2024年2月18日(日)13:00 @キャナルシティ劇場
『オデッサ』
作・演出:三谷幸喜
出演:柿澤勇人、宮澤エマ、迫田孝也
音楽・演奏:荻野清子
ナレーション:横田栄司
美術:松井るみ
照明:服部基
音響:井上正弘
衣裳:前田文子
ヘアメイク:高村マドカ
映像:ムーチョ村松
演出助手:伊達紀行
舞台監督:瀧原寿子
三谷幸喜の新作を見るのは久しぶりである。古い作品の再演は去年も1,2本見たのだが、正直なところ昨今の彼の作品にそこまで関心はない。今回見る気になった理由は、字幕を使うと知ったから。このところ私は耳が不自由な観客も芝居を楽しめる字幕の可能性について興味がある。もっとも本作はそのための字幕ではなく、他言語間のディスコミュニケーションを字幕でより明らかにするという意図であるが。
舞台は1999年のアメリカ・テキサス州オデッサという田舎町。夜も更けたころの道路沿いのダイナーに、日本人旅行者コジマ(迫田孝也)が老人殺しの重要参考人として連れてこられる。聴収をするのは遺失物係の日系人、カチンスキ―警部(宮澤エマ)。折しも連続殺人事件が起きていて、オデッサ警察はその捜査で手いっぱいなため遺失物係の彼女が担当させられたのだ。ところが彼女を含め警察の誰もが日本語を話せず、また旅行者コジマは英語が全く分からないという。そこで地元のジムで働く日本人男性スティーブ日高(柿澤勇人)に通訳を頼み、取り調べを進めようとする。そのうちに容疑者のコジマとスティーブが鹿児島出身の同郷者だと分かり、スティーブはコジマの無罪を信じて助けるべくウソの翻訳を重ねていく…。
役者3名の「話しぶり」がいい。日本語が全く分からないカチンスキ―役の宮沢の見事な英語と、二か国語を喋り分ける柿澤の舌の回りっぷり。しかも鹿児島弁まで登場し(柿澤にとっては三カ国語みたいなものだろう。迫田は鹿児島弁「指導」をしたらしいからネイティブかな)、言葉が本作において重要であるだけに3名の口達者ぶりが肝だが、これは見事だった。
そのおかげもあって、字幕内容とのギャップで観客は大いに笑うことができている。字幕は背面の壁に大きく翻訳を映しだすという方法で、字幕が必要になった時には壁が少し前面に動く仕掛け。彼らの心情に合わせて字幕のフォントや大きさを変えるという効果もあり見慣れない人には新鮮に映ったようだが、難聴者向けの昨今の舞台字幕は新しい工夫にも挑戦しているので取り立てて新鮮な驚きはなかった。
さて「言葉」を操って笑いを生み出すといえば、三谷の初期の作品『笑の大学』を思いだす。彼の作品はコメディ戯曲への検閲を、「わざと」誤訳することで検閲係の権力に巧みに抵抗していこうとする話だった。本作も「言葉」を操ることで「一方的にコジマを犯人に仕立て上げている警察の権力に抵抗している」という意味では同じ。ただ二つは全く似て非なる。重要な二点が全く違うのだ。一つ目は「言葉を操ることによる面白さ」が本作は単純という点だ。相手がまったくその言語を理解しないため、操るのが簡単ということである。もちろんバレそうになる所でいかにごまかすかという面白さはある。だが仲間内だけに通じる隠語で誰かを馬鹿にするとか、通じない他言語で罵詈を投げかけるとか、そういったいじめや差別と「相手が分からないことを利用する」という点で同じ構造だと思ってしまうと、この作品の笑いの質が高くないことに気づくだろう。
二点目は、物語の先に残るものがあるかないかという点だ。『笑の大学』は、戯曲を修正したくない作家と当局の指示に従って削除したい検閲係の攻防が、やがて友情を生み出し傑作を生み出し、――そしてクライマックスのあるコトで静かな感動を呼ぶ芝居となっていた。ところが本作では全てのウソがばれたその先にあるのが、真犯人が明らかになるというだけ。どんでん返しではあるが、早い段階で想像はつくし、あくまでも推理小説のオチでしかない。コメディは楽しければいいのかもしれないが、あの名作と同じ「言葉を操ることによるコメディ」であることを考えれば、本作が三谷の縮小再生産作品であると言わざるを得ない。
