劇ナビFUKUOKA(福岡)

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『NDT1  Japan Tour 2024』Nederlands Dans Theater

2024年7月13日(土)14:00~ @愛知県芸術劇場

NDT1 Japan Tour 2024

出演:Alexander Andison, Fay van Baar, Anna Bekirova, Jon Bond, Thalia Crymble, Matthew Foley, Scott Fowler, Surimu Fukushi, Barry Gans, Conner Bormann, Pamela Campos, Emmitt Cawley, Aram Hasler, Nicole Ishimaru, Chuck Jones, Madoka Kariya, Genevieve O’Keeffe, Paxton Ricketts, Kele Roberson, Charlie Skuy, Yukino Takaura, Luca-Andrea Lino Tessarini, Theophilus Vesely, Nicole Ward, Sophie Whittome, Rui-Ting Yu, Zenon Zubyk





 NDT(ネザーランド・ダンス・シアター)が5年ぶりに来日するという。世界中の選りすぐりのダンサーが集まっているこのカンパニーの作品が見られるとあって、ダンスに疎い私も一度は拝んでおきたいと名古屋まで出かけた。そして…結論から言えば、行ってよかった。徹底したクラシックバレエのテクニックを身に付けたダンサーによる、振り幅の大きな異なる3本の前衛的なダンス。拙い言葉だが、「ダンスって面白い…!」と思った。ダンスって、ダンスって…なんて豊かなんだろう!


『La Ruta』(by Gabriela Carrizo)


 まるで一本の映画を見ているかのような作品である。こんな作品もアリなのかと驚く。

 真夜中のバス停。日本語の話し声が聞こえ、やがて消えていき…暗闇、白々とした灯り、車のライト。悪夢を見せられているのだろうか? 車に轢かれて倒れ死にゆく女、その身体を引きずっていく男、狂っていく身体、ぐにゃりとありえない動きをする屍人、サムライ、馬をかぶった男…、狂った世界に閉じ込められているような感覚を覚える。

La Rutaとは道のこと。深夜の人気のない道路の怖さを思いだす。同時にそんな場所で人が現れた時の、異なる怖さも思いだす。そして見ている自分の身体が、恐怖なのか驚きなのか、時々ビクリと反応することに気づく。不気味な空気が私にも纏わりついているような気にもなる。同時にこの空気にワクワクとしている自分もいるから、感覚ってやっかいだ。

 「これもアリなのか」と驚いた理由は、きっと、テクニックを「見せつけない」ダンスだったからだろう。けれどどのシーンを切り取ってもおそらく絵になるのは(そう、怖いのだがとても美しいと思ったのだ)、それこそダンサーたちの動きにムダが無いからかもしれない。


『Solo Echo』(by Crystal  Pite)


 美しくて息をのんだ。ブラームスの音楽の中で少しずつ変容する彫刻のようなダンス。これは人生を表わしているのかと思ったのは、ラストの降りしきる雪を見て。黒い背景に横一列に切り取られた窓があり、そこから雪なのか桜なのか白いものが舞っているのが見える。人生の終わりだと思ったのは「散る」というイメージのせいだろうか。


『One Flat Thing, reproduced』(by William Forsyth)


 一転してカラフルな衣裳に身を包んだダンサーたちが長テーブルをズイイイと押して並べて始まる。舞台上には規則的に並んだ20台のテーブル。いや、踊りにくいよね⁉ 狭いよね⁉ 動きが制御されるよね⁉ とギョッとする中でダンサーたちが二人ずつ、あるいは三人ずつのアンサンブルで(その組み合わせも変えながら)、テーブルの上や間を使って踊っていく。私が面白かったのは、いわゆるコンテンポラリーダンスでよくある「全体的な」調和とズレが一切なかったこと。それらはすべて「個別的」に組み合わさっていて、全体で見ると不規則で複雑。あちらこちらでいくつもの「調和とズレ」が生み出されているように見える。互いのキューの出し方(顔や目を合わせたり、カウントだったり)も異なっているし、観客が無意識に用意している予定調和を軽く飛び越えていく。これは…観ているよりかなり高度なことなんじゃなかろうか。しかも障害物(テーブル)のせいで動きを細かく計算しなければならないし、さらにこの環境ではかなり鍛えていないと踊れない。

