劇ナビFUKUOKA(福岡)

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『Plant』劇団言魂

2024年4月13日(土)18:00~ @枝光本町商店街アイアンシアター

●『Plant』 劇団言魂


作・演出:山口大器

出演:池高瑞穂、片山桃子、森唯美、横佐古力彰、山口大器

照明:菅本千尋(演劇空間ロッカクナット)

音響:吉田めぐみ

演出助手:瓦田樹雪

稽古補佐:木下海聖(有門正太郎プレゼンツ)

制作:劇団言魂

宣伝美術:山口大器


 物言わずただそこに生きている植物と、他を支配し君臨したい人間。この対比と、両者の思いもかけぬ結びつきが面白い。劇団言魂『Plant』は、突拍子もない発想で魅了しながらいろんなことを考えさせる、興味深い作品である。


 近未来なのか、パラレルワールドなのか、今の日本とはほんの少しだけ違うどこかが舞台。人々の右手にはマイクロチップが埋め込まれており、それは個人情報管理はもとより他者との関係を築く上で重要な役目をはたしている、そんな時代である。


 円(森唯美)が1か月ぶりに実家から恋人・直と同居している部屋に戻って来ると、部屋はもぬけの殻で代わりに大きな植物が残されていた。劇団主宰で探偵業のバイトもやっている友人・優人(山口大器)やその後輩で植物を研究している君丸(横佐古力彰)の協力も仰ぐが、直は見つからない。そんな折に、直のことを知っているらしい女の子(片山桃子)に会い、直がどうやら植物になったのではないかと気がつく…。


 面白かったのは、マイクロチップによって「合意」をとるというエピソードである。――自宅に他人(友人であっても)が来る場合に、互いの右手のひらを合わせることで(=マイクロチップをかざすことで)、「招きました/強引に押し入っていません」との「合意」をとる。芝居の稽古において演出家がダメ出しをする際には「問題発言をしていません/傷ついていません」との「合意」をとる――。現実でも2023年末に「性的合意アプリ」なるものが開発されたというニュースを見たのだが、まさに現在と地続きにありえそうなこのフィクションが実に示唆的で面白い。ハラスメントはあってはならないことだが、その一方で加害者になるのを恐れるあまり「問題がないと思っているかどうか」をいちいち確認させてほしいという心理…バランスの取り方が難しい現代をよく表している。すべてにおいて「合意」をとれば解決ではないか!と、短絡的にチップの「合意」に頼りたくなる気分はわかる。いや、この「合意」すら強制的に合意させられましたと言われることもあろう、そのためにチップ所持者の血流や心拍数から心理状態を検知して…? 本作ではそこまでの話はなかったが(心理状態の検知は別のエピソードだった)皮肉な現実味がある。


 物語の肝となるのは「人間の植物化」。植物になってしまった直はモラハラ気質だった(そのために円がプロポーズを受け入れられず実家に帰っていた)ことが分かるのだが、優人もまた劇団で過去に強権的だったことが明らかになる。今ではすっかり反省したかに見える優人だが、少しずつ木になりかけている。後輩・君丸への態度からも優人のパワハラ気質は治っているわけではなく…どうやら、支配的で、高圧的な態度をとる人間が植物になっていくらしいとわかる。そのことに納得してしまうのは、ハラスメント加害者に対して「お前は(植物のように)黙れ!」と言いたくなるからだろうか。因果関係なんて一つも説明されていないのに妙な説得力がある。


 ユニークなのは優人の植物化していく様子。芽が出て、葉が生え、枝が出て、木になり、足から根が出て張るようになり…変化していくビジュアルはインパクト大。優人役の山口大器の焦る様子が面白さに輪をかけている。物言わず中央に鎮座している大きな木(=直)との対比もあり、最終的にこうなるのだろうと悲劇的な結末も思わせるのに、植物化する優人のビジュアルにやはり笑ってしまう。本人にとっては悲劇だが周りにとっては喜劇、の典型かもしれない。―――と笑って見てはいたが、そして優人が最後の最後までセクハラまがいのことを必死に叫び続けることもあって見ている時は気がつかなかったが、これはいじめの構造にも似ている。他者からの奇異な目に晒されるということ、被害者が言葉を失ってしまうこと、そんな目に遭わされた者たちの復讐が「植物化」ということなのか。