帰りながら、本筋には関係ない、言葉に付随する「余計な力」について考えた。異国の地で母国語や出身地の言葉を聞いた時に、親近感や根拠のない信頼感が生まれる不思議(スティーブもこれに騙されたわけだ)。また、ラストでコジマがスティーブに「お前の鹿児島弁はディープじゃない、お前の英語も大したことない、英語を喋れるやつなんてごまんといて上には上がいる」といったニュアンスの捨て台詞をはくのだが、このマウントも言葉には付いてまわるもの。言葉はコミュニケーションツールに過ぎないのに、言葉ほど余計なものがくっつくものもない。そう思う一方で、宮澤エマちゃんの流暢な英語に羨ましさを感じ、字幕を見て「分かるわかる」と安心する、そんな英語コンプレックスを持ってしまう私の矛盾…。いやいやその話は横に置き、役者たちの見事な滑舌に感嘆したと結んでおきたい。
2024.03.13
カテゴリー:
2024年2月17日(土)14:00 @なみきスクエア大練習室
『鮭なら死んでるひよこたち』
第21回AFF戯曲賞受賞公演
戯曲:守安久二子
演出:羊屋白玉
スタンダップコメディのテキストおよび出演:遠藤麻衣、神戸浩、スズエダフサコ、羊屋白玉、田坂哲郎、リンノスケ
美術:サカタアキコ、小駒豪
衣裳:佐々木青
照明:則武鶴代
音響:安達玄
楽曲提供:羊屋白玉
舞台監督:糸山義則
プロダクションマネジメント・演出部:峯健、築山竜次(愛知県芸術劇場)
イラスト:Aokid
チラシデザイン:tami graphic design
動画制作:吉雄孝紀
記録写真:あだな
制作:糸山裕子、阿部雅子、山本麦子(愛知県芸術劇場)
制作アシスタント:丸太鞠衣絵、門司美紀(アートマネージメントセンター福岡)
…いや何と言うか、みんな「役に立たなきゃいけない病」にかかってるんじゃないかと思うんですよ、世の中。その昔、子どもを二人産んだ友達が「私は社会に対して義務を果たした。出生率を超える人数産んだからね」と言ったのを聞いてのけぞったことがありまして。就職活動では揃いもそろって「御社(のみならず社会)に貢献したい」と熱く語ります。わかるんですよ、「自分は社会や他者に生かされている、だから自分も役に立ちたい」という気持ちは。私もそう思います。でもそれが本末転倒して「社会に役に立たなきゃ価値がない」病となって蔓延している気がするんです。生きる価値を見出したいのは人間の性ですが、そもそも誰にとっての価値で、ここで言う「社会」って何なのでしょうねぇ…?
――と、独り言ちてみる。どうやらこの雑多でパワフルな芝居に「巻き込まれて」しまったらしい。第21回AFF戯曲賞受賞の『鮭なら死んでるひよこたち』は、一筋縄ではいかない登場人物たちの破天荒な物語構造で、一昔前の芝居のような味がある。そこに羊屋白玉の大胆な演出が加わったことで、それぞれの人生はどれもがわちゃわちゃした舞台上の作品であるかのような印象を与えている。それは拍子抜けするほど軽やかで、人生に大仰な「意味」を与えない(誤解が無いよう先取りして言うが、人生の意味を軽んじているということではない)。誰かにとっては救い、誰かにとっては受容、また誰かにとってはチクリとした痛み、そんな作品である。
タイトルにもある鮭とひよこが象徴的だ。劇中のセリフにもあるが、鮭は川をさかのぼり、産むために傷ついて死んで、我が子のために川にとけて養分になる。縁日で売られるカラースプレーで彩られたひよこたちは、狭い空間で餌箱の隅をつつくだけで、買われ(飼われ)ても数日しか生きられない。本作に登場する人々も同様だ。子を産み育てその挙句に家族に疎まれた人生を嘆くガリヤ夫人だったり、狭い世界で生きる無知で弱い自分を縁日のひよこに投影するチャラ男だったり、何かの大義を持って旅をしているつもりのムーと子を望んでいるフーの夫婦だったり…それぞれがそれぞれに考えて模索して選択して生きている、はず。ただそれが大きな川における(数多いるうちの)一匹の鮭、狭い場所ではかなく鳴いている(数多いるうちの)一匹のひよこにすぎない。 面白いのは、それなのに悲壮感や虚無感がかけらもないことだ。
