『今ーちゃー』
脚本:岡部竜弥(末席ユニットちりあくた)
演出:松永琳太郎
出演:山下万希
前座:古典落語『たがや』 松永琳太郎
45分の短編だが、おかしくてじんわりとして、爽快な一人芝居。なるほど、全国学生演劇祭で大賞と審査員最優秀賞を受賞しただけある。
ド田舎に住む青年(山下万希)が、走っている。時期が来れば田植えを手伝うのが当然、誰もが自分のことを知っている、そんなド田舎。彼はそこから逃れたくて、逃れたくて、逃れたくて…走っている。比喩ではあるが、舞台上で山下は走っている。青年は見事に大学合格でド田舎からの脱出に成功。東京では、バイト・サークル活動・そして恋と「スマートな(つもり)」の学生生活を満喫していた、はずだった。が、失恋し挫折し病気にもなる。そんな時に母から届いた米・電話・そして方言が、弱った心に染みて、青年は離れた田舎を想い「おいはやっぱ、そがんまで好かんことなかったかも」とつぶやく――。びっくりするほど素直な作品だ。
本作に好感が持てる理由は、一つに田舎をあざ笑っているわけではないことがある。もちろんコテコテの方言に始まって、上京する青年への餞別が「故郷の土」だの、「えーご(英語)ばついとうTシャツ着て、くろ(黒)―してポケットのいっぱいついとるかっこよかズボンば履いてリストバンドつけ」ているのが都会のファッションだの、田舎臭さを誇張し笑わせてくれるのだが、それが「どんなに嫌だと思っていても、どんなにダサくても、自分には大切な場所なのだ」というラストがあるからバカにしているようには感じない。
「走る」という動きが本作の肝だ。全編を通して山下はかなり「走る」のだが、その行為は人生の例えでもある。一心不乱に目的にむかって走るのも、転んで挫折するのも、走り終えて(あるいはこけたり疲れたりして)息荒く倒れ込むのも、物理的な行動であると同時に人生の在り様でもある。観客は、青年が走り、転んで、寝転んで泣いて、そんな姿を彼の心情に重ね合わせて見てしまうわけだ。ことに終盤は、走る勢いが衰え、転倒し、喘ぐ山下の肉体が、青年のつらさや寂しさや悲しさと重なって、単なる比喩を超えて観客の感情を揺さぶる。単純だが時間の経過を俳優と共有する舞台だからこその仕掛けともいえる(いつだったか『最強の一人芝居フェス INDEPENDENT』で冒頭から最後まで走り続ける作品を見たことがある。本作同様に、強烈な印象を残している)。
さらに言えば、この「走る」という行為は若さの象徴でもある。田舎から逃げるのも、好きな人のもとへ行くのも、失恋を振り切るためにも、若さは人を走らせる。走り続ける彼の行き先はどこなのか。タイトル『今―ちゃー』は、現在(今)から未来(フューチャー)へと走る姿を指しているのかもしれない(*)。
方言の使い方も(あざといが)効いている。冒頭はほぼ笑いを誘うために方言が強調され、途中は標準語で展開し、最後は「拠り所」であり「大切な愛すべきもの」の象徴として方言が使われる。懐かしさ、愛しさ、アイデンティティーの根幹…など、啄木を持ち出さずとも、方言が喚起するものは容易に想像できるだろう。ベタだからこそ、観客の心をダイレクトに捉えている。
小道具はあるにせよ素舞台で、そして喋りと走る動きだけで、45分も飽きさせずに見せた点も素晴らしい。今の自分に重ねて、あるいは若き日の自分と重ねて、そして遠くで頑張る我が子と重ねて。
本作の観客はそれぞれ温かい気持ちで帰途に就いたに違いない。
*劇団によると、タイトル『今-ちゃー』は「未熟な」という意味の英語immatureと掛けているとのこと。それなら発音的に「今ちゃー」じゃないかなと思ったので、私の勝手な解釈は削除せずに載せておきます。
**本文中の方言のセリフは正確ではない可能性があります。ご了承ください。
2023.05.30