 本作は徹頭徹尾、被害者と加害者は分断され、分かり合えないと言っているように聞こえる。例えば直も優人も反省し自分の態度を改善しようと試みていたらしいのにそれでも植物化してしまうという結論。人の根本は簡単には変わらないという絶望の表れだろうか。また、いずれは完全な植物になるのに、それでも火をつけて優人を殺してしまおうとする君丸の姿には、虐げられていた者は加害者を絶対に許さないという悲痛な決意が見える。


 となると、「被害者/加害者」と厳密に分かれて、決して分かり合えず、人は変わることがないという、かなりきつめの人生観を持った芝居ともいえる。そんななか登場する桜(池高瑞穂)は怪しげな宗教めいたことを主張するしお近づきになりたくないタイプではあるが、「(マイクロチップに振り回されて、)みんな人を見ることをやめている」といった批判は一理あるし、この芝居を中和する役目を担っていると言えるのかもしれない。


 シーンに合わせて天井に吊られてテーブルが降りて来たり、植物化していく様子の美術がよくできていたり、演劇ならではの仕掛けも楽しませてくれた。

2024.05.12

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ミュージカル トッツィー

2024年3月8日(金)17:00~ /2024年3月19日(火)17:00~ @博多座


●ミュージカル トッツィー

脚本:ロバート・ホーン

演出:スコット・エリス

出演:山崎育三郎、愛希れいか、昆夏美、金井勇太、岡田亮輔/おばたのお兄さん、エハラマサヒロ、羽場裕一、キムラ緑子

音楽・歌詞:デヴィッド・ヤズベック

振付:デニス・ジョーンズ

演出補:デイブ・ソロモン

オリジナル装置デザイン:デヴィッド・ロックウェル

オリジナル衣裳デザイン:ウィリアム・アイヴィ・ロング

翻訳:徐 賀世子

訳詞:高橋亜子

音楽監督・指揮:塩田明弘

日本版装置デザイン:中根聡子

照明:日下靖順

音響:山本浩一

衣裳:中原幸子

ヘアメイク:岡田智江


 1982年公開の映画『トッツィー』が40年前の映画であるにもかかわらず今見ても古臭く感じられないのは、「男性が女装すること」のコメディではなく、「男性が女装することで浮き彫りにした社会の矛盾」を笑うコメディだからだ。この映画を、なぜ現代(いま)、ミュージカル舞台化するのかと考えると――いや逆に、まだこの映画のテーマが十分に通用してしまうこと、過去の遺物になっていないことこそが問題なのだと気づく。本作、「山崎育三郎の女装」が宣伝として独り歩きしていた感があり一抹の不安もあったけれど、映画同様に(アップデートして)「男性が女装することで初めて見えてくるジェンダー問題」を描いた舞台になっていた。


 物語の舞台はブロードウェイ。売れない俳優のマイケル(山崎育三郎)は実力はあるものの自信過剰でこだわりも強く、トラブルメーカーとして仕事を干されてしまう。そんな中、元カノのサンディ(昆夏美)がオーディションを受ける話を聞き、マイケルは女装して「ドロシー・マイケルズ」としてオーディションを受け、合格してしまう。個性的で歯に衣着せず建設的な意見を言う姿は、同じ舞台の仲間にも好評、かつプロデューサーにも気にいられ、あれよあれよと主役に抜擢され一躍大スターになる。共演者のジュリー(愛希れいか)と演技論を交わしお互いのことを知るうちに、マイケルはジュリーに恋をし、ある日思わずキスをしてしまう。マイケルを女性だと思い込んでいるジュリーは戸惑うが、一大決心をして「彼女」の愛を受け入れようとする。ところが…。


