劇ナビFUKUOKA(福岡)

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『ひなた、日本語をうたう VOL.1』ひなた旅行舎

2024年2月4日(日)14:00~ @福岡市塩原音楽・演劇練習場

『ひなた、日本語をうたう VOL.1』

ひなた旅行舎

構成・演出:永山智行(劇団こふく劇場)

出演:多田香織、日高啓介(FUKAIPRODUCE羽衣)

演奏・音楽:坂元陽太

照明:松本永(eimatsumoto Co.Ltd.)

音響協力:佐藤こうじ(Sugar Sound)衣裳:岡藤隆広

宣伝美術:多田香織

記録写真:宇田川俊之

制作:高橋和美(キューズリンク)






 言葉、についてのんびりと考える。意味(シニフィエ)と音声(シニフィアン)についての言語論的むずかしい話ではなく、日本語の音声(おと)について。「うた」でもなく「物語」でもなく「言葉のおと」が(それも多田香織の声で)、私の頭の中で楽し気にリフレインしている。


 本作は、「歌と演奏」「詩や物語」の8本をライブ形式で送る珍しい作品である。演者3名、坂元陽太(コントラバス)、多田香織と日高啓介(芝居=リーディング、ギター、ハーモニカ、歌)は、立ったまま(途中、少し座ることもあるが)、3人の位置が変わることもなく、そして始終「前を向いて」観客相手に語りかけ、歌を届ける。その意味でも「演劇上演ユニット」としては特異な公演である。


 まずラインナップが巧みだ。冒頭は三好達治の「ひなうた」、題名がユニット名と重なる詩で、かつ日本語を堪能させる。そういう路線で行くのか、と思った途端に『ありがとう』(細野晴臣)の歌。歌詞の面白さに一気に場がくだけた雰囲気になる。その後の、歌もはさみながらの3本『話(小説)――或いは、‘小さな運動場’』(尾形亀之助)、『狂言・木六駄』(現代語訳・岡田利規)、『花野』(川上弘美、構成・永山智行)というリーディングの選択がなにより素晴らしい。理由は二つ。俳優の多田香織をうまく活かす作品を選んでいる、「言葉のおと」が印象に残る作品である、という点である。


 多田香織は、「軽さ」を持った俳優である(彼女の演技が軽いという意味ではない)。するりと抜けることで周りがくるんと回転させられたり、ひらりひらりと移ることで深刻さを消し去ったり、失敗も間違いにもどこ吹く風だったり――そんな軽さがある。だからふわふわキラキラした役柄も多いが、それを下地に小悪魔的な役もすっとぼけた役もできると私は思っている。本作の3つの小編は、その彼女の「軽さ」、言い換えれば多田のコメディエンヌ性が活かされていた。


 例えば『話(小説)…』では夫(日高)に向かって夫婦のあれこれを語るのだが、妻(多田)が1人であーだこーだと思考を巡らせて、喋って、独り相撲をする。その様子には深刻さがみじんもない。可愛らしくも浅はかにも逆に怖くも見える。『狂言・木六駄』は、太郎冠者役の多田のすっとぼけた感じを見て、実は彼女は狂言の笑いに向いていると驚いた。のびやかで自由で阿呆でとてもいい。『花野』にいたっては、原作の持つ物悲しさを永山が再構成することで「おかしみ」を前面に出したのだが、それがいかにもコメディエンヌ多田の軽さにぴったり。「あ、消えちゃった!」で終わるラストも含めて、永山はうまくアレンジしている。多田の良さを引き出す作品をうまく選んでいる。ただ日高あって多田の軽さが際立っていることも付け加えておきたい。


