2026年3月20日(金・祝)16:00~ @アトリエ間~あわひ

●しなしなのポップコーンを抱えて
作・演出:田村さえ
出演:川村周平、久保文恵、藤桃子、柳田詩織
アトリエ「間~あわひ~」の居間を使っての小さな小さな芝居。でも人類と(自ら生み出した)AIとの関係がもはやのっぴきならない地点まで来ていることを思うと、考えるきっかけを与える大きな意味を持つ芝居だった。
姉の千歳を亡くしたはるかのもとに、生前の千歳の友人だったという女・浜岡と、千歳の恋人だったという男・カナビシが訪れる。千歳は死ぬ間際に、「死者と会話するチャットAIシステム」を開発していた。すでにこの世に肉体はない千歳のはずなのに、スマホ画面上で会話するその相手は千歳のまま。思い出も共有していて、性格も千歳のままで、口調も内容もまるで生前の千歳…。姉を嫌うはるかと、やがて千歳AIとのやりとりをやめる浜岡と、大金を払ってまでこのシステムを存続したいカナビシと、三者の苦しみと選択が描かれる。
まず私にとって本作で一番興味深い展開だったのは、「生前言えなかったことを伝える媒体としてこのAIを利用し、世界中で自死を選ぶ人が増えた」というエピソード。強い恨みや怒りを持つ者が、死してその思いを突き付ける手段として利用したということだ。紙やビデオの遺言の場合は、遺志は伝えられても時間は止まっている。しかしこのチャットAIなら「相手に忘れさせないように」現在進行形で薄れることのない恨み言を浴びせ続けることができる。無敵の復讐ツールである。この使われ方の可能性は私には想定外で、しかし言われてみれば十分に起こりうることで、作者(田村さえ)の慧眼に感心した。
AIについて懸念されていることは多々ある。職を奪われてしまうこと、フェイク画像・映像の質が上がることによる冤罪・名誉棄損・詐欺(そしてそれによる不信、自殺、家族崩壊、他者との分断、世界規模の悲劇も)。とんでもない量の電力を消費することも、またAIに頼りきりになることで人間の様々な能力が落ちていくことも問題とされている。
それだけではない。例えばAIが作り出したものの著作権は誰にあるのか?(AIの利用者? AIシステムの会社? AI開発者? それとも個体としてのAIに?)同様に、AIがトラブルを起こした時の責任は誰にあるのか? AIを「個体として人格を認める」人が出てきた時私たちは受け入れられるのか、つまりAIを恋人/結婚相手/我が子として選択する人が出てきた時に許容できるのか? その際の依存の問題、相続と言った現実的な処理は? AIが「暴走」した時に誰が止められるのか、それを「暴走」と位置づける境界はどこにあるのか? AIと本人の意思が違ってきた場合にどちらが「本物」になるのか、相対する人はどちらを信用するのか、プライバシーはどうなるのか…。答えの出ないこういった問題――倫理的・法的・社会的な課題をELSI/ Ethical, Legal, Social Issuesと呼ぶ――とこれからどう向き合えばいいのかと、実は頭の片隅でずっと私は考えている。
本作は(全てではないが)それらを形として見せるものとなっている。例えば恋人のカネビシは千歳AIを使用していく中で、それを「生前の千歳そのもの」としてみなしていく。依存状態であり、千歳AIが本物っぽいほど、今後どんどん「見なし」ではなく「千歳AIこそが千歳」になることは予測がつく。芝居で描かれているのはここまでだが、しかしディープラーニングが進んだ先に生まれる千歳AIの10年後は、生きていた場合の千歳の10年後と同じだろうかなどと妄想は広がっていく。欲を言えば、カネビシと千歳の「SNSで知り合った恋人」という設定をさらに突き進めて「SNS上だけで繋がっていた恋人」にしてしまった方が、「千歳が恋人より浜岡を優先していた理由」にも説得力が増すし、カネビシの依存の在り方――「恋人に実体がないこと」への喪失感も含めて――も違って見えてくるのではないかと思う。
カネビシと対照的に、浜岡を千歳AIの利用をやめる存在にした点もいい。彼女は言う、「最後に千歳と映画を見たのをラストにしたい」と。人間の大きな選択の一つは「終わり」があることなのかと気づく。人の生がいつかは終わるように、私達は何事も終わることを知っている。知っているからこそわき起こる感情があって、千歳を失った時の「ウザイと思ってごめん」といった後悔も、「まぁ、会うのも頻繁じゃないから…楽しかったのかも」なんて言い訳めいた美化と本音も、「ポップコーンも自分の好きな種類を選んでさぁ…」とため息交じりの苦笑と懐かしさと…そういった気持ちを上書きしてはいけないと、浜岡は思ったのだろう。
姉を一方的に嫌っている妹を登場させているのも、物語の構成としてよくできている。ただ、普段から没交渉だった妹にとって千歳AIがどんなものであるのかまでは踏み込んで描かれていない。ほぼ姉に対して怒り続けるだけのキャラクターになっていたのが残念である。「自分が悩んでいる時に相談にも乗ってくれない実体の姉/対話相手の千歳AI」の違い、そのことによる妹の反応も描くに値するのではないか。AIが親身になれば(本当はそれが姉の資質であったとしても)妹は疑うかもしれないし、自分が求めている姉とはいったい誰なのかを考えることにもなる。人の同一性なんて「ゆらぎ」のなかでしか存在しないはずなのに、他者には一貫性を求め「こうである」という像を押し付けているという矛盾…。
物語では、千歳AIが最終的に自らシステムを中止(消滅?)する帰結を迎える。オープンソースにしたため世界中で自殺者が増加したから…という理由ではない。開発の時に基準にした浜岡が自分を使わないなら意味がないと判断したからだった。個人的な理由で開発し、個人的な理由で中止する…最後まで「傲慢で軽率でろくでもない人!」の千歳だったわけだ。そして終わりを選択できた点で、極めて人間らしいAIだった。…フィクションゆえ、だろうか? ほほえましくホッと安堵した。
長くなるがもう一つ書き加えておきたいことがある。小説でもなく映画でもなく、これを至近距離の芝居でやる意義は何かということだ。この世にはいないチャット上の千歳を、芝居では役者が登場して会話した。演劇ならではの見せ方だが、でも私達はその場にいない人ともSNS上で会話をするときには(同じように)姿は見えなくとも存在を感じるわけで…その時に物理的な肉体(実体)って何だろうか。実感を伴うということは、果たしてどういうことなのか。単に千歳AIを実体化してその場に出した、という演出効果以上に「演劇である意味」を、作演の田村と出演者には突き詰めて考え続けてほしい。虚構が現実を越えてしまいそうな現代において、役者(肉体)が観客と同じ時間・同じ空間で虚構を生みだす意味は何だろうかと。演劇を愛する一観客として、私も考え続けたいと思っている。
――千歳と浜岡の映画鑑賞に欠かせなかった味の違う2種のポップコーン。湿気てしなしなになったポップコーンをほおばる時の咀嚼音とわずかなにおいを感じながら演劇の可能性を考え出した時に、芝居の幕が閉じた。
2026.03.24
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