博多座内の撮影スポット ドロシーと同じポーズで撮る人が多かった

 映画同様に本作も社会における女性の苦悩を描こうとしている。例えば、女性は「謙虚であること」が求められること(なぜ、自分の意見を言えば「ヒステリー」と言われるのだ?)、「勘違い」させないようにふるまいに気をつけなければならないこと(言い寄られる方が悪いのか?)、若い女性が男に依存せず自らの力で成功する難しさ、などである。正直に書けば、これらに関しては映画の方がしっかりと伝わる。「女性として」目の当たりにしたドロシーが強引な手法で変えていく事で、周囲にも変化が現れるさまが描かれているからだ。一方、舞台である本作は、ジュリーに語らせて「まとめて示した」ように見える。


 しかし、映画からアップデートされた部分が興味深かった。例えば、元カノ・サンディが欲しがった仕事(役)を(女装しているとはいえ、男の)マイケルが奪った形になってしまったことについて、親友のジェフ(金井勇太)に「女が男の股間からパワーを取り返す時代に、(女装した)男が女のポストを取り上げるのか」とはっきり批判される(映画ではその点はなぁなぁなまま)。もちろん本作が成り立たないので仕方がない設定だが、ジェンダーバイアスを浮き彫りにする前にこの矛盾について断りを入れておこうという姿勢に、なるほどとうなづく。


 また女性の若さに価値を置きすぎる日本において、中年女性であるドロシーが若い男優に一目ぼれされるという設定はなかなかに大きな意味を持つ。「恋愛は若い女性のもの、中年女性が恋愛の対象になるはずがない、ましてや若い男性からの求愛なんて」という偏見を打ち破るインパクトは大きい。それだけでない。ドロシーは言う、「おばさんだって願望はあるのよ」と。中年女性は恋愛において主体にもなるのだという主張は、男性・若い女性のみならず中年以上の当人たちにとっても、当たり前だが新しいメッセージになっている。


 ドロシーからキスをされたジュリーが、じっくり考えた挙句に、自分はレズビアンではなかったけれどと言いつつドロシーを受け入れようとする点も、映画との大きな差異で価値がある変更だ。映画ではジュリーはドロシーを拒否する(ドロシーが男性であると明らかにして歩み寄る所で終わる)が、本作はジュリーがドロシーを受け入れる、いや、積極的に欲しいと手をのばす。以前なにかの本に、セクシュアリティはプロセスとして捉えるべきだと書かれていたのを思いだした。「ヘテロセクシュアル/ホモセクシュアル」だから「異性/同性」がほしいのではなく、その相手が欲しいのだという気持ちに従えば、セクシュアリティは絶対の属性ではなくプロセスに過ぎないという――これこそが2020年代だからこその描き方かもしれない。そしてこういったジェンダーやセクシュアリティに関する丁寧なアップデートが、日本にいい刺激を与えるだろう。


 最後にキャストについて。昆夏美がとんでもなく魅力的で強く印象に残る。早口で音程の差が激しい難曲『未来が見える』を、ヒステリックにテンション高く、そしてかわいく歌いこなしている。マイケルの親友ジェフを演じる金井勇太も、好感度の高い楽しい存在である。ジュリーに言い寄る傲慢な演出家はエハラマサヒロが演じるが、嫌味なく笑わせてくれる。彼を中心にしたアンサンブルのダンスは真似したいほど面白い。


 ただ、個人的には、ドロシー役(女装時)は良いが、マイケル役の山崎育三郎にはピンと来なかった。というのも、自信家で傲慢で性格に難ありのマイケルにしては、山崎の声に色気がありすぎる。二役をやったがゆえに際立ってそう感じられたのかもしれない。