 「言葉のおと」が印象に残るという点も、多田の声によるところが大きい。『話(小説)…』では「夫婦」という言葉をハミングするように「ふーふ」と奏で、言葉が音楽になっている。『木六駄』では牛を追う時に「サセイ ホーセイホーセイ チャウチャウチャウ」と能天気な声をかけるが、もはや耳に心地よい「歌」である。彼女の風を含んだ高い声が、言葉を「音として」聞かせる。言葉を大切にする永山だから、俳優の多田だから、シニフィエに戯れることができているのかもしれない。「歌手ではない俳優が日本語に戯れること」の試みは、ひとまず成功しているのだろう。(ただし、歌そのものを聞かせる演目は個人的には今一つに感じた。多田の声の迫力のなさは歌を選ぶだろうし、日高の声と相性がとてもいいわけではないと思うからだ。)


 坂元の安定感のある自在な演奏、日高のリラックスさせる佇まい。本作には自由だが安心できる空気がある。

2024.02.29

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『変身』FOURTEEN PLUS 14+

2024年1月20日(土)14:00~ @ぽんプラザホール

●『変身』FOURTEEN PLUS 14+



原作:フランツ・カフカ

構成・演出:中嶋さと

出演:中嶋さと(20日)、トクドメハルナ(19・21日)、佐藤柚葉、吉田忠司

舞台手話通訳:野上まり、工藤知子


手話監修:八百谷梨江(TA-net)、鈴木玲雄(福岡ろう劇団博多)

字幕:宮本聡(九州大学人間環境学研究院)

アンダースタディ:村上差斗志

照明・舞台監督:岡田一志(good Light)

音響:諌山和重(ride on CLAPS)

振付:百田彩乃(だーのだんす)

衣裳:フルタニチエコ、古谷奏太

大道具;中島信和(兄弟船)

ティザー動画:岩切慎太朗

宣伝美術(絵画):田中千智

宣伝デザイン・写真:46 ファクトリー

制作:泰川美喜、村上差斗志、みっち

協力:特定非営利活動法人シアター・アクセシビリティ・ネットワーク(TA-net)、福岡ろう劇団博多



 「手話を芝居に取り入れる」という発想。


 通常の芝居に手話通訳を入れるということでもなく、手話を使って芝居をするということでもない。手話そのものが芝居の一部であり、耳が不自由な人も十分に意味が理解できて楽しめる作品を作るということ。中嶋さとは前作『注文の多い料理店』(2023)以降、「手話を芝居に取り入れる」という新しい境地に足を踏み入れた。そして作品そのものも表現が広がり豊かになっている。健聴者だけでなくより多くの人が楽しめる作品を目指すことが、結果的に表現の幅を広げたことに、私は静かな興奮を覚えている。


 本作について語る前に、少し遠回りをする。


 2018年に中嶋さとの別ユニットNakashima group#1『変身』(@紺屋ギャラリー)を見た時に、中嶋がそれまでとは違う新しい演出方法に挑戦したのだと思った。セリフを分解し、3人の役者がそれらを口にする――つまり1人1役ではなく、断片化されたセリフは3人の役者によって繰り返され強調されていた――、動きもまた同様に3人が合体して1役を「分担」し「共有」していた。演出の手法としては特に目新しいわけではないが、3人による主人公グレゴール(ある朝とつぜん虫になってしまった男)の動きはダンスにも見え、その身体が面白かった。また記憶を掘り起こすと、セリフを解体したことで「言葉」ではなくなり「音」になり、その「音」を身体とともに表現していた…のかもしれない。現在の表現の萌芽がここにあったのではないかという気がしている。


 昨年(2023年)の『注文の多い料理店』では、福岡ろう劇団博多と手を組み、初めて手話を取り入れる芝居に着手した(手話監修:NPO法人TA-net)。この時、興味深かったのは2点。1つはオノマトペの漫画的な処理の仕方だ。スクリーンに映したオノマトペの文字を、音の大きさに合わせて文字の大小を変えたり、印象に合わせてフォントを変えたり、言ってみれば漫画の「常識」を取り入れたことで、音の表現が視覚的にわかりやすく伝わった。漫画は日本の誇るべき文化だが、「オノマトペの視覚的な表現の豊かさ」をこういう形で利用できるのかと目からうろこが落ちた気分だった。2点目は、手話を役者の演技の一部にした点だ。手話通訳をしていた野上まりは同時に演者として舞台に立っており、手話を身体表現の一つとして他の動きに溶け込ませたのだ。舞台表現としてこの2点の新しさに感心した。


