劇ナビFUKUOKA(福岡)

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『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』チェルフィッチュ

2025年8月3日(日)14:00~ @熊本県立劇場 演劇ホール舞台上

●『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』チェルフィッチュ

作・演出:岡田利規

出演:安藤真理、徐秋成、ティナ・ロズネル、ネス・ロケ、ロバート・ツェツシェ、米川幸リオン

舞台美術:佐々木文美

音響:中原楽(KARABINER inc.)

サウンドデザイナー:佐藤公俊

照明:吉本有理子(MAHIRU)

衣裳:藤谷香子

舞台監督:川上大二郎(スケラボ)

演出助手:山本ジャスティン伊等(Dr.Holiday Laboratory)

熊本公演照明オペレーター:花輪有紀(MAHIRU)

英語翻訳:オカワアヤ

宣伝美術:前澤秀登

プロデューサー:永野恵美(precog)、黄木多美子(precog)

プロジェクトマネージャー:遠藤七海

プロジェクトアシスタント:千田ひなた(precog)

製作:一般社団法人チェルフィッチュ

共同製作:KYOTO EXPERIMENT

企画制作:株式会社precog

主催:公益財団法人熊本県立劇場

後援:熊本日日新聞社


 言葉が持つ、うっすらとした暴力性――暴力的な言葉という意味ではない――というものが浮き彫りになる芝居である。岡田利規のこの試みが言語の(ひいては芝居の)可能性を開くことに繋がるものだったのかもしれないが、その手前で私は、我々が言語に縛られる窮屈な存在であること、それだけ言葉が我々を支配する力が大きいことを思い知らされた気がしたのだ。


 本作の舞台は宇宙船イン・ビトゥイーン号の中。4人の乗組員が、「わたしたちの言葉の衰退が著しいのでそれをなんとか食い止めたい。あわよくば盛り返したい。そこで地球外知的生命体に私たちのこの言葉を習得させるという壮大な計画」のために宇宙の旅をおこなっているという設定である。


 本作の最大の特徴は、ノンネイティブの役者が日本語でセリフを言う芝居だということだ。そしてAIロボットと地球外知的生命体を日本語ネイティブの役者が演じている。「チェルフィッチュ」の岡田利規が4年前から始めた「日本語を母語としない俳優たちと、日本語の芝居を作る」という試みである(2023年に初演)。

 言葉に対して意識的にさせる仕掛けがいくつもある。まずはその仕掛けを取り出してみたい。


 言うまでもなく大きな仕掛けは、日本語ノンネイティブの話者が日本語で会話をするということだ。そこに、ネイティブの役者がAIロボットと地球外知的生命体として加わっている。明らかな「他者(異物)」が、日本語話者の観客にとって「普通の」言葉を話すわけだ。そこに第三の言語として、コーヒーマシーンの声が入る(入退室の扉にも声があった記憶があるが、私の捏造かも)。この宇宙船でのマジョリティは隊員と呼ばれるノンネイティブで、外見も外国人らしい(注意が必要な一文だがやり過ごしてほしい)。他方でAIロボットはネイティブの日本語を話すが外国人のような見かけ、地球外知的生命体は被り物こそしているけれど見える容姿は金髪のイマドキの若い日本女性だ。そしてコーヒーマシーンの声には実体がない。「言葉(発話)」についてだけでなく、発話者の外見との関係に意味を持たせているのは明らかだ。


 ロボットや地球外知的生命体が使う言葉の硬さも興味深い。「とどのつまり/たまさかに/いわく言い難い/筆舌に尽くしがたい…」など口語ではなかなか登場しない(しかしとんでもなく文語体というわけではない)言葉を使うのが、他者の2人なのだ。


 隊員同士が話す(宇宙の)音楽とは何かという話題も象徴的だ。あれやこれやと言葉をこねくり回しているなかで、地球外知的生命体のサザレイシに対して音楽を「空気のヴァイブレーションを音なるものへと変換したもの」として説明するに至ると、それが「言葉(発話)」も同じであることを示唆していると気づく。そこに意味を載せる、意味を見出す、意味を伝える…のは音楽も言葉も同じである。


 こういったいくつもの仕掛けの中でとりとめもなく言葉について考えていき――私がたどりつくのは、冒頭に書いた「うっすらとした言葉が持つ暴力性」だった。例えばノンネイティブが日本語を話す時に、その拙さがその人自身の価値を損なわせていることはないか。「まだ」うまくしゃべれないと判定を下したり、言葉のせいでうまく伝わらないと切り捨てたり、ということもあるだろう。逆に外国語を話す時に多くの人がうまく伝わっているか怖れ、うまく話せないことに引け目を感じる。たかだか「空気のヴァイブレーションを音なるものへと変換した」に過ぎない言葉が、もちろん意味を伝える重要な役割があるからだが、私たちの中で大きな支配力を持っているのだと思う。(別のレベルの話になるが、「英語」という言語の更なる暴力性についても思う所がある。そしてその英語で本作に字幕が出ていた点について、気にかかっている)


 そこで、「うまく」話せない隊員たちと、「うまく」話せるロボットとの序列的な関係が意味を持ってくる。言葉が持つ「支配力」が、少なくともこの場(イン・ビトゥイーン号)に於いては通用していないわけだ。そしてこの構造の逆転の先に、「うまく話す」とはいったい何かという疑問に行きつく。例えば彼らのミッションが遂行されて、どこぞの知的生命体に彼らの言語を習得してもらうことができたとしよう。その時に習得されるべき言語は隊員たちの(日本語ネイティブにはたどたどしく聞こえる)あの話し方であってロボットの流暢なそれではないとされ、そこでの「うまい」は私たち日本語話者にとっては流暢に聞こえない言葉を指すことになるだろう。芝居において彼らの序列は変わらないかもしれないが、少なくとも本作を見ている観客にとっては、序列化された関係を言葉で揺さぶる効果がある。


 言葉そのものを暴力のカードとして使うことは歴史的にも繰り返されてきた(支配者が被支配者の言葉を奪い、自分たちの言葉を押し付ける施策)し、この宇宙船イン・ビトゥイーン号の目的は舞台を宇宙に変えただけで植民地時代と同じである。だが本作が中心的に扱うのはもう少しデリケートな、言葉そのものが持つ暴力性…のはずだったが、終盤に、客席と舞台に間に置かれた小さな宇宙船の窓を隊員たちが交互にのぞき込むシーンが出て、私たち観客がのぞき込まれているという気分になった。観客は、客席から窓の外の宇宙に存在することになったのだ。ということは、隊員たちが自分たちの言葉を教え込もうとしている相手は、ひょっとして私たち…? つまりは言葉に振り回される存在だと言われている気がした。

2025.09.01

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柴山麻妃

●月に一度、舞台芸術に関係するアレコレを書いていきまーす●

大学院時代から(ブラジル滞在の1年の休刊をはさみ)10年間、演劇批評雑誌New Theatre Reviewを刊行。
2005年~朝日新聞に劇評を執筆
2019年~毎日新聞に「舞台芸術と社会の関わり」についての論考を執筆

舞台、映画、読書をこよなく愛しております。
演劇の楽しさを広げたいと、観劇後にお茶しながら感想を話す「シアターカフェ」も不定期で開催中。
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