2024.05.02

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『インヘリタンス―継承―(前・後編)』

2024年3月9日(土)13:00~ @J:COM北九州芸術劇場 中劇場

●インヘリタンス―継承―

作:マシュー・ロペス

演出:熊林弘高

訳:早船歌江子

ドラマターグ:田丸一宏

出演:福士誠治、田中俊介、新原泰佑、柾木玲弥、百瀬朔、野村祐希、佐藤峻輔、久具巨林、山本直寛、山森大輔、岩瀬亮、篠井英介、山路和弘、麻実れい

美術:二村周作

照明:佐藤啓

映像:松澤延拓

音響:長野朋美(オフィス新音)

衣裳;伊藤佐智子(ブリュッケ)

ヘアメイク:稲垣亮弐

ムーブメント:柳本雅寛

インティマシーコーディネート:西山ももこ

舞台監督:齋藤英明

大道具:伊藤清二(C-COM)

小道具:西村太志(高津装飾美術)

広報:森明晞子


 これは「記憶」の継承である。


 わずか数十年の、それもアメリカ社会に限定した話ではあるが、性的マイノリティ(本作では男性同性愛者・ゲイに特化している)がこの異性愛社会でどのように生きてきたのか、その記憶のバトンを渡していく作品である。冒頭で響く言葉「彼らには語るべき物語がある」――それは、個人やそのカップルたち固有の物語でありながら、同時にゲイとそのコミュニティの普遍的な物語である。


 物語の主軸となるのは2組のカップル。30代のエリック(福士誠治)と劇作家のトビー(田中俊介)、初老の不動産王ヘンリー(山路和弘)とウォルター(篠井英介)だ。彼らの人生を通して、ゲイが生きにくかった時代からエイズ禍、そして同性婚が認められた現代までの歴史が描かれる。


 歴史…とはいえ、描かれるのは基本的に個人的な話だ。痴話げんか、浮気による関係の破綻、失恋、恋人の元彼の存在(本作では元彼ではなく男娼だった恋人の「元客」なのだが)、病気、死。例えばこれを男女のカップルに置き換えても少し手を加えるだけで十分に成り立つほど、「よくある個人的な話」である。ところがそれが男性同士のカップルになった途端に、あらゆる面において社会的な意味が付加されてしまう。恋愛関係は隠さねばならず、欲望に満ちた出会いの場は性暴力の温床であり社会からは「HIVウィルスの温床」といった偏見の目にさらされることになり(だから性暴力の問題が顕在化しにくい)、エイズはゲイの病気だとの偏見が流布し、単なる婚姻にこぎつけるまでに長い年月を要し、(それらの問題によって)一人で最期を迎える者も多くいるだろう。


 だから、彼らは生きるだけで「政治的な存在」にならざるを得ない。生きるだけで戦わざるを得ない。大文字の政治という点では、どの政党が政権を握るかは彼らにとって死活問題である。新しい恋人が共産党支持者と分かったとたん長年の友達がエリックから離れていったことからわかるように、彼らにとってそれは単なる主義主張の違いではない。暴力的に抑圧され、権利を取り上げられ、差別が助長される…作中でヒラリーか「あの男」か(名前すら出されない)の大統領選挙のシーンが大きな意味を持つのは、その結果によってアメリカでゲイとして安心して生きていけるかどうか大きく変わるからである。(「あの男」が再選される可能性がある2024年現在、これは物語ではなく「現実」だと改めて思った))


 小文字の政治という点でも、いくつものセリフがそれを反映している。例えば、「『ゲイ隠し』(の時代)が懐かしい、今やゲイが文化的指標になっている、ゲイカルチャーを盗用し…」といった一連のセリフ(注:正確ではない)。解釈するなら「ゲイ文化ってなんかお洒落だよね」という好意的「持ち上げ」方をされる時代にもなったけれど、それは決して喜ばしいことではない…なぜなら都合の良いところだけを「評価する・受け入れる」という上から目線の傲慢さの表れであり、イメージの反転に過ぎないし(つまりは一方的で独断的)、またその像に合致しないゲイの存在を認めないことにつながるし、ゲイコミュニティーの文化が都合よく異性愛社会に盗用され消費されているのだと感じる…それぐらいなら大切なものを守るという点ではゲイであることを隠していた時代を懐かしく思う…といった所だろうか。異性愛社会の中でゲイが生きていく事は、本人が望まなくても政治的存在にならざるを得ないということなのだ。


