2025年8月30日(土)、31日(日)12:00~ @博多座
●『きらめく星座』こまつ座
作:井上ひさし
演出:栗山民也
出演:久保酎吉、松岡依都美、平埜生成、瀬戸さおり、粟野史浩、大鷹明良、木村靖司、後藤浩明、宮津侑生、神野幹暁
音楽:宇野誠一郎
美術:石井強司
照明:服部基
音響:山本浩一
衣裳:中村洋一
ヘアメイク:佐藤裕子
振付:謝珠栄
アクション:渥美博
音響監督:国広和毅
歌唱指導:満田恵子
宣伝美術:ささめやゆき
演出助手:戸塚萌
舞台監督:松嵜耕治
統括:井上麻矢
宇宙について考える時、翻っていつもわが身の小ささを感じる。わが身だけでなく、この地球上でうごめいているヒトという存在がとても小さく、塵のような存在に思える。宇宙から見れば、私たちヒトが歩んできた道(歴史)はどのように映っているだろう…その戦いに意味があったように見えるだろうか。
井上ひさしの『きらめく星座』は、昭和15年から16年冬までの東京ある一家の物語だ。レコード店「オデオン堂」を営む小笠原家、そこには主人と、かつて歌手だった若い後妻と、先妻の長女、居候の広告文筆家とピアノ弾きが暮らしている。そこに陸軍に入ったはずの長男が脱走したという一報が入る。「非国民の家」と非難されるのを避けるために長女は傷痍軍人と結婚するが、その相手は強固な愛国主義者。さらに長男を追う憲兵が見張りのために小笠原家に間借りをすることになり…時々顔を見せる「非国民の脱走兵」の長男…。世の中は次第に軍事色を強めていく。ジャズが禁止されそのうちに日本の流行歌も軍歌にとってかわられ、オデオン堂も畳むことになる。ついにはそれぞれが異なる道を歩むことを決意する晩で物語は終わる。
「宇宙からの目」を強く意識させる芝居だ。第二次大戦が始まる昭和15年から16年というわずかな間のどこにでもあるような一家を描いているのだが、随所に星空に思いを馳せる言葉がはさみこまれているからだ。最初は唐突にも聞こえる星空への言及(「東京の夜空の真南にペガサスがかかると、時刻はちょうど八時です」だったか)だが、次第に観客も星空を見上げている気になり、最後まで見終わった時には「宇宙からの目」でこの過去の歴史の一幕を見ていたことに気づく。というのも、(大団円に終わったかに見えた直後に)全員が防毒マスクを装着し客席を向いての終幕、そして壁にかかったカレンダーは真珠湾攻撃の前日となっている、つまり「この一家のこの先の運命」を想起させる形で終わるからだ。――舞台上の彼らは知らない、これから起こる悲惨な未来を、私たちは知っている――戦争に突入し、兵にとられ、飢えに苦しみ、家族を失うつらさを味わい、空襲に遭い、異国での過酷な日々と生死をかけて引き揚げる…そういった悲劇的な未来を。ラストシーンで突如として観客は未来を知る「超越した存在」になり、あるいは「宇宙(神)の目」で彼らを観ていることになる。そして未来を知らず懸命に明るく生きる彼らが、哀れで悲しくて、描かれてもいないその先を想像して涙することになる…芝居としてこの仕掛けが見事である。
宇宙からの視点という意味では、木下順二の『子午線の祀り』を思い出す。平家物語をベースに、天の視点から源平の壇ノ浦の闘いを描く芝居だ。(私は野村萬斎演出のものしか見ていないが)木下のそれはどこか飄々としていて、それこそ人間のどんな悲痛な心の叫びであっても葛藤であっても宇宙の理においては「自然の摂理、大勢に影響のない、とるに足らない出来事」だという冷めた視線がある。だからこそまさに「諸行無常」が浮き彫りになるのだが(そしてそれに付随する、人の悲しみや悔しさなども)、私にとっては彼らに感情移入をすることはなく、涙を誘うものではなかった。平家の人々と時間的距離がありすぎるという理由もあるだろうが、他方で本作の場合は、小笠原家の明るさに笑みがこぼれ、流行歌とともに気持ちが載せられ、彼らに親近感を覚えたがゆえに感情移入したということだろう。