 それらを経ての本作は、一言でいうと「進化していた」。もちろん通訳としての手話もあるのだが、それを含めて身体表現がダンスに近く、「発話に依らない伝え方」が豊かになっていると感じたのだ。そういえばドイツの舞踊家・振付家であるピナ・バウシュも手話をしながら踊ったが、本作はどちらかと言えば「発話に依らない伝え方を突き詰めていくと結果的にダンスになっていた」ように感じる。そしてそれが見ていてとても面白かったのだ。


 たとえば最初はグレゴールに、4人の役者が手や身体でまとわりついている。彼らはワヤワヤワヤと言いながら、グレゴールを横から後ろからぐねぐねと手と身体で囲みまとわりつき、グレゴールは飲み込まれるように彼らとともに形を変え、やがて連なって虫の形になる。グレゴールの戸惑いが伝わるだけでなく、虫であることに徐々に気が付いていく様子が手に取るようにわかる動きで、それら一連がまさにダンスそのものだった。また妹が食事を差し入れグレゴールがそれを食べる日々をくり返すシーンでは、反復の一方で虫化が進んでいく変化の様子も身体的に表現されていて、反復と変容の様もダンスだと思った。


 さらにNakashima groupにおいて中嶋が挑戦していた、「登場人物の解体」演出が加わる。例えばグレゴールの「人間である心」と「虫である身体」を分けるかのように2人の役者が演じる。2人は絡み合いながら支え合って倒れて這いずって…。ここでは「虫である身体」を「人間としての自分」が冷静に観察している風の動きが面白くもあった。また、人間3人が虫(=グレゴール)を踏みつけるシーンでも、やがて4人は混然一体となり人になり虫になっていく。こういった役と役者を固定させない手法もダンスの動きに近く、同時に混乱した複雑な感情を描くのに奏功していた。カフカの『変身』がダンスに合う素材だということもあるかもしれない(森山未來の『変身』を思い出した)。


 また、これまでと大きく違っていたのは照明である。四角のテーブルだけという簡素なセットに対して、代わりに照明が饒舌。スポットライトが床に映し出した大きな白い四角は、グレゴールの部屋、後には虫の生息する場所になる。ライトによってグレゴールとそれ以外の人間との間に見えない壁を作って見せ、また彼自身の不自由さ、閉塞感、抜けだせない世界などを見せることに成功している。グレゴールが父親に見放され追い出された後にライトの形が斜めにゆがむ(客席から見てひし形になる)のも、グレゴールの世界が一つ崩れたことを示唆している。ライトの色使いも一つの「言葉」であるかのように雄弁で、父親がグレゴールにリンゴを投げつけたシーンでは横から黄色のフットライトが、そして上から赤の光が落ちてきて、その心理的な衝撃が伝わる。照明(兼、舞台監督)の岡田一志のなせる業だろう。照明も立派な「言葉」なのだ。


 今回は字幕の活躍が今一つという印象だったが、それは欲張りな話かもしれない。本作にとっては他にツールが十分にあったということなのだろうから、最適な表現方法を作品に合わせて選んでいけばいいというだけの話だ。そしてそれは言葉や音に頼りすぎていた従来の芝居に新しい可能性を与えてくれている。  


 より多くの人が楽しめるように模索することが、より魅力的な作品への回路を開く。文化とはそうあるべきだと思う。

2024.01.24

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『ロマンス』こふく劇場

2024年1月14日(日)14:00~ @ J:COM北九州芸術劇場(小劇場)


『ロマンス』

作・演出:永山智行

出演:かみもと千春、濱沙杲宏、有村香澄、池田孝彰、大西玲子(青☆組)

