哲郎は「演劇やっているアーティストとして、親でも先生でもない変なおじさんであり続けること」を語る。闘うアーティストの遠藤麻衣は「美術館で脱ぐ彼女のパフォーマンスや、田部光子の活動を通して、使われがちな『政治的』という言葉を引き合いに『ありのまま(=裸)であること』」を語る。スズエダフサコも「子を持つこと、育てること、家族になること、主婦であること、一人の人間であること」をポップに語る。神戸浩の「体に穴が開いてしまいましたー…」は芝居の一部なのかそうでないのか分からないけれど、その言葉の鮮烈さが刺さる。役者たちが「本人として生きている言葉」をはさむことで、ニンゲンとして立って見えてくる、それが本作に見事に合致していてとても面白かった。


 まん中に据えられたシーソー。偏って、また反対に偏って、ギッコンバッタン。最後のシーンは、まっ平らになって静かに水平に回る。どちらかが落ちたまま(上がったまま)ではなく、バランスを保ちながらフラフラ真っ直ぐに、ただ水平に回っている…この優しさも含めて、「ただ生きている」が描かれている作品である。

2024.03.12

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プロフィール
柴山麻妃

●月に一度、舞台芸術に関係するアレコレを書いていきまーす●

大学院時代から(ブラジル滞在の1年の休刊をはさみ)10年間、演劇批評雑誌New Theatre Reviewを刊行。
2005年~朝日新聞に劇評を執筆
2019年~毎日新聞に「舞台芸術と社会の関わり」についての論考を執筆

舞台、映画、読書をこよなく愛しております。
演劇の楽しさを広げたいと、観劇後にお茶しながら感想を話す「シアターカフェ」も不定期で開催中。
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