もう一つ言っておかねばならないのは、本作においてなくてはならない「流行歌」についてだ。流行歌なんて「高尚な」音楽ではないと、所詮は時代が過ぎたら忘れ去られるものと軽んじる向きもあるだろう。しかし、明日から戦地に赴く若い男性二人が最後の晩にもう一度「市川春代の『青空』を聞かせてください」とレコード屋にやってくるシーンでもわかるように、屈託もなく明るい流行歌だからこそ胸に染みることがあるのだ。時代が反映されているから流行歌に価値があるのではない、時代が求めるから流行歌には価値があるのだ。初めて聞く戦前の流行歌を耳にしながら、彼らはこれらの歌のおかげで胸に希望を灯すことができたのだろうと涙が止まらなくなった。
私たちは太古の昔から、つらい時、悲しい時、窮屈な時、自分を鼓舞する時、折に触れて星空を眺めて生きてきたのだろう。幸せな気持ちで星空を眺める日々だけがくればいいのに…、ガザの人たちはどんな思いで星空を眺めているだろうと(眺めることができているだろうかと)…そんなことを考えた。
追記:実は本作、期せずして二日続けて見た。一日目の観客のマナーが悪く(携帯電話のバイブ音が響く、なぜか入退をくり返す人が数名)、唖然とした。二日目は全く違って、おかげでどっぷりと舞台に浸かることができたのだが…。思わずこのことを書きたくなるぐらいのマナーの悪さだった…。
2025.09.22
カテゴリー:
2025年8月3日(日)14:00~ @熊本県立劇場 演劇ホール舞台上
●『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』チェルフィッチュ
作・演出:岡田利規
出演:安藤真理、徐秋成、ティナ・ロズネル、ネス・ロケ、ロバート・ツェツシェ、米川幸リオン
舞台美術:佐々木文美
音響:中原楽(KARABINER inc.)
サウンドデザイナー:佐藤公俊
照明:吉本有理子(MAHIRU)
衣裳:藤谷香子
舞台監督:川上大二郎(スケラボ)
演出助手:山本ジャスティン伊等(Dr.Holiday Laboratory)
熊本公演照明オペレーター:花輪有紀(MAHIRU)
英語翻訳:オカワアヤ
宣伝美術:前澤秀登
プロデューサー:永野恵美(precog)、黄木多美子(precog)
プロジェクトマネージャー:遠藤七海
プロジェクトアシスタント:千田ひなた(precog)
製作:一般社団法人チェルフィッチュ
共同製作:KYOTO EXPERIMENT
企画制作:株式会社precog
主催:公益財団法人熊本県立劇場
後援:熊本日日新聞社
言葉が持つ、うっすらとした暴力性――暴力的な言葉という意味ではない――というものが浮き彫りになる芝居である。岡田利規のこの試みが言語の(ひいては芝居の)可能性を開くことに繋がるものだったのかもしれないが、その手前で私は、我々が言語に縛られる窮屈な存在であること、それだけ言葉が我々を支配する力が大きいことを思い知らされた気がしたのだ。
本作の舞台は宇宙船イン・ビトゥイーン号の中。4人の乗組員が、「わたしたちの言葉の衰退が著しいのでそれをなんとか食い止めたい。あわよくば盛り返したい。そこで地球外知的生命体に私たちのこの言葉を習得させるという壮大な計画」のために宇宙の旅をおこなっているという設定である。
本作の最大の特徴は、ノンネイティブの役者が日本語でセリフを言う芝居だということだ。そしてAIロボットと地球外知的生命体を日本語ネイティブの役者が演じている。「チェルフィッチュ」の岡田利規が4年前から始めた「日本語を母語としない俳優たちと、日本語の芝居を作る」という試みである(2023年に初演)。
言葉に対して意識的にさせる仕掛けがいくつもある。まずはその仕掛けを取り出してみたい。