音楽:かみもと千春

照明:工藤真一(ユニークブレーン)

音響:出井稔師(音師)

美術:満木夢奈

衣裳:伊藤海(劇団FLAG)

宣伝美術:多田香織(ひなた旅行舎)

制作:有村香澄、高橋知美(キューズリンク)、舞台芸術制作室 無色透明(広島)






 生きている限り、「別れ」がつきまとう。人生の節目で別れ、関係が壊れて別れ、死によって別れる。そしてふだんは忘れているけれど、過去と別れ、若さと別れ、私たちは毎日を過ごしている。本作を見ながら、生きれば生きるほど無数の別れを積み重ねるということ――つまり生きるほどに喪失は増えていくのだと、ぼんやりと考えた。そして、それでも私たちは前を向く。『ロマンス』というこの「喪失と再生」の物語は、私たちの痛みと強さを描いている。

 喪失を抱えた4人の物語である。高校生の一人娘を亡くし妻と離婚した雄造。かつての恋人が津波で亡くなったことを知った薫子。自分から気持ちが離れていった遠距離の恋人を持つさと美。母の死を認めることができず自分の世界から抜け出せずにいる無職の久。いや、こんな風に()()()紹介することは彼らの繊細な思いを「ありふれた喪失」にしてしまい、彼らの複雑な物語を「つまらないのっぺりとした物語」にしてしまう。作家の永山智行はむしろ逆に、些細な出来事や言葉をていねいに拾うことによって、「その人のだけの喪失」を描いている。


 物語のうまさについては今さら言及する必要はないだろう。代わりに本作における「ラジオ」の存在についてふれたい。本作の始まりはラジオの声。そして作中では、ラジオ体操のうたに始まり多くの曲がラジオから流れる。ラジオパーソナリティがリスナーの悩みにこたえる声のシーンも登場する。また雄造が元妻から再婚報告を受けるシーンでは、まずその声が聞こえてくるのはラジオだ(そして電話のように会話する)。そして舞台上の4台の縁側にもそれぞれ小型ラジオが柱にかけられている。――なぜラジオなのか。


 ラジオは、語りだ。聞いている人々に、語りかけ、言葉を届ける。ラジオから流れる音楽も、語りだ。この音を届けたい、そんな思いが込められていて、聴き手もその思いとともに音楽を受け取る。私は想像する。大きな喪失を抱えた人こそ、目の前にいる知り合いからの慰めや励ましではなく、見ず知らずの誰かの静かな語りが染みるのではないか。遠い向こう、話し手だけでなく、今ラジオを聞いている知らない誰かとつながっていると感じることが、唯一の支えになることもあるのかもしれないと。


 そしてラジオは、声だ。私は、大切な故人、妹と父を思い出す時に、彼らの声が聞こえてくる。私を呼ぶ彼らの声は何年経ってもあせない。ふとラジオだったら、もういないあの人の声が聞こえてくるかもしれないなんて妄想もする。そんなことはなくても…ラジオの声は寄り添ってくれている気がして、だから永山は喪失感でたたずむ彼らの周囲にラジオを置いたのだろう。


 永山の戯曲は優しい。多くの「刻んでおきたい言葉」が出てくる。それは通常の戯曲よりも多すぎて却ってそれぞれの印象がかき消されてしまうのだが、それでもほわっとした温かい気持ちだけは残る。それでいいのかもしれない。ラジオから流れる声も、一刻だれかの心を撫でた後に静かに消えていくのだから。

2024.01.19

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『OTONA HAHHA-!! START』HAっHA-!!

2023年11月18日(土) @リノベーションミュージアム冷泉荘

●『OTONA HAHHA-!! START』HAっHHA-!!