それは羊屋の演出の「わちゃわちゃ感」による。リモコンで動く木製のおもちゃの汽車が舞台上を走り(それを追いかける者がいて)、ボーイスカウトたちが舞台のあちこちでもぞもぞ何かをし、黄色っぽいライトの中で縁日も登場する。「わちゃわちゃ」と私が表現するのは、他人のことを気にせずにそれぞれの方向を見てる人たちが集まってる雑多な状況、というイメージ。彼らを見ていると、「鮭であれひよこであれ、彼らは彼らの人生を生きている、なぜならそれがやることだから」というシンプルな事実がストンと胸に落ちてくる。
際立って本作を面白くしたのが芝居の途中で役者一人ずつがスタンドマイクに向かって語る時間。それを羊屋はスタンダップコメディに見立てたらしい。作品上の人物たちと、それを演じている役者というレイヤーの違う存在を同時に板に載せることが、「誰もがただ生きていること」を見せているようでユニークである。そのうえ、役者たちの語る内容がいい。例えばムー役の田坂哲郎は「演劇やっているアーティストとして、親でも先生でもない変なおじさんであり続けること」を語る。闘うアーティストの遠藤麻衣は「美術館で脱ぐ彼女のパフォーマンスや、田部光子の活動を通して、使われがちな『政治的』という言葉を引き合いに『ありのまま(=裸)であること』」を語る。スズエダフサコも「子を持つこと、育てること、家族になること、主婦であること、一人の人間であること」をポップに語る。神戸浩の「体に穴が開いてしまいましたー…」は芝居の一部なのかそうでないのか分からないけれど、その言葉の鮮烈さが刺さる。役者たちが「本人として生きている言葉」をはさむことで、ニンゲンとして立って見えてくる、それが本作に見事に合致していてとても面白かった。
まん中に据えられたシーソー。偏って、また反対に偏って、ギッコンバッタン。最後のシーンは、まっ平らになって静かに水平に回る。どちらかが落ちたまま(上がったまま)ではなく、バランスを保ちながらフラフラ真っ直ぐに、ただ水平に回っている…この優しさも含めて、「ただ生きている」が描かれている作品である。
2024.03.12
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2024年2月4日(日)14:00~ @福岡市塩原音楽・演劇練習場
『ひなた、日本語をうたう VOL.1』
ひなた旅行舎
構成・演出:永山智行(劇団こふく劇場)
出演:多田香織、日高啓介(FUKAIPRODUCE羽衣)
演奏・音楽:坂元陽太
照明:松本永(eimatsumoto Co.Ltd.)
音響協力:佐藤こうじ(Sugar Sound)衣裳:岡藤隆広
宣伝美術:多田香織
記録写真:宇田川俊之
制作:高橋和美(キューズリンク)
言葉、についてのんびりと考える。意味(シニフィエ)と音声(シニフィアン)についての言語論的むずかしい話ではなく、日本語の音声について。「うた」でもなく「物語」でもなく「言葉のおと」が(それも多田香織の声で)、私の頭の中で楽し気にリフレインしている。
本作は、「歌と演奏」「詩や物語」の8本をライブ形式で送る珍しい作品である。演者3名、坂元陽太(コントラバス)、多田香織と日高啓介(芝居=リーディング、ギター、ハーモニカ、歌)は、立ったまま(途中、少し座ることもあるが)、3人の位置が変わることもなく、そして始終「前を向いて」観客相手に語りかけ、歌を届ける。その意味でも「演劇上演ユニット」としては特異な公演である。
まずラインナップが巧みだ。冒頭は三好達治の「ひなうた」、題名がユニット名と重なる詩で、かつ日本語を堪能させる。そういう路線で行くのか、と思った途端に『ありがとう』(細野晴臣)の歌。歌詞の面白さに一気に場がくだけた雰囲気になる。その後の、歌もはさみながらの3本『話(小説)――或いは、‘小さな運動場’』(尾形亀之助)、『狂言・木六駄』(現代語訳・岡田利規)、『花野』(川上弘美、構成・永山智行)というリーディングの選択がなにより素晴らしい。理由は二つ。俳優の多田香織をうまく活かす作品を選んでいる、「言葉のおと」が印象に残る作品である、という点である。