 それなのに、受ける印象はどこまでも軽やか。衣装がカラフルなことも手伝って、楽しそうなんだよなぁ。「あした衣装の色が変わったら(例えば今日は黄色のTシャツ、明日は赤とか)やることも変わるのかな、雰囲気ちがうよね」なんて考えるほどに明るくて楽しげ。ストイックに美しく見せてくれるダンスも惹かれるけれど、表情からしてキラキラ輝いているこんな感じのダンスもいいなぁ。全体の一部ではなく「自分たちが」踊っている、という気持ちなのかな。・・・そんなことも考えたりして。


 それにしても、振付家がちがうとはいえ全く異なるタイプの3本のダンスで、幅の広さに感服。これは「高度な技術」「前衛的な作品づくり」というNDTの特徴でもあるだろうが、私にはダンスの豊かさの表れのような気がする。そうしてダンスの深淵に触れて圧倒された私はやっぱりつぶやいてしまうのだ。「ダンスって、面白い…!」と。

2024.08.03

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『ライカムで待っとく』

2024年6月15日(土)13:00~ @久留米シティプラザ 久留米座

『ライカムで待っとく』

作:兼島拓也

演出:田中麻衣子

出演:中山祐一朗、前田一世、佐久本宝、蔵下穂波、小川ゲン、神田青、魏涼子、あめくみちこ

美術:原田愛

照明:齋藤茂男

音楽:国広和毅

音響:徳久礼子

衣裳:宮本宣子

ヘアメイク:谷口ユリエ

演出助手:戸塚萌

舞台監督:藤田有紀彦

宣伝イラスト:岡田みそ

宣伝美術:吉岡秀典

企画制作:KAAT神奈川芸術劇場

(久留米公演)

広報:陶山里佳、竹下久美子

票券:伊藤未紀

制作:宮崎麻子、穴井豊太郎



 2024年6月16日、沖縄県議会議員選挙が行われ、玉城知事を支持する県政与党は過半数を下回るという結果が出た。経済の活性化など沖縄が抱える課題は多いため、この結果が示す意味を一つに絞ることは私にはできない。だがこのことが玉城知事の「普天間から辺野古への基地移転反対」という主張に与える影響は小さくないかもしれないと思う――『ライカムで待っとく』を見た翌日のこのニュースに、これは芝居ではなく現実であり現在の話なのだと改めて思う。


 *****


 東京で雑誌ライターをしている浅野は、妻の祖父の葬儀のため沖縄にむかう。その直前に自分と瓜二つの顔をした60年前の男の写真を見せられ、その男が米兵殺傷事件についての手記の筆者であることを教えられる。沖縄に渡った浅野は、偶然にもその殺傷事件の容疑者が妻の祖父・佐久本であることを知る。浅野はこの事件の取材を進めていくうちに、現在とも過去ともつかない混然一体となった「沖縄」の中に入り込む…。


 おそらく観客の誰もが「沖縄は日本のバックヤードだ」というセリフ(実際に舞台をよく見れば、大きなビニールカーテンに囲まれている。私たちはバックヤード(・・・・・・)()見て(・・)いる(・・)のだ)や、「寄り添ってあげますよ」というセリフに引っ掛かり、衝撃を受ける。特に沖縄在住でない観客は自らの「加害者性」――「知らない」ことも罪である――に気づかされる(あるいはリマインドさせられる)。さらに、沖縄に米軍基地があること(しかも日本にある基地の中で最も面積が大きく、地元民の居住区と最も距離が近い)を受け入れている・押し付けていることによって今の生活があることに気づき、当事者意識の欠如を恥じる者もいるだろう。本作は、浅野が巻き込まれ気が付いていくのと同時に、観客も巻き込まれ気が付いていく。メッセージの多様性も含め、非常にすぐれた作品だと思う。


 さて本稿では少し違った視点で論じてみたい。それは「フィクション/ノンフィクション」という構造についてだ。本作の面白くて優れている点の一つが、「フィクションである」という芝居の特性に自覚的であるということだ。それが大きな意味を持たせることになっている。