 「認知されるために頑張ってきた。でも文化的認知とゲイの認知は違う」というセリフもそうだ。ありのままの存在を認めてもらうという当たり前のささやかな要求が、なぜジャッジされ、否定され、戦わねばならないのか。テンポの良いセリフの応酬の中に彼らの苦しみや憤りや呆れや悲しみが詰まっている。


 ラストになって、今見たこの「物語」が、登場人物の一人であるレオの小説だったのだと気がつく。演出の熊林弘高は、舞台上に枠を作りその中でエリックたちの物語を展開させ、枠の外に置かれた椅子に小説家が座って、始終その物語を眺めているという構図を作った。(冒頭で小説家志願の青年たちにこの小説家が、なぜ書くのか、何を書きたいのかを問う形で本作が始まる。その小説家が枠の外から「物語」を見ているという構図だ)最初はこの小説家の「傍観」を「無責任な傍観者の私(たち)」に重ね合わせているのかと勘ぐりもしたが、いや、むしろ彼のまなざしは優しい。そこで改めて冒頭をふり返ると、本作が「いっそのことヘレンの手紙から始めよう」という『ハワーズ・エンド』の冒頭から始まっていたことを思い出し、つまりはこの小説家こそが『ハワーズ・エンド』の作者E・М・フォスターなのだと気がついた。(マシュー・ロペスが、『ハワーズ・エンド』にインスパイアされて本作を書いたと後から知った。)ゲイたちの物語、を書いたレオの物語、をフォスターが穏やかに見守っているという入れ子構造だったのだ。その構造が、「大切な物語を幾重もの箱にしまっている」姿にも見える。


 誰かを愛し、生きたこと。その存在の記憶を書き留めて繋いでいくこと。見終わってしみじみとその意味が身体に染みわたっていく。役者たちの演技は、新鮮で、生々しく、激しく、美しく、痛々しく、哀しく、「生」そのもの。どの存在も包み込んであげたいと思った。人を大切に愛しみたい、誰もがそんな存在であるし、そうできる人でありたいと、強く思える作品である。

2024.04.23

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『注文の多い料理店』注文の多い舞台公演実行委員会

2024年2月25日(日)11:00~ @さいとぴあ多目的ホール


『注文の多い料理店』

注文の多い舞台公演実行委員会

原作:宮沢賢治

脚本・演出:中嶋さと

出演:中嶋さと(FOURTEEN PLUS 14+)、百田彩乃(だーのだんす)、古澤大輔(FOURTEEN PLUS 14+ 劇団ショーマンシップ)

舞台手話通訳:野上まり(TA-net/福岡ろう劇団博多)

字幕:宮本聡(九州大学人間環境学研究院)

手話監修:八百谷梨江(TA-net)、福岡ろう劇団博多

舞台監督:吉田忠司(FOURTEEN PLUS 14+)

照明:中山京(good Light)

音響:諌山和重(Ride on CLAPS)

衣裳:倉智恵美子

音楽:吉川達也、岡田涼生

振付:百田彩乃(だーのだんす)











 演出家・中嶋さと(FOURTEEN PLUS 14+)が難聴者も楽しめる舞台作品を初めて手掛けたのは、2023年1月の『注文の多い料理店』だった(第二弾とはカフカの『変身』)。今回はその『注文の多い料理店』を、出演者や演出を変更しての再演である。一つの作品を上演後は「終わり」にするのではなく、前作より伝わりやすく、よりわかりやすく、より面白くを目指して大事に作り直し続ける姿勢は評価に値する。1年ぶりの本作については備忘録程度になるが、気づいたことを記録しておきたい。以後、前作と表記するのは、2023年1月の『注文の多い料理店』のことを指す。