多田香織は、「軽さ」を持った俳優である(彼女の演技が軽いという意味ではない)。するりと抜けることで周りがくるんと回転させられたり、ひらりひらりと移ることで深刻さを消し去ったり、失敗も間違いにもどこ吹く風だったり――そんな軽さがある。だからふわふわキラキラした役柄も多いが、それを下地に小悪魔的な役もすっとぼけた役もできると私は思っている。本作の3つの小編は、その彼女の「軽さ」、言い換えれば多田のコメディエンヌ性が活かされていた。
例えば『話(小説)…』では夫(日高)に向かって夫婦のあれこれを語るのだが、妻(多田)が1人であーだこーだと思考を巡らせて、喋って、独り相撲をする。その様子には深刻さがみじんもない。可愛らしくも浅はかにも逆に怖くも見える。『狂言・木六駄』は、太郎冠者役の多田のすっとぼけた感じを見て、実は彼女は狂言の笑いに向いていると驚いた。のびやかで自由で阿呆でとてもいい。『花野』にいたっては、原作の持つ物悲しさを永山が再構成することで「おかしみ」を前面に出したのだが、それがいかにもコメディエンヌ多田の軽さにぴったり。「あ、消えちゃった!」で終わるラストも含めて、永山はうまくアレンジしている。多田の良さを引き出す作品をうまく選んでいる。ただ日高あって多田の軽さが際立っていることも付け加えておきたい。
「言葉のおと」が印象に残るという点も、多田の声によるところが大きい。『話(小説)…』では「夫婦」という言葉をハミングするように「ふーふ」と奏で、言葉が音楽になっている。『木六駄』では牛を追う時に「サセイ ホーセイホーセイ チャウチャウチャウ」と能天気な声をかけるが、もはや耳に心地よい「歌」である。彼女の風を含んだ高い声が、言葉を「音として」聞かせる。言葉を大切にする永山だから、俳優の多田だから、シニフィエに戯れることができているのかもしれない。「歌手ではない俳優が日本語に戯れること」の試みは、ひとまず成功しているのだろう。(ただし、歌そのものを聞かせる演目は個人的には今一つに感じた。多田の声の迫力のなさは歌を選ぶだろうし、日高の声と相性がとてもいいわけではないと思うからだ。)
坂元の安定感のある自在な演奏、日高のリラックスさせる佇まい。本作には自由だが安心できる空気がある。
2024.02.29
カテゴリー:
2024年1月20日(土)14:00~ @ぽんプラザホール
●『変身』FOURTEEN PLUS 14+
原作:フランツ・カフカ
構成・演出:中嶋さと
出演:中嶋さと(20日)、トクドメハルナ(19・21日)、佐藤柚葉、吉田忠司
舞台手話通訳:野上まり、工藤知子
手話監修:八百谷梨江(TA-net)、鈴木玲雄(福岡ろう劇団博多)
字幕:宮本聡(九州大学人間環境学研究院)
アンダースタディ:村上差斗志
照明・舞台監督:岡田一志(good Light)
音響:諌山和重(ride on CLAPS)
振付:百田彩乃(だーのだんす)
衣裳:フルタニチエコ、古谷奏太
大道具;中島信和(兄弟船)
ティザー動画:岩切慎太朗
宣伝美術(絵画):田中千智
宣伝デザイン・写真:46 ファクトリー
制作:泰川美喜、村上差斗志、みっち
協力:特定非営利活動法人シアター・アクセシビリティ・ネットワーク(TA-net)、福岡ろう劇団博多
「手話を芝居に取り入れる」という発想。
通常の芝居に手話通訳を入れるということでもなく、手話を使って芝居をするということでもない。手話そのものが芝居の一部であり、耳が不自由な人も十分に意味が理解できて楽しめる作品を作るということ。中嶋さとは前作『注文の多い料理店』(2023)以降、「手話を芝居に取り入れる」という新しい境地に足を踏み入れた。そして作品そのものも表現が広がり豊かになっている。健聴者だけでなくより多くの人が楽しめる作品を目指すことが、結果的に表現の幅を広げたことに、私は静かな興奮を覚えている。
本作について語る前に、少し遠回りをする。
