劇ナビFUKUOKA(福岡)

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『おんたろうズ~老々行進曲~』PUYEY

2024年12月14日(土)14:00~ @枝光本町商店街アイアンシアター

●『おんたろうズ ~老々行進曲~』

作・演出:高野桂子

音楽:五島真澄

出演:立石義江、日高啓介、五島真澄、隠塚詩織、松永檀、高野桂子

舞台美術・舞台監督:森田正憲(株式会社F.G.S.)

照明:磯部友紀子(有限会社SAM)

音響:横田奈王子(有限会社九州音響システム)

衣装:服のよろず屋よこしま屋

宣伝美術:河村美季

演出助手;橋本乙音

制作補佐:菅本千尋(演劇空間ロッカクナット)

制作:菅原力

取材協力・介護監修:相部真也(介護支援専門員・社会福祉士)

介護指導・介護監修:横尾啓太(介護福祉士)


 衝撃的だった『おんたろう』の第三作目。シリーズ物は回を重ねるごとに残念なクオリティになっていくことが多いが(特に映画)、このおんたろうシリーズはそうではないところが素晴らしい。


 今回の作品で私が考えたこと。それは、「受け入れる」ということについてである。まずは本作の内容を紹介したい。


 エモ神さまの使いである「おんたろう」たちは、ネガティブエネルギーをためている人間の所にやって来て、その感情エネルギーが爆発して怨念化する前に、心の内を吐き出すよう促す活動をしている。今回現れたのは、もうすぐ80になる友枝さん(立石義江)のところ。彼女は夫が遺した「満望うどん」を一人で切り盛りしてきたが、転倒し太ももを骨折。生来の前向きな性格のおかげでリハビリも順調、だがそんな折に熱湯でやけどを負ってしまいついに店を閉じる選択をする。明るくふるまうが、店を開けたいという気持ちと息子や孫に迷惑をかけたくないという気持ちの狭間で「早くお迎えに来てほしい」とすら思ってしまう。

 さて友枝には息子・秀希(日高啓介)と孫の旭(五島真澄)がいる。秀希は仕事でドロドロに疲れており、旭は家計を気にして大学進学を諦めようとしている。また、友枝が通うデイサービスの職員ツルモト(隠塚詩織)も元気のよさが空回りしてしまい、自分の存在価値を疑うほどに落ち込んでいる。彼らの前にも現れるおんたろうたち。本当の声を出せと伝えるが、彼らは互いを思うからこそ自分の声を飲み込んでしまう。そんな中、友枝が行方不明になる騒ぎが起こる。


 これまで2作の「おんたろう」シリーズと大きく違うのは、おんたろうたちの直接の働きかけでそれぞれが変わった(気持ちを吐露した)わけではない、ように見える点である。前2作では、ストレスを与える相手に、あるいはストレスフルな環境に対して、声を上げることで事態の改善が望めた。だからおんたろうたちは人々の背中を押すだけでよかった。だが本作では、自分の気持ちを言えない理由が、相手(周囲の者)を思いやっているからである。言うことによって相手に負荷を与えてしまう、気遣わせてしまう、無理をさせてしまう…だから自分さえ我慢すればすべてうまくいくのだ…こういうストレスのため方もまた、現実によくあることだろう。ストレスの描き方を単純化していない点が、3作目でも観客を飽きさせず、感情移入させることに繋がっている。上手な脚本だと思う。


 さらに気持ちがすっきりするのは、誰かのセリフで誰かが救われる構造にしている点。「年なんて取るもんじゃないね」とつぶやく友枝には介護士の長尾の「みんないずれ年をとるんですよ、堂々としてればいいんです」という優しい一言。「(今後の事は)俺に任せておけ」という秀希には「任せられません。一人で抱え込んではダメです」というケアマネの安心する一言。将来に不安を持つ孫・旭には友枝の「何にもなれなくてもあんたが納得できれば成功よ」という大きな一言。自信をなくしているツルモトにも「(手作りののれんを見て)力が湧いた」という友枝の元気をくれる一言…。この世は互いが互いを支えて成り立っているのだと、じんわり伝わる。