 前作との大きな違いは3つ。1点目は会場である。前作はぽんプラザホール(福岡市博多区)にて上演、平土間の舞台(客席が見おろす形)だった。今作の上演はさいとぴあ(福岡市西区)の多目的ホールで、舞台も使用してはいたが基本的にはその前面(舞台から階段を下りた地の部分、客席最前列の前のスペース)を使って演技をしていた。舞台上はスクリーン(字幕)がメイン。だが客席前スペースとの差異を利用する形で舞台を使ってもいた。例えば料理店の最後の扉を開けるシーンでは、舞台に上がる階段にライトを当てそこを登っていくことでクライマックス感を演出。また字幕スクリーンが上がると歯を模した白い山形のオブジェが現れ、その左右には大きなナイフとフォーク、いよいよヤマネコの口の中に(いざな)われ進んでいくというイメージを具現化していた。基本的に動きのあるシーンは全て客席前面のスペースで行い、舞台は限られた使い方をするという方法で、中嶋の演出の工夫が見られると思う。ただ、不満を言えばどうしても「学校巡演の芝居」臭さを感じてしまう。これは多目的ホールを使用する限界と言っていい。今回の公演の目的をどこに置いたのか――出来る限り多くの難聴者に見てもらうことか、学校巡演に適した作品にすることか――にもよるが、やはり会場の制約は大きい。作品の洗練度も上げるなら会場を選んでほしいというのが正直なところだ。


 2点目の違いは、字幕の使い方。前作に比べて字幕で出来ることをさらに模索したという印象を受けた。前作の場合は、大きな扉の絵以外には基本的に文字で、その文字のフォントや大きさを変えるという「漫画のオノマトペ表象」が私には新鮮だった。今回は、始まる前からエフェクトをかけた森の写真?のような画面が映し出されており、作品の世界へと観客を誘う。またBGMのタイトルを一つ一つ字幕にしていたのも前作とはちがう所。元からついていたBGMの名前かもしれないが、「まよいの旋律」とか「スキンケアのお時間」などBGMが表したい内容を表示したことは難聴者に親切である。また音符や文字がパラパラと落ちるアニメーションの字幕は、デザインとしての機能も果たしている。私たちは「文字」の役割を「内容の伝達」のみだと思いがちだが、それを記号として、デザインとして、視覚的効果を狙うオブジェにしている。前作以上に字幕の可能性を追求していて、面白い。


 3点目はラストシーンである。ほぼ原作通りだった前作に比べ、今作はまだまだ料理店から抜け出せないような余韻を残して終わる。最初に扉を開いて猟師二人を料理店に誘っていくのも、最後に扉を閉めるのも、舞台手話通訳者の野上まりである。

 実はラストシーンの違いより印象に残ったのが、野上という舞台手話通訳者の存在である。彼女は舞台手話通訳者として、登場人物のセリフを通訳する時はその話者になりきった演技をするのだが、そうでないときは俯瞰的(・・・)()登場(・・)人物(・・)()眺める(・・・)立場(・・)になり彼らの行動に驚いたり呆れたりといった様子を見せる。「一部でありながら全体をも見る」存在、言ってみれば「狂言廻し」である。狂言廻しとは芝居において作品の進行をさりげなく観客に伝え導く役割のことで、それ自体は珍しくない。登場人物がとつぜん観客に向かって「この時はまだ~が起こるとはだれにも分からなかったのです」などと語り「観客と同じ現実の次元」におりて物語を進行させたり理解をサポートしたりする芝居もざらにある。しかしそれを舞台手話通訳者がやるということ、この特異性に強い関心を持った。