2018年に中嶋さとの別ユニットNakashima group#1『変身』(@紺屋ギャラリー)を見た時に、中嶋がそれまでとは違う新しい演出方法に挑戦したのだと思った。セリフを分解し、3人の役者がそれらを口にする――つまり1人1役ではなく、断片化されたセリフは3人の役者によって繰り返され強調されていた――、動きもまた同様に3人が合体して1役を「分担」し「共有」していた。演出の手法としては特に目新しいわけではないが、3人による主人公グレゴール(ある朝とつぜん虫になってしまった男)の動きはダンスにも見え、その身体が面白かった。また記憶を掘り起こすと、セリフを解体したことで「言葉」ではなくなり「音」になり、その「音」を身体とともに表現していた…のかもしれない。現在の表現の萌芽がここにあったのではないかという気がしている。
昨年(2023年)の『注文の多い料理店』では、福岡ろう劇団博多と手を組み、初めて手話を取り入れる芝居に着手した(手話監修:NPO法人TA-net)。この時、興味深かったのは2点。1つはオノマトペの漫画的な処理の仕方だ。スクリーンに映したオノマトペの文字を、音の大きさに合わせて文字の大小を変えたり、印象に合わせてフォントを変えたり、言ってみれば漫画の「常識」を取り入れたことで、音の表現が視覚的にわかりやすく伝わった。漫画は日本の誇るべき文化だが、「オノマトペの視覚的な表現の豊かさ」をこういう形で利用できるのかと目からうろこが落ちた気分だった。2点目は、手話を役者の演技の一部にした点だ。手話通訳をしていた野上まりは同時に演者として舞台に立っており、手話を身体表現の一つとして他の動きに溶け込ませたのだ。舞台表現としてこの2点の新しさに感心した。
それらを経ての本作は、一言でいうと「進化していた」。もちろん通訳としての手話もあるのだが、それを含めて身体表現がダンスに近く、「発話に依らない伝え方」が豊かになっていると感じたのだ。そういえばドイツの舞踊家・振付家であるピナ・バウシュも手話をしながら踊ったが、本作はどちらかと言えば「発話に依らない伝え方を突き詰めていくと結果的にダンスになっていた」ように感じる。そしてそれが見ていてとても面白かったのだ。
たとえば最初はグレゴールに、4人の役者が手や身体でまとわりついている。彼らはワヤワヤワヤと言いながら、グレゴールを横から後ろからぐねぐねと手と身体で囲みまとわりつき、グレゴールは飲み込まれるように彼らとともに形を変え、やがて連なって虫の形になる。グレゴールの戸惑いが伝わるだけでなく、虫であることに徐々に気が付いていく様子が手に取るようにわかる動きで、それら一連がまさにダンスそのものだった。また妹が食事を差し入れグレゴールがそれを食べる日々をくり返すシーンでは、反復の一方で虫化が進んでいく変化の様子も身体的に表現されていて、反復と変容の様もダンスだと思った。
さらにNakashima groupにおいて中嶋が挑戦していた、「登場人物の解体」演出が加わる。例えばグレゴールの「人間である心」と「虫である身体」を分けるかのように2人の役者が演じる。2人は絡み合いながら支え合って倒れて這いずって…。ここでは「虫である身体」を「人間としての自分」が冷静に観察している風の動きが面白くもあった。また、人間3人が虫(=グレゴール)を踏みつけるシーンでも、やがて4人は混然一体となり人になり虫になっていく。こういった役と役者を固定させない手法もダンスの動きに近く、同時に混乱した複雑な感情を描くのに奏功していた。カフカの『変身』がダンスに合う素材だということもあるかもしれない(森山未來の『変身』を思い出した)。
また、これまでと大きく違っていたのは照明である。四角のテーブルだけという簡素なセットに対して、代わりに照明が饒舌。スポットライトが床に映し出した大きな白い四角は、グレゴールの部屋、後には虫の生息する場所になる。ライトによってグレゴールとそれ以外の人間との間に見えない壁を作って見せ、また彼自身の不自由さ、閉塞感、抜けだせない世界などを見せることに成功している。グレゴールが父親に見放され追い出された後にライトの形が斜めにゆがむ(客席から見てひし形になる)のも、グレゴールの世界が一つ崩れたことを示唆している。ライトの色使いも一つの「言葉」であるかのように雄弁で、父親がグレゴールにリンゴを投げつけたシーンでは横から黄色のフットライトが、そして上から赤の光が落ちてきて、その心理的な衝撃が伝わる。照明(兼、舞台監督)の岡田一志のなせる業だろう。照明も立派な「言葉」なのだ。