 まず本作は史実や現在進行形の状況についてベタに描いていない。浅野は60年前の世界と現代を行き来して翻弄される。タクシーに乗れば運転手に「(知らない過去や未来まで)全てお見通し」かのように語られ、60年前の米兵殺傷事件の当事者たちと対峙し、挙句の果てには行方不明になった娘を必死に探すも「いなくなることは必然である」とされ、選べない選択を突き付けられる。まるで浅野が沖縄を他人ごとではなく「自分事」として捉えていくための通過儀礼であるかのように。このSF的な展開が時間的・空間的に「よそ者」である浅野を当事者として巻き込み、それによって浅野(=よそ者)としての観客を巻き込むことに成功しているわけだが、これは芝居としてよくある手法ではある。


 興味深いのはその先だ。沖縄は諦めて事件や差別を受け入れている、諦めて「よりマシ」程度の未来を選ぶしかないとの声を聞いた浅野が、舞台上で動き続ける「回り舞台」を止めようとする。つまり、物語(フィクション)の登場人物が、現実の芝居の機構を止める動きをするのだ! 物語(フィクション)から抜け出し浅野が止めようとしたリアル、それは現在まで続く負の歴史であり、沖縄の諦めである。そして登場人物が物語から抜け出すという行為は、完結した「物語」を破綻させることを意味する。沖縄は長く「物語化」されてきた。戦争、基地、事件、何のことであれ語られてきた、けれども「物語化」とは他人事の表れだ。そして「物語化」は分かりやすさを優先し、零れ落ちるものも多い。「自分たちは物語の中に閉じ込められている」というセリフが示すように。「語られる存在」がその物語を抜け出すこのシーンは、却って他者を物語化する暴力に気づかせる。


 ああ、そういうことかとラストにも納得する。たたずむ殺傷事件当事者たち3人と浅野を一瞬の閃光が包み暗転、終幕となる。おそらくその光はカメラのフラッシュだろう。冒頭で浅野が見せられた写真ではその3人と浅野のそっくりさんが写っていたが、ラストでは過去と現在が混然となった彼らを観客の目がカメラとなって撮った形で終わる。2024年の現在の観客の私たちに、過去であれ現在であれ「自分たちの目で見ろ」と示唆しているのだ。


 そういえば、本作にはたくさんの「物語る媒体」が登場する。米兵殺傷事件の真相を描いたとされる手記。死者と会話することができる金城さん。事件後の裁判。知らないうちに書き進められている浅野の記事。資料が入った段ボール箱ですら開くと語りだす。そこには様々な言葉があって意思があって声がある。その気になれば周りには多くの「物語る媒体」があるのだと気が付くはずだ。誰かのたった一つの物語を妄信したり、また何かの記事だけで分かった気になったりするのではなく、自分のその目で確かめて自分のその耳で声を聞けといっているのだ。同時に、自分が作ってしまう「物語」の暴力性にも自覚的であれと。


 沖縄の未来にあるのは絶望か希望か。そんな雑な「物語」ではなく、複雑で様々な声を聞いて読んで考える努力をしよう。それが私の当事者性だと考えた。

2024.07.02

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『Plant』劇団言魂

2024年4月13日(土)18:00~ @枝光本町商店街アイアンシアター

●『Plant』 劇団言魂


作・演出:山口大器

出演:池高瑞穂、片山桃子、森唯美、横佐古力彰、山口大器

照明:菅本千尋(演劇空間ロッカクナット)

音響:吉田めぐみ

演出助手:瓦田樹雪

稽古補佐:木下海聖(有門正太郎プレゼンツ)

制作:劇団言魂

宣伝美術:山口大器


 物言わずただそこに生きている植物と、他を支配し君臨したい人間。この対比と、両者の思いもかけぬ結びつきが面白い。劇団言魂『Plant』は、突拍子もない発想で魅了しながらいろんなことを考えさせる、興味深い作品である。


 近未来なのか、パラレルワールドなのか、今の日本とはほんの少しだけ違うどこかが舞台。人々の右手にはマイクロチップが埋め込まれており、それは個人情報管理はもとより他者との関係を築く上で重要な役目をはたしている、そんな時代である。


 円(森唯美)が1か月ぶりに実家から恋人・直と同居している部屋に戻って来ると、部屋はもぬけの殻で代わりに大きな植物が残されていた。劇団主宰で探偵業のバイトもやっている友人・優人(山口大器)やその後輩で植物を研究している君丸(横佐古力彰)の協力も仰ぐが、直は見つからない。そんな折に、直のことを知っているらしい女の子(片山桃子)に会い、直がどうやら植物になったのではないかと気がつく…。