 それが、自分を受け入れて、他者を受け入れるということなのかもしれない。


 人生はままならないことが多いし、生き続けるということは(つまり高齢になっていくということは)「ままならない自分」を受け入れていかねばならない最たるものかもしれない。けれど、本作のように、きっと誰かが受け入れてくれる、認めてくれる、抱きしめてくれるはず。この世も捨てたものではないよ、そんな高野桂子(作・演出)のメッセージだと受け止めた。


 誰がどのおんたろうに変身しているのかを、舞台上でチェックすることにかまけていたら、なんと、デイサービス利用者の久保を秀希(友枝の息子)役の日高がやっていることに気がつかず、最後に「えぇ!」。さすがお見事。


 付け加え。介護の補助器具の変化(手術直後の車いすに始まりリハビリが進むにつれて器具が変わる)や、デイサービス利用者に出すお茶にとろみ粉を入れたシーンなど、細かい点がリアルで好感が持てた。

2025.01.09

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『モルヒネ』 morphine Plan #01 第10回九州戯曲賞大賞作品

2024年12月12日(木)19:30~ @ぽんプラザホール

●『モルヒネ』

脚本:中島栄子(アクションチームJ-ONE)

演出:木村佳南子(非・売れ線形ビーナス)

出演:土佐のぶゆき(<劇>池田商会、(劇)かっこん党)、富田文子(とみいさんぷれぜんつ)仲千恵(ACALINO Pro)、峰尾かおり

音響・照明・道具:ステージクルー・ネットワーク

写真:あだな


 息苦しい芝居だった。 


 時折ひびく、水の中で空気が漏れるゴボゴボ○o。という音がさらに観ている者を苦しくさせる。


 これまでにも多くの「観るのがつらくなる」ほどの作品を観てきたが、この作品ほど「空気が欲しい」と思った作品はない。どうしてだろう――。人を圧迫する時代や社会を描いた物、死別や病気など「普遍的な」個人的経験を描いた物、性的マイノリティなど他者との違いや軋轢に葛藤する作品、それらと違うのは何なのだろう。


 そう書いていて気がついた。社会との接点がない芝居だからだ。社会と繋がれない(・・・・・)人の芝居だからだ。隔絶した小さな場所で、うまく繋がれないことに苦悩している――小さな水槽で空気を求める魚のように見える――、これはそんな人の物語なのだ。


 発達障害の父、重病でもう余命いくばくもない母を持つ、30代の貴実子。つらい気持ちを押しやりながら、母の死に支度やその後について、母と話す。父は貴実子の気持ちなど意に介さないマイペースぶりで、貴実子は、この父の暴力と身勝手のせいで母が病気になったのだと忌々しく思っている。だがその父は70を過ぎて発達障害と診断されていて、病気の「せいで」父に怒りをぶつけることもままならない。そして自分もまた、ずっとずっとうまくやれない、他の人のようにうまく生きてこられなかった。自分も、父と、同じ…。


 社会とうまく繋がれない感覚は多くの人に覚えがあるだろう。小さなグループ内で少し浮いている気がするだとか、無視されただとか、上手に会話ができないだとか。うまく人とやっているように見える人も「自分を押し殺している」と思っているのかもしれないし、「うまく繋がる」のは難しいことではある。


 しかし、きっとそういうこととは違うのだ。「何が普通で、何をやったら人と同じようになれるのか、人とうまくやれるのか、わからない」という、ただ自分が生きるだけなのにそれについて回る苦しさなのだろう…またゴボゴボという水の音が聞こえてくる気がする。水の中で、息が出来なくて、どこにも息がつける逃げ場がないんだねと貴実子に思わず心の中で語りかけてしまう。はっきりと「発達障害」という表現が出てきた芝居は私にとって初めてで、そしてその本人の胸の内が明かされた芝居も初めてで、こんなにも苦しいのかとたまらない気持ちになった。


 次第に息がしにくくなる母には、その溺れるような苦しさから解放してやるためにモルヒネが投与される。貴実子は思う、モルヒネのようなものがあれば私もふわっとごまかして生きていけたんかなぁ…。でも母が緩やかに死に向かうように、仮に人生のモルヒネがあったとしてもそれは緩やかに死に向かうだけの処置でしかない。