今回は字幕の活躍が今一つという印象だったが、それは欲張りな話かもしれない。本作にとっては他にツールが十分にあったということなのだろうから、最適な表現方法を作品に合わせて選んでいけばいいというだけの話だ。そしてそれは言葉や音に頼りすぎていた従来の芝居に新しい可能性を与えてくれている。
より多くの人が楽しめるように模索することが、より魅力的な作品への回路を開く。文化とはそうあるべきだと思う。
2024.01.24
カテゴリー:
2024年1月14日(日)14:00~ @ J:COM北九州芸術劇場(小劇場)
『ロマンス』
作・演出:永山智行
出演:かみもと千春、濱沙杲宏、有村香澄、池田孝彰、大西玲子(青☆組)
音楽:かみもと千春
照明:工藤真一(ユニークブレーン)
音響:出井稔師(音師)
美術:満木夢奈
衣裳:伊藤海(劇団FLAG)
宣伝美術:多田香織(ひなた旅行舎)
制作:有村香澄、高橋知美(キューズリンク)、舞台芸術制作室 無色透明(広島)
生きている限り、「別れ」がつきまとう。人生の節目で別れ、関係が壊れて別れ、死によって別れる。そしてふだんは忘れているけれど、過去と別れ、若さと別れ、私たちは毎日を過ごしている。本作を見ながら、生きれば生きるほど無数の別れを積み重ねるということ――つまり生きるほどに喪失は増えていくのだと、ぼんやりと考えた。そして、それでも私たちは前を向く。『ロマンス』というこの「喪失と再生」の物語は、私たちの痛みと強さを描いている。
喪失を抱えた4人の物語である。高校生の一人娘を亡くし妻と離婚した雄造。かつての恋人が津波で亡くなったことを知った薫子。自分から気持ちが離れていった遠距離の恋人を持つさと美。母の死を認めることができず自分の世界から抜け出せずにいる無職の久。いや、こんな風に簡潔に紹介することは彼らの繊細な思いを「ありふれた喪失」にしてしまい、彼らの複雑な物語を「つまらないのっぺりとした物語」にしてしまう。作家の永山智行はむしろ逆に、些細な出来事や言葉をていねいに拾うことによって、「その人のだけの喪失」を描いている。
物語のうまさについては今さら言及する必要はないだろう。代わりに本作における「ラジオ」の存在についてふれたい。本作の始まりはラジオの声。そして作中では、ラジオ体操のうたに始まり多くの曲がラジオから流れる。ラジオパーソナリティがリスナーの悩みにこたえる声のシーンも登場する。また雄造が元妻から再婚報告を受けるシーンでは、まずその声が聞こえてくるのはラジオだ(そして電話のように会話する)。そして舞台上の4台の縁側にもそれぞれ小型ラジオが柱にかけられている。――なぜラジオなのか。
ラジオは、語りだ。聞いている人々に、語りかけ、言葉を届ける。ラジオから流れる音楽も、語りだ。この音を届けたい、そんな思いが込められていて、聴き手もその思いとともに音楽を受け取る。私は想像する。大きな喪失を抱えた人こそ、目の前にいる知り合いからの慰めや励ましではなく、見ず知らずの誰かの静かな語りが染みるのではないか。遠い向こう、話し手だけでなく、今ラジオを聞いている知らない誰かとつながっていると感じることが、唯一の支えになることもあるのかもしれないと。
そしてラジオは、声だ。私は、大切な故人、妹と父を思い出す時に、彼らの声が聞こえてくる。私を呼ぶ彼らの声は何年経ってもあせない。ふとラジオだったら、もういないあの人の声が聞こえてくるかもしれないなんて妄想もする。そんなことはなくても…ラジオの声は寄り添ってくれている気がして、だから永山は喪失感でたたずむ彼らの周囲にラジオを置いたのだろう。
永山の戯曲は優しい。多くの「刻んでおきたい言葉」が出てくる。それは通常の戯曲よりも多すぎて却ってそれぞれの印象がかき消されてしまうのだが、それでもほわっとした温かい気持ちだけは残る。それでいいのかもしれない。ラジオから流れる声も、一刻だれかの心を撫でた後に静かに消えていくのだから。
2024.01.19
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