統括:もりたかし

演出:後藤香(劇団 go to)

『スパイス・イン・ザ・バスケット』

作:三島ゆき

出演:水谷文香、梶川竜也

『結婚相談所』

作:サタケミキオ

出演:角野優子(劇団96文字)、川嵜圭太

『兄への伝言』

作:蓬莱竜太

出演:清水さなえ、本多陽彦


照明:桑野友里

音響:森貴史

舞台監督:梶川竜也・本多陽彦

舞台装置:中島信和(兄弟船)

映像:宮崎亮

制作:清水さなえ、大財靖子、高木怜奈、天野茜、やっひー、山口和彦、HAっHA-!!


 30分の短編が3本。パンフによれば、2005年にパルコプロデュースで上演された『LOVE30』シリーズの1作目だという。三島ゆき、サタケミキオ、蓬莱竜太の戯曲は、大人の男女の恋愛を描いている。10代20代前半の若者から見たら「大人の恋愛は酸いも甘いも分かっている」と思うかもしれない。まるで恋愛でジタバタするのは若者の特権であるかのように。でも現実にはいい年した大人だって、未練を引きずったり、何でもないふりをしたり(隠し通すこともできないことだってある)、オロオロと取り乱したりすることもある。


 さて本上演は「男たちの物語」だと思った。それも、「それなりに年を重ねた男たち」の物語。もちろん女優陣の演技あってこそではあるが、男と女の恋愛というよりも、3本とも男たちの想いが人間臭く伝わる作品だったのだ。というのも、本作では男優たちがみっともないほどに人間的でカッコ悪い。(注:ほめてます)キラキラした若者ではない、年齢を重ねた普通の男たちの、不器用さが際立っていたからだ。


 例えば1本目『スパイス・イン・ザ・バスケット』の梶川竜也(劇団風三等星)は、突如、現れた元妻(水谷文香)に引っ掻き回される役を演じる。奔放でわがままな元妻にさんざん振り回され右往左往するカッコ悪さ。ガツンと断れないのかと観客は苛立ちすら覚える。さらに、今からやって来る新しい恋人(恋人候補?)へのアプローチが、「私の時と全く同じ」と元妻に指摘されるカッコ悪さ。でもそんな様子を見ながら観客は、彼の中の妻への複雑な気持ち――自分を捨てたことへの恨みと今さら現れる苛立ちと翻弄される情けなさとくすぶる奥底にある想い――を受け止める。年齢を重ねた役者だけに、「別れても離れても、出会った人が自分の中に残っていくのだ」という言葉が(そして逆に「一緒にいても1人だ」という言葉も)しっくりくる。(作中では「元妻が僕の中に残っている」という限定的な表現だったけれど。)役者によってはコメディ要素が強くなる本作だが、『Time after time』の旋律と共に、私には彼の弱さと優しさという人間臭さが強く残った。


 2本目の『結婚相談所』もバタバタしたコメディである。結婚相談所コンサルタントの女性と、電話での悩み相談の先生をする男性が、互いに想いながらすれ違う、少し切なさも漂う物語だ。これも肝となるのは悩み相談を受けるホリカワ役の川嵜圭太。相手アオヤマ役の門野優子(劇団96文字)がジタバタするのはコメディ定番の笑いを誘うが(早口がうますぎる)、川嵜は少し勝手が違う。結婚相談所にやって来るのに自分を曲げない姿は、役者が違えば「変わり者」として映るだろうが川嵜の場合は泰然自若と見える。落ち着いた声や大柄な体躯のせいだろうか。一方で女性慣れしていないという設定で、終盤にアオヤマに「つき合っちゃう?」と言ってしまう、そのタイミングの悪さとか言葉のチョイスの悪さとか逃げを用意するような態度とか…が、「いかにも」なカッコ悪さなのだ。そして彼がこだわるデートに理由があったことが分かるラストには、不器用な男の純情を感じずにはいられない。それもこれもカッコ悪さがあってこそ引き立つ純情である。