 面白かったのは、マイクロチップによって「合意」をとるというエピソードである。――自宅に他人(友人であっても)が来る場合に、互いの右手のひらを合わせることで(=マイクロチップをかざすことで)、「招きました/強引に押し入っていません」との「合意」をとる。芝居の稽古において演出家がダメ出しをする際には「問題発言をしていません/傷ついていません」との「合意」をとる――。現実でも2023年末に「性的合意アプリ」なるものが開発されたというニュースを見たのだが、まさに現在と地続きにありえそうなこのフィクションが実に示唆的で面白い。ハラスメントはあってはならないことだが、その一方で加害者になるのを恐れるあまり「問題がないと思っているかどうか」をいちいち確認させてほしいという心理…バランスの取り方が難しい現代をよく表している。すべてにおいて「合意」をとれば解決ではないか!と、短絡的にチップの「合意」に頼りたくなる気分はわかる。いや、この「合意」すら強制的に合意させられましたと言われることもあろう、そのためにチップ所持者の血流や心拍数から心理状態を検知して…? 本作ではそこまでの話はなかったが(心理状態の検知は別のエピソードだった)皮肉な現実味がある。


 物語の肝となるのは「人間の植物化」。植物になってしまった直はモラハラ気質だった(そのために円がプロポーズを受け入れられず実家に帰っていた)ことが分かるのだが、優人もまた劇団で過去に強権的だったことが明らかになる。今ではすっかり反省したかに見える優人だが、少しずつ木になりかけている。後輩・君丸への態度からも優人のパワハラ気質は治っているわけではなく…どうやら、支配的で、高圧的な態度をとる人間が植物になっていくらしいとわかる。そのことに納得してしまうのは、ハラスメント加害者に対して「お前は(植物のように)黙れ!」と言いたくなるからだろうか。因果関係なんて一つも説明されていないのに妙な説得力がある。


 ユニークなのは優人の植物化していく様子。芽が出て、葉が生え、枝が出て、木になり、足から根が出て張るようになり…変化していくビジュアルはインパクト大。優人役の山口大器の焦る様子が面白さに輪をかけている。物言わず中央に鎮座している大きな木(=直)との対比もあり、最終的にこうなるのだろうと悲劇的な結末も思わせるのに、植物化する優人のビジュアルにやはり笑ってしまう。本人にとっては悲劇だが周りにとっては喜劇、の典型かもしれない。―――と笑って見てはいたが、そして優人が最後の最後までセクハラまがいのことを必死に叫び続けることもあって見ている時は気がつかなかったが、これはいじめの構造にも似ている。他者からの奇異な目に晒されるということ、被害者が言葉を失ってしまうこと、そんな目に遭わされた者たちの復讐が「植物化」ということなのか。


 本作は徹頭徹尾、被害者と加害者は分断され、分かり合えないと言っているように聞こえる。例えば直も優人も反省し自分の態度を改善しようと試みていたらしいのにそれでも植物化してしまうという結論。人の根本は簡単には変わらないという絶望の表れだろうか。また、いずれは完全な植物になるのに、それでも火をつけて優人を殺してしまおうとする君丸の姿には、虐げられていた者は加害者を絶対に許さないという悲痛な決意が見える。


 となると、「被害者/加害者」と厳密に分かれて、決して分かり合えず、人は変わることがないという、かなりきつめの人生観を持った芝居ともいえる。そんななか登場する桜(池高瑞穂)は怪しげな宗教めいたことを主張するしお近づきになりたくないタイプではあるが、「(マイクロチップに振り回されて、)みんな人を見ることをやめている」といった批判は一理あるし、この芝居を中和する役目を担っていると言えるのかもしれない。