 ただ、芝居の終盤、あれだけ(母の)仏壇を置く部屋を片付けてくれなかった父が、庭に大きな倉庫を2つ建て、そこに荷物をぶち込んで部屋をきれいにする。あははと脱力して笑う貴実子を見て、貴実子が望むモルヒネとは違うけれど、これも一つのモルヒネなのかもしれないと救われた気になった。本質的な解決策になっていないとか、これからだってトラブルは続くとか、そんなことは百も承知。でもその瞬間は怒りや苦しさをふわっと忘れてまあいいかと思えるそんなモルヒネも、実はこの世にはあちこちにあるんだよと言われている気がしたからだ。


 貴実子役の富田文子が熱演。わずかな出演だが親戚のおばさん役の峰尾かおりの「立ち方」が中高年女性そのものだと感心した。

2025.01.07

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『新生物』飛ぶ劇場

2024年12月7日(土)14:00~ @J:COM北九州芸術劇場 小劇場

●『新生物』飛ぶ劇場

作・演出:泊篤志

出演:寺田剛史、葉山太司、脇内圭介、文目卓弥、徳岡希和、乗岡秀行、横山林太朗、松本彩奈、木下遥斗、太田克宣、中川裕可里

照明:磯部友紀子((有)SAM)

音響:横田奈王子((有)九州音響システム)

音楽:トマリタツオ

舞台美術:森田正憲((株)エフジーエス)

宣伝美術:二朗松田

制作:藤原達郎、木村健二


 フェイク画像の精度が上がり、AIが何でも回答を用意してくれて、おしゃべりロボットが孤独を癒してくれる。AIが日常にじわじわ入り込んでいる今、現実と虚像の区別がつきにくくなっている。画面越しに回答をくれる相手をてっきり人間だと思っていたり、欲しい言葉をくれるおかげで恋心を抱いてしまったり(そしてそれが詐欺だったり!)、人形と分かっていてもかけがえのない相棒となったり。現実と虚像(空想)の境界があいまいになっている…そう感じる人は多いと思うが、そうはいっても自分の身体だけはさすがに実態があると確信している人は多いのではないか。


 本当にそうだろうか?


 例えば腕を失った人が、無いはずの腕に痛みを感じるという話を聞いたことはないか。歯医者で麻酔をかけられたら口まわりの感覚は何も無いという経験はないか。精神的にショックを受けていたら、味がしない、涙が出ていても気がつかない、声が聞こえなくなる…なんてこともあると聞く。思っている以上に身体は外界と不可分かもしれず、そして身体感覚は確たるものではないようだ。

 前置きが長くなったが、私はここ数年、「ロボット(AI、アンドロイド)などが社会と生活に欠かせない今、『私』という存在をどう捉えるか」に関心を持っている。詳細は省くが、簡単に言えば「どこまで有ればその人だと言い切れるのか」「何が失われると(変わると)その人ではなくなるのか」。その点において飛ぶ劇場の新作『新生物』は私に面白い視点を与えてくれた。


 太った男・八満(葉山太司)と空地(寺田剛史)がスポーツジムで出会う所から話は始まる。八満には年の離れた妻がいるが、彼女はタイの俳優に夢中で八満には見向きもしない。引きこもりの空地と励まし合いながら身体の改造を、つまりは痩せる努力をする。とはいえ、安きに流れるのが人の常、ジム会員に勧められて安易に「脂肪を溶かす薬」を手に入れ痩せ始める二人。その先には何がある?


 舞台設定はほんの少し先の未来――人体のパーツの取り換えが可能な時代。だから薬の副作用で足を切断することになった空地はそこまでダメージを受けることなく足を新しく替える。だが痩せたのに妻には相手にしてもらえない八満は、なんと妻が熱を上げているタイの俳優ナントカ君の顔に替えてしまう。(よく考えれば、今もある義足や美容整形と変わらないのだが、芝居では「パーツ交換」という仕掛けを近未来的だと感じてしまった。この辺りが上手なところかもしれない)