 3本目の『兄への伝言』は、男の未練がましさと女の潔さが際立つ作品だ。亡くなった弟の弔問で、弟の妻でありかつての想い人だった幼馴染に会う男。その昔トンカツの大きさで彼女に告白する賭けをした兄弟は、二十年近く経ってもそのことが大きく引っ掛かっていた。弟は死ぬ間際に「トンカツトリカエタ」というメッセージを残すほどに、そして兄弟二人ともそれ以後トンカツを食べずにいるほどに。男たち二人はその時から時間が止まったままなのだ。それに対して、すべてを打ち明けられた女のサバサバとした様子が印象的。トンカツを取り替えたのは(何も知らなかった)自分だった、この地を出ていきたかったけれどこの人生を選んだのは自分だと明るく強く答える。


 それにしてもこの男たちのナルシシズム(自己陶酔)にはため息が出る。告白さえすれば彼女を自分のものにできるという思い上がり、トンカツの大きさごときで物事を決定してしまう浅慮、長きに亘って前に進めない成長のなさ、そして今なお彼女を誘う自分本位な考え…「男は、女は」という乱暴な言い方はしたくないが、これらを昔から「男のロマンティシズム」とでも称していたのかもしれない。


 しかし、本多陽彦のなんだか湿度ある演技はロマンティシズムもナルシシズムも無縁で、ただただ思い込みの激しい未熟な男なのかもしれないと思わせる。対する清水さなえが「根から明るく同時に現実を見据えている大人の女性」を演じているおかげもある。前2作の愛すべきカッコ悪さとは違うが、大人になり切れていない男のカッコ悪さと言えるのかもしれない。


 あがいて悶えて、自信過剰でいながら自信がない、等身大の男たちの物語。演出の後藤香がそれを意図したのかわからないが、リアルな(おじさん)たちの人間臭さが際立つ面白い3本になっていた。

2023.12.13

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『遺食』劇団INAGO-DX

2023年11月12日(日) @広島市東区民文化センター スタジオ2


 ●『遺食』 INAGO-DXイナゴデラックス

原作:オギエ博覧会『バラと肉』

脚本:武田宜裕×山川愛美

演出:武田宜裕

出演:武田宜裕、山川愛美、山田健太、市原真優、西村慎太郎(劇団Tempo)

声の出演:三浦雨々、青山正幸、江角昌美、江角幸記、江角幸真

スタッフ:舞台美術:奈地田愛

照明:佐々木隆良((株)篠本照明)

音響:川崎久司、岸本夏芽

衣裳:中川綾子、三浦有美

小道具:武田美由紀、江角昌美

舞台監督:池田典弘

宣伝美術:北木悠里(グンジョーブタイ)

映像:下前田碧

スチール:石井清一郎

映像記録:すえたけタイキ

当日運営:北木悠里、佐々木敦子、宮川愉可

制作協力:佐々木敦子

制作:宮川愉可


 「死んだら何味になりたい?」という強烈なコピー。「遺食」という聞き慣れない、そして一気にいろんなイメージが押し寄せてくる文字。チラシに衝撃を受けて、広島まで出かけることにした。


 「故人の遺志を受け継ぐ」ために、遺族は遺体の一部を「相続」して食すことが努力義務化された近未来の話。ぶっ飛んだ発想ではあるが、実は戦前の日本でも地域によっては火葬後の遺骨を噛む(場合によっては食べる)「骨噛み」という風習があった。また人肉を食すカニバリズムは空想上の話ではなく(まさがに劇中で本制度の発案者が文化人類学者という設定だったが)文化人類学の研究でその風習を持つ地域があったことが知られている。飢餓状態でのカニバリズムではない場合は、その行為には「継承」であれ「復讐」であれ「輪廻」であれ、社会的な意味がある。