 シーンに合わせて天井に吊られてテーブルが降りて来たり、植物化していく様子の美術がよくできていたり、演劇ならではの仕掛けも楽しませてくれた。

2024.05.12

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ミュージカル トッツィー

2024年3月8日(金)17:00~ /2024年3月19日(火)17:00~ @博多座


●ミュージカル トッツィー

脚本:ロバート・ホーン

演出:スコット・エリス

出演:山崎育三郎、愛希れいか、昆夏美、金井勇太、岡田亮輔/おばたのお兄さん、エハラマサヒロ、羽場裕一、キムラ緑子

音楽・歌詞:デヴィッド・ヤズベック

振付:デニス・ジョーンズ

演出補:デイブ・ソロモン

オリジナル装置デザイン:デヴィッド・ロックウェル

オリジナル衣裳デザイン:ウィリアム・アイヴィ・ロング

翻訳:徐 賀世子

訳詞:高橋亜子

音楽監督・指揮:塩田明弘

日本版装置デザイン:中根聡子

照明:日下靖順

音響:山本浩一

衣裳:中原幸子

ヘアメイク:岡田智江


 1982年公開の映画『トッツィー』が40年前の映画であるにもかかわらず今見ても古臭く感じられないのは、「男性が女装すること」のコメディではなく、「男性が女装することで浮き彫りにした社会の矛盾」を笑うコメディだからだ。この映画を、なぜ現代(いま)、ミュージカル舞台化するのかと考えると――いや逆に、まだこの映画のテーマが十分に通用してしまうこと、過去の遺物になっていないことこそが問題なのだと気づく。本作、「山崎育三郎の女装」が宣伝として独り歩きしていた感があり一抹の不安もあったけれど、映画同様に(アップデートして)「男性が女装することで初めて見えてくるジェンダー問題」を描いた舞台になっていた。


 物語の舞台はブロードウェイ。売れない俳優のマイケル(山崎育三郎)は実力はあるものの自信過剰でこだわりも強く、トラブルメーカーとして仕事を干されてしまう。そんな中、元カノのサンディ(昆夏美)がオーディションを受ける話を聞き、マイケルは女装して「ドロシー・マイケルズ」としてオーディションを受け、合格してしまう。個性的で歯に衣着せず建設的な意見を言う姿は、同じ舞台の仲間にも好評、かつプロデューサーにも気にいられ、あれよあれよと主役に抜擢され一躍大スターになる。共演者のジュリー(愛希れいか)と演技論を交わしお互いのことを知るうちに、マイケルはジュリーに恋をし、ある日思わずキスをしてしまう。マイケルを女性だと思い込んでいるジュリーは戸惑うが、一大決心をして「彼女」の愛を受け入れようとする。ところが…。


博多座内の撮影スポット ドロシーと同じポーズで撮る人が多かった

 映画同様に本作も社会における女性の苦悩を描こうとしている。例えば、女性は「謙虚であること」が求められること(なぜ、自分の意見を言えば「ヒステリー」と言われるのだ?)、「勘違い」させないようにふるまいに気をつけなければならないこと(言い寄られる方が悪いのか?)、若い女性が男に依存せず自らの力で成功する難しさ、などである。正直に書けば、これらに関しては映画の方がしっかりと伝わる。「女性として」目の当たりにしたドロシーが強引な手法で変えていく事で、周囲にも変化が現れるさまが描かれているからだ。一方、舞台である本作は、ジュリーに語らせて「まとめて示した」ように見える。


 しかし、映画からアップデートされた部分が興味深かった。例えば、元カノ・サンディが欲しがった仕事(役)を(女装しているとはいえ、男の)マイケルが奪った形になってしまったことについて、親友のジェフ(金井勇太)に「女が男の股間からパワーを取り返す時代に、(女装した)男が女のポストを取り上げるのか」とはっきり批判される(映画ではその点はなぁなぁなまま)。もちろん本作が成り立たないので仕方がない設定だが、ジェンダーバイアスを浮き彫りにする前にこの矛盾について断りを入れておこうという姿勢に、なるほどとうなづく。


 また女性の若さに価値を置きすぎる日本において、中年女性であるドロシーが若い男優に一目ぼれされるという設定はなかなかに大きな意味を持つ。「恋愛は若い女性のもの、中年女性が恋愛の対象になるはずがない、ましてや若い男性からの求愛なんて」という偏見を打ち破るインパクトは大きい。それだけでない。ドロシーは言う、「おばさんだって願望はあるのよ」と。中年女性は恋愛において主体にもなるのだという主張は、男性・若い女性のみならず中年以上の当人たちにとっても、当たり前だが新しいメッセージになっている。