 見かけを別の人にしてしまった「ぼく」は一体誰なのか? ハードSFならここから哲学的な問いをはらみつつ展開するのだろうが、本作はその点は甘い。例えば外見が変わった八満のアイデンティティーについては触れられないし(痩せたことで職場でも「ドラ先輩」から呼び名が変わるが、「呼び名が変わっても本質は変わらない」といった言葉で片付けてしまう)、顔が変わった後が描かれないから彼の精神的な変化も分からない。空地にしても足が変わる(しかも「元気で強そうな足」を選んだことで左右の足が異なることになる)その違いが何を生むのか、それも展開としては面白そうだが触れられることはない。その代わりにカセットテープのA面/B面という例えを出してその間に「本当の自分」がいる、といった言葉が登場する。…本当の自分という確たるものがあるという前提がナイーブで、物足りない。


 だが面白いのは、「本人が」自分だと考える拠り所ではなく、「周囲が」その人であると認める根拠は何なのかを考えさせてくれた点だ。痩せただけでなく妻好みの俳優の顔に替えた八満に対して、妻は激しく拒絶する。「生理的に無理」「気持ち悪い」と。もちろん八満のその行動に対しての拒絶であるが、逆に言えば外見が全く変わったその男を八満であると疑っていないわけである。そこには「そんなことまでやってしまうのは夫の八満以外にありえない」という絶対の信頼もある(笑)。だからこそ、「スキンシップはイヤだけど同居程度ならいい」はずの夫の事が「生理的に無理」になってしまうのだ。妻の感情が生々しいだけに、その言葉をぶつける相手のことを、頭ではなく生理的に(つまり理屈でなく本能的に)「夫・八満だ」と理解していることが分かる。そしてその感覚、とても納得できるのである。私たちは日ごろから、行動、しぐさ、癖、話し方、においだけでなく、その人が持つ雰囲気とか佇まいとかこちらに与える印象とか…言葉で説明しにくいあいまいな何かで、その人だと確信しているのだから。私たちは、思っている以上に動物的な感覚で、他者理解をしているんだろう。芝居ゆえの生々しさが、そんな事を考えさせてくれた。


 そうそう、パーツを入れかえた八満として包帯を取って現れる脇内圭介が、八満役の葉山の癖をかなり真似ていて感心した。うまいなぁ。

2024.12.24

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『MIRAGE』(transitory)Damien Jalet × Kohei Nawa(名和晃平)

2024年10月5日(土)19:00~ @Theater 010

『MIRAGE』(transitory)


振付:ダミアン・ジャレ

舞台美術:名和晃平

音楽:トーマ・バンガルテル

衣裳:ANREALAGE

照明:吉本有輝子

舞台監督:夏目雅也

ダンサー:エミリオス・アラボグル、湯浅永麻、ウィンソン・フレイリー、三東瑠璃、牧野李砂、リ・カフア(Lico)、福士宙夢、加賀谷一肇



 ダンスのスペクタクルについて考える。


 身体の芸術であるダンスは、身体そのものが芸術であり身体そのものがスペクタクルである。芯のある身体が、驚異的な身体能力で生み出す、目にも鮮やかな動と静。ストイックに身体だけで見せるからこそ、逆説的だがそこに静かで鮮烈なスペクタクルがある。


 もちろん、大掛かりな舞台セットを使ったものもあれば、演劇的(シアトリカル)なもの、コメディと見紛うようなもの、音と音楽を巧みに使ったもの…などダンスの幅は広く、一括りにできはしないことは承知している。だがここでは一旦そういったものは横に置き、身体と、身体を強調するための何か―ー例えば、水、光、スモーク――だけのダンスが持つ、スペクタクルについて考えている。


 ダミアン・ジャレ×名和晃平の新作『MIRAGE』を見たからだ。


 わずか8名のダンサーが、客席の背後からゆっくりと入ってくる。薄衣をまとったヌーディーな彼らは、一定のリズムで舞台上を歩く。AIロボットのような(つまりはぎこちない昔のロボットではなく、スムーズで柔らかい動き、だが決して人ではないような)均質な動きで、「歩く」。進んで、ストップして、後ろに下がって、進んで、ストップして、後ろに下がって…薄茶色にもやがかった狭い舞台で、互いに接触もせずにその動きをくり返していく。人形、雑踏、軌跡、未来、手探り。私の中にいくつもの言葉が生まれては消えていく。