言うまでもなく大きな仕掛けは、日本語ノンネイティブの話者が日本語で会話をするということだ。そこに、ネイティブの役者がAIロボットと地球外知的生命体として加わっている。明らかな「他者(異物)」が、日本語話者の観客にとって「普通の」言葉を話すわけだ。そこに第三の言語として、コーヒーマシーンの声が入る(入退室の扉にも声があった記憶があるが、私の捏造かも)。この宇宙船でのマジョリティは隊員と呼ばれるノンネイティブで、外見も外国人らしい(注意が必要な一文だがやり過ごしてほしい)。他方でAIロボットはネイティブの日本語を話すが外国人のような見かけ、地球外知的生命体は被り物こそしているけれど見える容姿は金髪のイマドキの若い日本女性だ。そしてコーヒーマシーンの声には実体がない。「言葉(発話)」についてだけでなく、発話者の外見との関係に意味を持たせているのは明らかだ。
ロボットや地球外知的生命体が使う言葉の硬さも興味深い。「とどのつまり/たまさかに/いわく言い難い/筆舌に尽くしがたい…」など口語ではなかなか登場しない(しかしとんでもなく文語体というわけではない)言葉を使うのが、他者の2人なのだ。
隊員同士が話す(宇宙の)音楽とは何かという話題も象徴的だ。あれやこれやと言葉をこねくり回しているなかで、地球外知的生命体のサザレイシに対して音楽を「空気のヴァイブレーションを音なるものへと変換したもの」として説明するに至ると、それが「言葉(発話)」も同じであることを示唆していると気づく。そこに意味を載せる、意味を見出す、意味を伝える…のは音楽も言葉も同じである。
こういったいくつもの仕掛けの中でとりとめもなく言葉について考えていき――私がたどりつくのは、冒頭に書いた「うっすらとした言葉が持つ暴力性」だった。例えばノンネイティブが日本語を話す時に、その拙さがその人自身の価値を損なわせていることはないか。「まだ」うまくしゃべれないと判定を下したり、言葉のせいでうまく伝わらないと切り捨てたり、ということもあるだろう。逆に外国語を話す時に多くの人がうまく伝わっているか怖れ、うまく話せないことに引け目を感じる。たかだか「空気のヴァイブレーションを音なるものへと変換した」に過ぎない言葉が、もちろん意味を伝える重要な役割があるからだが、私たちの中で大きな支配力を持っているのだと思う。(別のレベルの話になるが、「英語」という言語の更なる暴力性についても思う所がある。そしてその英語で本作に字幕が出ていた点について、気にかかっている)
そこで、「うまく」話せない隊員たちと、「うまく」話せるロボットとの序列的な関係が意味を持ってくる。言葉が持つ「支配力」が、少なくともこの場(イン・ビトゥイーン号)に於いては通用していないわけだ。そしてこの構造の逆転の先に、「うまく話す」とはいったい何かという疑問に行きつく。例えば彼らのミッションが遂行されて、どこぞの知的生命体に彼らの言語を習得してもらうことができたとしよう。その時に習得されるべき言語は隊員たちの(日本語ネイティブにはたどたどしく聞こえる)あの話し方であってロボットの流暢なそれではないとされ、そこでの「うまい」は私たち日本語話者にとっては流暢に聞こえない言葉を指すことになるだろう。芝居において彼らの序列は変わらないかもしれないが、少なくとも本作を見ている観客にとっては、序列化された関係を言葉で揺さぶる効果がある。
言葉そのものを暴力のカードとして使うことは歴史的にも繰り返されてきた(支配者が被支配者の言葉を奪い、自分たちの言葉を押し付ける施策)し、この宇宙船イン・ビトゥイーン号の目的は舞台を宇宙に変えただけで植民地時代と同じである。だが本作が中心的に扱うのはもう少しデリケートな、言葉そのものが持つ暴力性…のはずだったが、終盤に、客席と舞台に間に置かれた小さな宇宙船の窓を隊員たちが交互にのぞき込むシーンが出て、私たち観客がのぞき込まれているという気分になった。観客は、客席から窓の外の宇宙に存在することになったのだ。ということは、隊員たちが自分たちの言葉を教え込もうとしている相手は、ひょっとして私たち…? つまりは言葉に振り回される存在だと言われている気がした。
2025.09.01
カテゴリー:
「劇ナビFUKUOKA」は、株式会社シアターネットプロジェクトが運用管理しています。
株式会社シアターネットプロジェクト
https://theaternet.co.jp
〒810-0021福岡市中央区今泉2-4-58-204