 というのも、舞台手話通訳者を難聴者のためだけの存在として考えたら(=健聴者はその存在を無視してもいいと考えたら)、この芝居において、作品世界と現実(観客)世界を行ったり来たりするような人物はいないことになる。ところが、野上は役者の一人でもあり、その存在感は抜群。従って、難聴者のみならずどの観客にとっても野上はなくてはならない登場人物であり、「全体を説明しながらも、時として猟師の言葉を語り、時として山猫の仲間として猟師を陥れあざ笑う」という不思議な存在を自然に受け入れることになる。中嶋はそのように演出している。


 手話通訳をする立場(対象は難聴者)でありながら、役者である(対象は全観客)、そして全体の音や声を通訳するという特殊性ゆえに、役柄を固定しないという不思議さ。実は、本作を見る1カ月ほど前に『こころの通訳者たち』という映画を見て、舞台手話通訳は「全体の通訳者であり全体の役者である」ことが求められると知ったところだった。もちろん手話ができる者なら誰でも舞台手話通訳をできるわけではなく、演出もその存在をうまく活かした上で芝居を作らねばならない。(言うまでもなく野上はかなり優れた手話通訳者であるし、演出の中嶋も舞台手話通訳の役割をしっかり把握してうまく彼女を活かしていたわけだ。)その意味でも、この舞台手話通訳者とは、従来の芝居においてはかなり斬新な存在ではないだろうか。何しろ、「部分(個々の通訳)でもあり全体(全体の通訳)でもある」、「部分(役者の一人)でもあり全体(芝居そのものを表現)でもある」存在なのだ。芝居の新しい可能性を開くことにつながる気がする。


 まだ舞台手話通訳という新しい存在は浸透していないが、難聴者だけでなく健聴者にとっても新しい芝居の可能性を開いていることが興味深い。野上まりという舞台手話通訳者の存在を得て中嶋がさらに新たな境地を拓いていくのが楽しみである。

2024.04.08

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『オデッサ』ホリプロステージ

2024年2月18日(日)13:00 @キャナルシティ劇場

『オデッサ』

作・演出:三谷幸喜

出演:柿澤勇人、宮澤エマ、迫田孝也

音楽・演奏:荻野清子

ナレーション:横田栄司

美術:松井るみ

照明:服部基

音響:井上正弘

衣裳:前田文子

ヘアメイク:高村マドカ

映像:ムーチョ村松

演出助手:伊達紀行

舞台監督:瀧原寿子







 三谷幸喜の新作を見るのは久しぶりである。古い作品の再演は去年も1,2本見たのだが、正直なところ昨今の彼の作品にそこまで関心はない。今回見る気になった理由は、字幕を使うと知ったから。このところ私は耳が不自由な観客も芝居を楽しめる字幕の可能性について興味がある。もっとも本作はそのための字幕ではなく、他言語間のディスコミュニケーションを字幕でより明らかにするという意図であるが。


 舞台は1999年のアメリカ・テキサス州オデッサという田舎町。夜も更けたころの道路沿いのダイナーに、日本人旅行者コジマ(迫田孝也)が老人殺しの重要参考人として連れてこられる。聴収をするのは遺失物係の日系人、カチンスキ―警部(宮澤エマ)。折しも連続殺人事件が起きていて、オデッサ警察はその捜査で手いっぱいなため遺失物係の彼女が担当させられたのだ。ところが彼女を含め警察の誰もが日本語を話せず、また旅行者コジマは英語が全く分からないという。そこで地元のジムで働く日本人男性スティーブ日高(柿澤勇人)に通訳を頼み、取り調べを進めようとする。そのうちに容疑者のコジマとスティーブが鹿児島出身の同郷者だと分かり、スティーブはコジマの無罪を信じて助けるべくウソの翻訳を重ねていく…。