 ドロシーからキスをされたジュリーが、じっくり考えた挙句に、自分はレズビアンではなかったけれどと言いつつドロシーを受け入れようとする点も、映画との大きな差異で価値がある変更だ。映画ではジュリーはドロシーを拒否する(ドロシーが男性であると明らかにして歩み寄る所で終わる)が、本作はジュリーがドロシーを受け入れる、いや、積極的に欲しいと手をのばす。以前なにかの本に、セクシュアリティはプロセスとして捉えるべきだと書かれていたのを思いだした。「ヘテロセクシュアル/ホモセクシュアル」だから「異性/同性」がほしいのではなく、その相手が欲しいのだという気持ちに従えば、セクシュアリティは絶対の属性ではなくプロセスに過ぎないという――これこそが2020年代だからこその描き方かもしれない。そしてこういったジェンダーやセクシュアリティに関する丁寧なアップデートが、日本にいい刺激を与えるだろう。


 最後にキャストについて。昆夏美がとんでもなく魅力的で強く印象に残る。早口で音程の差が激しい難曲『未来が見える』を、ヒステリックにテンション高く、そしてかわいく歌いこなしている。マイケルの親友ジェフを演じる金井勇太も、好感度の高い楽しい存在である。ジュリーに言い寄る傲慢な演出家はエハラマサヒロが演じるが、嫌味なく笑わせてくれる。彼を中心にしたアンサンブルのダンスは真似したいほど面白い。


 ただ、個人的には、ドロシー役(女装時)は良いが、マイケル役の山崎育三郎にはピンと来なかった。というのも、自信家で傲慢で性格に難ありのマイケルにしては、山崎の声に色気がありすぎる。二役をやったがゆえに際立ってそう感じられたのかもしれない。

2024.05.02

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『インヘリタンス―継承―(前・後編)』

2024年3月9日(土)13:00~ @J:COM北九州芸術劇場 中劇場

●インヘリタンス―継承―

作:マシュー・ロペス

演出:熊林弘高

訳:早船歌江子

ドラマターグ:田丸一宏

出演:福士誠治、田中俊介、新原泰佑、柾木玲弥、百瀬朔、野村祐希、佐藤峻輔、久具巨林、山本直寛、山森大輔、岩瀬亮、篠井英介、山路和弘、麻実れい

美術:二村周作

照明:佐藤啓

映像:松澤延拓

音響:長野朋美(オフィス新音)

衣裳;伊藤佐智子(ブリュッケ)

ヘアメイク:稲垣亮弐

ムーブメント:柳本雅寛

インティマシーコーディネート:西山ももこ

舞台監督:齋藤英明

大道具:伊藤清二(C-COM)

小道具:西村太志(高津装飾美術)

広報:森明晞子


 これは「記憶」の継承である。


 わずか数十年の、それもアメリカ社会に限定した話ではあるが、性的マイノリティ(本作では男性同性愛者・ゲイに特化している)がこの異性愛社会でどのように生きてきたのか、その記憶のバトンを渡していく作品である。冒頭で響く言葉「彼らには語るべき物語がある」――それは、個人やそのカップルたち固有の物語でありながら、同時にゲイとそのコミュニティの普遍的な物語である。


 物語の主軸となるのは2組のカップル。30代のエリック(福士誠治)と劇作家のトビー(田中俊介)、初老の不動産王ヘンリー(山路和弘)とウォルター(篠井英介)だ。彼らの人生を通して、ゲイが生きにくかった時代からエイズ禍、そして同性婚が認められた現代までの歴史が描かれる。


 歴史…とはいえ、描かれるのは基本的に個人的な話だ。痴話げんか、浮気による関係の破綻、失恋、恋人の元彼の存在(本作では元彼ではなく男娼だった恋人の「元客」なのだが)、病気、死。例えばこれを男女のカップルに置き換えても少し手を加えるだけで十分に成り立つほど、「よくある個人的な話」である。ところがそれが男性同士のカップルになった途端に、あらゆる面において社会的な意味が付加されてしまう。恋愛関係は隠さねばならず、欲望に満ちた出会いの場は性暴力の温床であり社会からは「HIVウィルスの温床」といった偏見の目にさらされることになり(だから性暴力の問題が顕在化しにくい)、エイズはゲイの病気だとの偏見が流布し、単なる婚姻にこぎつけるまでに長い年月を要し、(それらの問題によって)一人で最期を迎える者も多くいるだろう。