 張り出した半円型の中央ステージに、彼らが互いに複雑に絡んで円になり、長い手を開き閉じ、絡ませた足を開き閉じるシーン。花のような、万華鏡のような、生き物のような。「一糸乱れぬ群衆の動き」には見る者に快感と、時に圧力を与えるが、ここには圧力はない。しなやかな変化(へんげ)は万華鏡のような華やかさがあるが、その一方で、複雑な身体の絡まり合いは美しくもグロテスクで、その四肢と躰が外から内側に閉じる様は食虫花にも見えた。惹かれて吸い込まれてがんじがらめになっていくわたし…。


 床一面にスモークがたかれた中でダンサーが踊るシーンでは、彼らの身体は半分ほど白い煙で見えない。上半身だけが白い煙から見え隠れする。それは一見して雲上のようでもあるけれど、私はガス室を想起した。彼らの身体が半分以上見えないからだろうか、あるいはスモークの独特の匂いに(私はそれが好きではない)ダンサーが苦しい思いをしているのではないかと考えてしまったからかもしれない。


 天井から降る一縷のキラキラした光を、ダンサーが身体にまとっていく様子も言葉を失う。それは金粉? 暗闇の中で天から身体に振る金の筋は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を彷彿とさせた。同じような山海塾の砂にはそんな事を思いもしなかったのに。暗闇の中でうごめく身体と天からの筋、の連想だろうか。そしてその金はダンサーに貼りつき、身体の形が少しずつ露になっていく。生々しさを人工的な膜で覆うと、その生々しさは不気味になる。軽やかに見えた肉体は途端にうごめく物体に見える。


 うすぼんやりとした舞台奥で縦に連なる身体が登場する。縦に連なっている? そして機械的に揃って開いて閉じて…? 何をどうしているのかまったく分からない。普通でない何かがここで行われているとしか言いようがなく、目を凝らしてみるけれど、想像をはるかに超えた「それ」が動いているとしか言えない。バロック建築のような…異国の仏像のような…。見えるのに見えない、見せているのに見せない、そんな狭間にいることにゾワゾワする。


 舞台作品において「スペクタクル」と言ったとき、ある種の外連味(けれんみ)を揶揄するニュアンスがある。あるいはエンターテインメントとしての「見世物」と割り切る見方もあるだろう。だが身一つのダンスにおいてのスペクタクルは、それらと一線を画す。瞬間的な身体の動線が、なぜか観客には可視化され残像として刻まれる。ありえないはずの動きがあまりにも自然で、その形の美しさを凝視してしまう。

 本作はそれ以上に、見る者の「眼」を意識して創りあげている。「どう見られるか」を考慮するのは舞台において当たり前のことだが、本作は特に、観客の視線が彼らの「かたち」を創りあげている気がするのだ。スモークで隠す身体と浮かび上がらせる部分。金粉のおかげで露になる肉体の形。生々しくも絡み合う複数が一つの生き物に見える、細部と全体。超絶した身体技法で創りあげている動きを「見えるが見えない」ように見せる手法。単純に「見る/見られる」ではなく、また「見せる/見る」でもなく――観客は徹底的に「視線」を支配されてしまっているような――圧倒的なスペクタクル。


 そこにあざとさや抵抗を感じないのは、それがとんでもないレベルのダンスであり、濃密な空間だから。そこにいることを観客が、喜びに震えているからである。


 気がつくと、静寂の中で、地面から上へと放たれていく光を身体で感じている一人の女性ダンサーが目の前にいた。…その光はDNAの二重らせんが未来へと繋がっているように見えるし、彼女が生命の光と戯れる生き物にも見える。そのとき、最前列に座っている私の頬にピッと何かが飛んで来て、その光は水なのだとわかった。ああ、私はこの世界(スペクタクル)に自分の眼を預けてしまっている――変な表現だけれど――そんな気がした。


 そのダンサーの背後に黒人ダンサーが表れ、静かに歌いはじめた。彼のウィスパーボイスは、彼女の耳元で始まり、やがて天に向かってゆっくりと消えて行った。

2024.10.31

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『ジーザス・クライスト=スーパースター』(エルサレムバージョン)劇団四季