 役者3名の「話しぶり」がいい。日本語が全く分からないカチンスキ―役の宮沢の見事な英語と、二か国語を喋り分ける柿澤の舌の回りっぷり。しかも鹿児島弁まで登場し(柿澤にとっては三カ国語みたいなものだろう。迫田は鹿児島弁「指導」をしたらしいからネイティブかな)、言葉が本作において重要であるだけに3名の口達者ぶりが肝だが、これは見事だった。


 そのおかげもあって、字幕内容とのギャップで観客は大いに笑うことができている。字幕は背面の壁に大きく翻訳を映しだすという方法で、字幕が必要になった時には壁が少し前面に動く仕掛け。彼らの心情に合わせて字幕のフォントや大きさを変えるという効果もあり見慣れない人には新鮮に映ったようだが、難聴者向けの昨今の舞台字幕は新しい工夫にも挑戦しているので取り立てて新鮮な驚きはなかった。


 さて「言葉」を操って笑いを生み出すといえば、三谷の初期の作品『笑の大学』を思いだす。()の作品はコメディ戯曲への検閲を、「わざと」誤訳することで検閲係の権力に巧みに抵抗していこうとする話だった。本作も「言葉」を操ることで「一方的にコジマを犯人に仕立て上げている警察の権力に抵抗している」という意味では同じ。ただ二つは全く似て非なる。重要な二点が全く違うのだ。一つ目は「言葉を操ることによる面白さ」が本作は単純という点だ。相手がまったくその言語を理解しないため、操るのが簡単ということである。もちろんバレそうになる所でいかにごまかすかという面白さはある。だが仲間内だけに通じる隠語で誰かを馬鹿にするとか、通じない他言語で罵詈を投げかけるとか、そういったいじめや差別と「相手が分からないことを利用する」という点で同じ構造だと思ってしまうと、この作品の笑いの質が高くないことに気づくだろう。


 二点目は、物語の先に残るものがあるかないかという点だ。『笑の大学』は、戯曲を修正したくない作家と当局の指示に従って削除したい検閲係の攻防が、やがて友情を生み出し傑作を生み出し、――そしてクライマックスのあるコトで静かな感動を呼ぶ芝居となっていた。ところが本作では全てのウソがばれたその先にあるのが、真犯人が明らかになるというだけ。どんでん返しではあるが、早い段階で想像はつくし、あくまでも推理小説のオチでしかない。コメディは楽しければいいのかもしれないが、あの名作と同じ「言葉を操ることによるコメディ」であることを考えれば、本作が三谷の縮小再生産作品であると言わざるを得ない。


 帰りながら、本筋には関係ない、言葉に付随する「余計な力」について考えた。異国の地で母国語や出身地の言葉を聞いた時に、親近感や根拠のない信頼感が生まれる不思議(スティーブもこれに騙されたわけだ)。また、ラストでコジマがスティーブに「お前の鹿児島弁はディープじゃない、お前の英語も大したことない、英語を喋れるやつなんてごまんといて上には上がいる」といったニュアンスの捨て台詞をはくのだが、このマウントも言葉には付いてまわるもの。言葉はコミュニケーションツールに過ぎないのに、言葉ほど余計なものがくっつくものもない。そう思う一方で、宮澤エマちゃんの流暢な英語に羨ましさを感じ、字幕を見て「分かるわかる」と安心する、そんな英語コンプレックスを持ってしまう私の矛盾…。いやいやその話は横に置き、役者たちの見事な滑舌に感嘆したと結んでおきたい。

2024.03.13

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プロフィール
柴山麻妃

●月に一度、舞台芸術に関係するアレコレを書いていきまーす●

大学院時代から(ブラジル滞在の1年の休刊をはさみ)10年間、演劇批評雑誌New Theatre Reviewを刊行。
2005年~朝日新聞に劇評を執筆
2019年~毎日新聞に「舞台芸術と社会の関わり」についての論考を執筆

舞台、映画、読書をこよなく愛しております。
演劇の楽しさを広げたいと、観劇後にお茶しながら感想を話す「シアターカフェ」も不定期で開催中。
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