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芝居は、何かが起こること(ドラマ)が前提になっている。淡々とした日常を描くとかあえてドラマティックなものを排除するとか、そんな作品もあるがそれでも何かしらは「起こる」。また何も起こらないことを長々と描く作品もあるが、それはその後のドラマを効果的に見せるためなんて意図があることも。
ところがPUYEYの『おんたろうズ』は、ドラマが起こる前こそが印象に残る。なぜなら、ドラマを「起こせない」人々の物語だから。我慢して、反論や不満を溜めこんで言葉を失っている、そんな姿があまりに印象的な作品だったから。そして、それはほぼ全ての登場人物が同じ状態だったからである。
感情の神様・エモ神様に派遣された、おんたろうたち。人間の怨念はこの世界を破滅させるため、そのネガティブエネルギーを下げるのがおんたろうたちの役目である。そうして、とあるおんたろうが目をつけたのが小学校の教員・早浪純(手嶋萌)。仕事に追われ、先輩の教員には呆れられ責められ、自分の能力の限界に落ち込んでいる彼女の前に現れたのは「おんたろう00830369(サンロック)」だった。サンロックは「本当の声を出すんだ」と励まし彼女の背中を押す。
物語が単純でないのは、先に書いたようにストレスを抱えているのが早浪だけではないということを徐々に見せていくからだ。嘘をつく生徒も、エナドリを飲むことで軽く乗り切っているように見える同僚も、教育の場を良くしようとする教頭も、皆がそれぞれに言いたいことも言えず、溜め込んでいる。前作『おんたろう』では、おんたろうがサポートする人も1人で不満の矛先も一か所だったと記憶しているが、本作は「誰もがみんな」本当の声を出せずに悩んでいる(だからそれぞれに寄り添うおんたろうがたくさん登場)。その意味でも前作はコメディの範疇だったが本作は現代の空気を描いた「社会派」と言えなくもない。ただし、本当の声を出せば物事が好転する…というのはやっぱりファンタジーなのだが。
なぜなら、本当の声をあげても変わらない、むしろ本人にとって事態がより悪くなることだってあるからだ。そしてそれが怖いから、本当の声なんて出そうとも思えないのが現実である。そんなシビアな現実を目の前にしたら、おんたろうたちはどうするのだろう? 『おんたろう』シリーズが描く世界は、現実よりも少し単純かもしれない。でも、現実よりも希望と優しさに満ちていて、それでも一歩を踏み出せば私たちの暮らしは少しずつ良くなるに違いないと思わせてくれる。
それにしても、前作でも一人二役の早変わりには驚かされて大笑いしたが、本作でもやっぱり驚かされて大笑いした。対極のサンロックと常川先生(隠塚詩織)を組み合わせるなんて、高野桂子(作・演出)は策士だなぁ。
2023.05.05
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2023年4月20日、演戯集団ばぁくうによる「読演」が最終公演を終えた。2010年4月から13年に亘って、なんと143回も演ってきたという。
聞きなれない「読演」という言葉だが、簡単に言えば短編小説を読み演じるというものだ。劇団主宰の佐藤順一いわく、
気になる作家や好きな作家の小説から得た惧れやらを、「話す」という行動で、舞台上に再現する。登場する人物一人ひとりを、そこに存在させ、その時代を、そこに籠められた作家の情熱や思想を、演じての技量で身近に感じて貰う。そのために演じ手は探求・研鑽・稽古を続ける。…それが、読演です。
立ち動かない一人芝居…とでも言えばわかるだろうか。これを、佐藤は毎月10日と20日の月二回、六本松のアトリエ戯座にて上演してきた。
最終公演は、太宰治の『佐渡』と、特別にもう一篇やってくれた。実は『佐渡』はその10日前にもやってくれたのだが、同じ演目なのに雰囲気が全く違う。前回はうら寂しい佐渡の空気が太宰の退屈と共に伝わってくる印象だったが、今回は面白いことに太宰のうじうじした(?)独白がユーモラスに感じられ、太宰の人間臭さが伝わってきた。同じ人間が演じてもこうも違って感じるものなのか。