2024年9月12日(木)13:30~ @キャナルシティ劇場

『ジーザス・クライスト=スーパースター エルサレムバージョン』

作詞:ティム・ライス

作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー

企画・製作:四季株式会社

初演日本版演出:浅利慶太

出演:加藤迪(ジーザス)、佐久間仁(ユダ)、守山ちひろ、高井治、吉賀陶馬ワイス、大森瑞樹、佐野正幸、大空卓鵬、玉木隆寛、山田充人、真田司、劉昌明、櫻木数馬、下平尚輝、礒江拓也、香取直矢、森健心、永瀬俊秀、鈴木智之、松尾篤、安斎恵太、愛染洸一、橋岡未浪、寺内淳、坂井菜穂、黒田菓穂、小野実咲季、高倉恵美、辻茜、大石眞由、片倉あかり、濱嶋紗穂里、山田志保、志田奈津帆、北中芹佳、立花梨奈

訳詞:岩谷時子

美術:金森馨

照明:沢田祐一

振付:山田卓

レジデント・ディレクター:荒木美保

ステージング担当:磯津ひろみ

美術監修:土屋茂昭

指揮:渋谷森久

稽古進行管理:北澤裕輔、吉賀陶馬ワイス、松尾篤、大森瑞樹、小島光葉、山田充人










 約30年ぶり(?)の『ジーザス・クライスト=スーパースター』である。「♪ジーザスクライスッ ♪ジーザスクライスッ だーれだあなたは だーれだ♪」の部分だけが頭にこびりついているが、実は内容は全く覚えていなかった。この世界的なロングラン作品については初演当時から数多の劇評があるだろうから改めて書くのも尻込みするが、ほぼ初めて(何しろ30年ぶり)に観劇し、これは書きたいと強く思った。俗に言われる「ロックミュージカル」の側面より興味深い点があったからである。


 あらすじはこうだ。キャッチコピー「キリストの最後の七日間」が表す通り、人々に崇められた奇跡の人ジーザスがユダに裏切られ十字架にかけられるまでの最後の七日間を描いている。パレスチナの地に生まれた大工の息子・ジーザスは、圧政に苦しむ人々に対して奇跡を起こし、新しい教えを説いていた。「救い主」「神の子」と称えられるようになったジーザスは、自らも「神の子」だと言うようになる。だが弟子の一人であるユダはその様子を危惧する。「神の子」と名乗ることはローマ帝国への反逆になるのではないかと。庶民にとって高価な香油を惜しみなく使いながら貧民を「救う」というのは間違っているのではないかと。マグダラの娼婦マリアを贔屓するのは神の子にあるまじきことではないかと。しかしジーザスは聞く耳をもたない。ユダは、いつか化けの皮がはがれるだろう彼を見るくらいなら、いっそのこと私の手で「神の子ジーザス」を葬ろうと、彼を裏切るのだった。総督ピラトは彼を罰する事に躊躇するが、彼を熱狂的に求めた民衆こそが同時に彼を痛めつけよと叫ぶ。ジーザスは許しを請うこともせず、神の子として磔にされるのだった…。


 まず興味深かった1点目は、群衆の怖さ、気持ちの悪さである。愚者の身勝手かつ際限のない欲望は、個人よりも集団になった時の方が発揮される。ジーザスを崇める行為は、彼が望むものを与えてくれないと分かった途端に、豹変する。彼を罵り、十字架にかけろと迫るのだ。(特殊なことではない、今だってひとたび気に食わないことがあれば遠慮なく有名人を公開リンチしているではないか。こと、インターネットが普及して各人が匿名で言葉を発信できるようになってからは、圧倒的な数で対象者に襲い掛かるようになっている。)

 群衆が盲目的にジーザスを祀り上げる姿も狂気の沙汰、手のひらを返したようにジーザスを罵る様子も異常。個人が「群衆」となった途端に生まれる「一枚岩的な高揚」の不気味さを、蠢く(うごめく)演技とジーザスを取り囲むフォーメーションで見事に表現していて虫唾が走った。本作はジーザスとユダの物語かもしれないが、その異常性や暴力性を際立たせた点で群衆の物語と見ることもできるだろう。