 だから、彼らは生きるだけで「政治的な存在」にならざるを得ない。生きるだけで戦わざるを得ない。大文字の政治という点では、どの政党が政権を握るかは彼らにとって死活問題である。新しい恋人が共産党支持者と分かったとたん長年の友達がエリックから離れていったことからわかるように、彼らにとってそれは単なる主義主張の違いではない。暴力的に抑圧され、権利を取り上げられ、差別が助長される…作中でヒラリーか「あの男」か(名前すら出されない)の大統領選挙のシーンが大きな意味を持つのは、その結果によってアメリカでゲイとして安心して生きていけるかどうか大きく変わるからである。(「あの男」が再選される可能性がある2024年現在、これは物語ではなく「現実」だと改めて思った))


 小文字の政治という点でも、いくつものセリフがそれを反映している。例えば、「『ゲイ隠し』(の時代)が懐かしい、今やゲイが文化的指標になっている、ゲイカルチャーを盗用し…」といった一連のセリフ(注:正確ではない)。解釈するなら「ゲイ文化ってなんかお洒落だよね」という好意的「持ち上げ」方をされる時代にもなったけれど、それは決して喜ばしいことではない…なぜなら都合の良いところだけを「評価する・受け入れる」という上から目線の傲慢さの表れであり、イメージの反転に過ぎないし(つまりは一方的で独断的)、またその像に合致しないゲイの存在を認めないことにつながるし、ゲイコミュニティーの文化が都合よく異性愛社会に盗用され消費されているのだと感じる…それぐらいなら大切なものを守るという点ではゲイであることを隠していた時代を懐かしく思う…といった所だろうか。異性愛社会の中でゲイが生きていく事は、本人が望まなくても政治的存在にならざるを得ないということなのだ。


 「認知されるために頑張ってきた。でも文化的認知とゲイの認知は違う」というセリフもそうだ。ありのままの存在を認めてもらうという当たり前のささやかな要求が、なぜジャッジされ、否定され、戦わねばならないのか。テンポの良いセリフの応酬の中に彼らの苦しみや憤りや呆れや悲しみが詰まっている。


 ラストになって、今見たこの「物語」が、登場人物の一人であるレオの小説だったのだと気がつく。演出の熊林弘高は、舞台上に枠を作りその中でエリックたちの物語を展開させ、枠の外に置かれた椅子に小説家が座って、始終その物語を眺めているという構図を作った。(冒頭で小説家志願の青年たちにこの小説家が、なぜ書くのか、何を書きたいのかを問う形で本作が始まる。その小説家が枠の外から「物語」を見ているという構図だ)最初はこの小説家の「傍観」を「無責任な傍観者の私(たち)」に重ね合わせているのかと勘ぐりもしたが、いや、むしろ彼のまなざしは優しい。そこで改めて冒頭をふり返ると、本作が「いっそのことヘレンの手紙から始めよう」という『ハワーズ・エンド』の冒頭から始まっていたことを思い出し、つまりはこの小説家こそが『ハワーズ・エンド』の作者E・М・フォスターなのだと気がついた。(マシュー・ロペスが、『ハワーズ・エンド』にインスパイアされて本作を書いたと後から知った。)ゲイたちの物語、を書いたレオの物語、をフォスターが穏やかに見守っているという入れ子構造だったのだ。その構造が、「大切な物語を幾重もの箱にしまっている」姿にも見える。


 誰かを愛し、生きたこと。その存在の記憶を書き留めて繋いでいくこと。見終わってしみじみとその意味が身体に染みわたっていく。役者たちの演技は、新鮮で、生々しく、激しく、美しく、痛々しく、哀しく、「生」そのもの。どの存在も包み込んであげたいと思った。人を大切に愛しみたい、誰もがそんな存在であるし、そうできる人でありたいと、強く思える作品である。

2024.04.23

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プロフィール
柴山麻妃

●月に一度、舞台芸術に関係するアレコレを書いていきまーす●

大学院時代から(ブラジル滞在の1年の休刊をはさみ)10年間、演劇批評雑誌New Theatre Reviewを刊行。
2005年~朝日新聞に劇評を執筆
2019年~毎日新聞に「舞台芸術と社会の関わり」についての論考を執筆

舞台、映画、読書をこよなく愛しております。
演劇の楽しさを広げたいと、観劇後にお茶しながら感想を話す「シアターカフェ」も不定期で開催中。
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