 その観点から言えば、本作は遺食制度が導入された理由に説得力が不足している。遺体を食することと「遺志を受け継ぐこと」が結びついていない(その説明がない)からだ。仮に遺食することが遺族にとって物理的に変化をもたらすとか、遺食しないと遺言がわからないとか(SFっぽい)、絶対的な愛情のバロメーターとなっていて食べないと世間体が悪いとか、突飛ではあるがそんな理由があれば納得する。だが本作には受け入れるにせよ拒否するにせよ、社会的にそうせざるを得ない理由が設定されていないのだ。またそうでないのなら、国が「努力義務化」するほどにこの制度を推し進めたい理由がなければならない。前提部分の説得力不足に引っ掛かりを覚えながら鑑賞する。


 ところが、(通常なら物語の前提に説得力がないのは致命的なはずなのに)なかなかに印象に残る作品となったというのが面白い。まずは簡単にあらすじの紹介をしよう。故人の肉を相続して食べる法律が定められて数年、その生みの親ともいえる文化人類学者エイイチが亡くなった。エイイチの息子である公務員のエイゴ(武田宜裕)は父親の肉を遺食するのを拒むが、「遺食師」のイトウ(山田健太)が現れ、葬儀と同等の儀式として遺食の準備が進められていく。そんな中、エイゴは遺食師のイトウとエイゴの後妻・春花(山川愛美)のあいだに過去に何かがあったことに気づく…。


 本作の面白さは「食べる」という行為と愛情を結び付けて見せる点だ。エイゴの娘モモが恋人にあれこれ手料理を食べさせてもらうこともそうだし、実の息子が拒否するエイイチの肉を春花は食べると言うこともそうだ(おかげでエイゴの後妻である春花はひょっとしてエイゴの父のエイイチのことが好きだったのかというフラグがかなり早くから立つ)。出色は学生時代から春花のことを想っていたイトウが春花に「食べていいよ」と言われ食べようと迫るシーン。「食べる」は性行為のメタファーとして浸透しているせいだろう、好意を寄せる女性を食べようと迫るイトウ、後ずさりしながらなすがままになる春花、この2人の姿の生々しいこと。特にイトウ役の山田の湿った感じと、春花役の山川のそそられるような魅力が相まって、ここで初めて「食べるほどに愛している」ということが腑に落ちる。これによって、ラストの泣きながらエイイチの右手をかじる春花のシーンが際立ち、彼女は勤めていた頃からずっとエイイチが好きだったのだと明らかになる。――死後に春花の誕生日だと花を贈ってきたエイイチ、しかも誕生日を間違えて…春花はそのことが分かった瞬間に泣きだし上述の衝動に駆られるのだが、エイイチは春花の気持ちに気づいていたのかもしれないとか、学者バカで気づかないままだったのかもしれないとか、登場しないエイイチとの関係まで観客が思いを巡らせるラストとなっている。終盤からラストにかけて密度が濃い。


 欲を言えば、エイゴの「父親を拒絶する態度」をもう少し複雑に描けなかったか。文化人類学者のエイイチがフィールドワークに出かけ家庭を顧みないという理由を口にしていたが、実は春花の気持ちが父親にあることに心の奥底で気づいていた(自覚はしていないが)…エイゴをそんな風に描けていたらと惜しい気がする。その不足は台本のせいか、演技のせいか。


 食と愛の禁断の関係を描いたが、子や孫を含む遺族による「遺食」の制度は少しそれとはズレがある。ある意味、遺食が制度化されている設定でなくても本作は成立するのかもしれない。とはいえインパクトも大きく勢いのある面白い作品だった。


追記:私は文化人類学者の妻です(笑)。

2023.12.03

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プロフィール
柴山麻妃

●月に一度、舞台芸術に関係するアレコレを書いていきまーす●

大学院時代から(ブラジル滞在の1年の休刊をはさみ)10年間、演劇批評雑誌New Theatre Reviewを刊行。
2005年~朝日新聞に劇評を執筆
2019年~毎日新聞に「舞台芸術と社会の関わり」についての論考を執筆

舞台、映画、読書をこよなく愛しております。
演劇の楽しさを広げたいと、観劇後にお茶しながら感想を話す「シアターカフェ」も不定期で開催中。
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