 次に、ジーザス像についてあれこれと考える機会になった。というのも、偶然に少し前に読んだ本で「初期キリスト教時代では復活するキリストは死をも克服する英雄として描かれていたが、1300年以降に徐々に痛々しい受難のキリストへとイメージが変わっていく」ことを知ったからである。確かに本作の「ジーザス青年がキリストになっていく」プロセスは、覚悟を持って愚かな人間たちの罪を引き受けた英雄の姿には見えない。39回の鞭打ちシーン――数えながら鞭を鳴らし、着衣は破れ背中が赤く染まっていく、そして打たれる度に身体がのけぞり徐々に頭が下がり力を亡くしていくジーザス――や、磔のシーン――力のない無抵抗な身体が十字架に載せられ、広げられた腕に打つ釘の音が響き、手首から赤い血が流れる――などのリアルな描き方は、奇跡の存在ではなく、無辜(むこ)の受難としか見えない。


 ただ本作が面白いのは、「聖人の受難話」ではなく「未熟な人間が聖人になってしまう話」にした点だ。奇跡を起こしてしまったことで「神の子」にさせられ、本人もその気になり、でも怖くなって否定もするけれど、結局死へと追いやられキリストに「なった」…ようにしか見えないのだ。実際に裁判のシーンにおいて、死罪を宣告するピラトがジーザスの事を「無知な傀儡」といったニュアンスのセリフを吐く(正確なセリフは不明)。ジーザスをあまりにも人間的に描きすぎて、信者でない私も躊躇してしまう程だ(そりゃ宗教関係者からは猛反発を受けるだろうよ)。


 そこでキーマンとなるのがユダ。この点が三つ目の興味深かった点である。彼だけが「神の子」ではない「人間のジーザス」を知り、愛し、彼の未来を案じる。ジーザスと比してユダは男性的な印象で、最後にいたってはモビルスーツ?のようなロックスターの衣裳になって歌う。裏切り者のユダが、(運命に)翻弄される痛々しいジーザスとは違う、力強い存在として描かれている。本作におけるユダとはどういう存在なのだろう。


 よくよく考えてみると、人間味あふれるジーザスのこの姿は「観客の目=客観的な姿」のような気がしていたが、徹頭徹尾ユダからの目線である。ジーザスの行為を「あなたを救い主と信じた群衆」「群衆たちを惑わすような」と歌い、彼を「哀れな人」だと歌う。そうして「誰かが追い詰めるくらいなら私がやる」と裏切りに走るわけだが、描かれているのは結局ユダの心持なのである。ユダ目線の「人間ジーザス」像を観客は見せられていたということなのか。…そこまで考えると、これは壮大なユダのジーザスへの愛の物語だったのではないかとすら思えてくる。ユダを力強い存在として描いていると感じたのも当然のこと、彼が主体であり、彼が描いたジーザスの話なのだから。ユダから見た真実、これも「神話」の解釈の一つ(聖書と言わずあえて「神話」と表現するが)だということだろう。終盤の圧倒的なリアリズム演出(鞭打ち、磔、血、そして舞台中央にぶっ垂れられる大きな大きな十字架…)に飲み込まれながら、私たちは壮大なフィクションを見せられたと言えるのかもしれない。


 ロングラン作品は、少しずつ演出が変わるし出演者によって雰囲気が変わることもある。観客が鑑賞した年齢や経験によっても印象や解釈は変わるだろう。30年前に私はなにを感じたのかなと考えながら、新たな興味を与えてくれる本作の奥深さに、それこそがロングランたる所以なのだろうと感じた。

2024.10.14

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プロフィール
柴山麻妃

●月に一度、舞台芸術に関係するアレコレを書いていきまーす●

大学院時代から(ブラジル滞在の1年の休刊をはさみ)10年間、演劇批評雑誌New Theatre Reviewを刊行。
2005年~朝日新聞に劇評を執筆
2019年~毎日新聞に「舞台芸術と社会の関わり」についての論考を執筆

舞台、映画、読書をこよなく愛しております。
演劇の楽しさを広げたいと、観劇後にお茶しながら感想を話す「シアターカフェ」も不定期で開催中。
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