個人的にはもう一篇の方が好み。ドイツの作家ハインリヒ・ベルの『黒羊』だ。――「ぼく」は黒羊、グループの中の異端者だ。ぼくの名付け親の叔父さんもまた黒羊で、この異質な存在というのは、必要な存在なのだ、誰かがなるべき存在なのだ――といった内容の示唆に富んだ物語で、これをどう読むかは読者(観客)にゆだねられる。初めて知った作家だったのだが、新しい作家に出会えるのも「読演」の楽しみの一つだったと今さらながらに思い知った。
最終公演は客席のソファがすべて埋まる大盛況。佐藤順一はいつものように現れて(ちょっとお洒落していたけれど)いつものように演じ終わった(ちょっと思いのたけを語ったけど)。
物事は、すべていつかは終わるもの。地方都市・福岡で、長きに亘る小さな試みが幕を下ろした。終わってみて初めて、贅沢な時間だったのだと気がつく。
2023.04.30
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はじめまして。ここでは福岡周辺の舞台芸術のあれこれを書いていこうと思います。観たお芝居の感想などもかる―く紹介することになりそうです。「つきいち」ってタイトルについてるけど、(水上社長と話しているうちに)更新は月に一度より増えそうで…「ツキが1番ある」ってことで(?)、本日から、よろしく。
コロナウィルスに振り回されたこの3年も、ようやく落ち着こうとしている。この間の日本の舞台芸術活動についての総括はきっとこれからされると思うんだけど(コロナ初期の地方演劇人たちの活動については、私も2020年に毎日新聞に書いた)、福岡市の状況を言えば確実に芝居の数が減ってしまった。特に小劇団の活動が著しく減っている。1990年代(今は亡き)イムズで「イムズ芝居」が盛り上がっていた頃は福岡市には100を超える小劇団があったらしいけど(真偽のほどはわからない)、ブームが去り、不景気になり、コロナの打撃が来て、この状況。私自身の観劇数もコロナ前から大きく減っているけれど(コロナ前:月10~12本→現在:6~10本)、明らかに地元劇団を観劇する機会が減ってしまった。何より新たに旗揚げする劇団が、ひところに比べてかなり減っている。
この状況は、ちょっと、まずい。「プロの劇団が来てくれたら十分じゃない?」「素人の舞台なんて見る人も限られているから大勢に影響はないでしょ」なんて意見もあるかもしれないけれど、それは違うと思うんだなぁ。劇団を旗揚げするのは圧倒的に若い世代。その世代が演劇に関心を持ってないってことだからね。いや、2.5次元ミュージカルなんかは若者でいっぱいよ? でもその観客がいろんなジャンルの他の舞台を見に行くかと言ったら、残念ながらそうではないことが多い。そして、地方で作られる舞台作品がないということは、いつまでたっても「中央は生産(作り手)/地方は消費(観客)」という役割分担のままなのだ。…関心も持ってもらえず、中央の価値を受け入れるだけ…の文化は、尻すぼみになっていくだけだ。
もちろん、コロナ禍でも公演を続けてきた劇団もあるし、配信という工夫で乗り切った劇団もあるし、そしてなんとなく落ち着き始めたころ合いを見計らって旗揚げした劇団もある。観客として満足する公演ばかりではないけれど、観ることで応援し、面白かったらここで紹介して応援していきたいなと思っている。
コロナで失われかけているものを取り戻すには、同じだけの年数が必要なのかもしれない。応援は気長に、温かく。「つきいち劇談」一回目は、「福岡の舞台芸術を応援するぞー!」という宣言で締めることにしよう。
2023.04.19
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