劇ナビFUKUOKA(福岡)

劇ナビFUKUOKA(福岡)
『轡田市猿田校区年度末区民会議』非売れ線系ビーナス

2025年3月20日(木・祝)15:00~ @松楠居

●『轡田市猿田高校年度末区民会議』

非売れ線系ビーナス

作・演出:田坂哲郎

演出助手:内田龍太郎

出演:风月、ぽち、田坂哲郎

制作:木村佳南子、ミナミエリ

Photo:あだな

チラシデザイン:ミナミエリ




 


 観客参加型の芝居のことを「イマーシブシアター」という。直訳すれば「没入型演劇」。観客も巻き込まれる形で作品の一部となるタイプの芝居である。2023年に北九州芸術劇場で佐藤隆太の一人芝居『エブリ・ブリリアント・シング』を見たのが、初めてのイマーシブシアターだった。主導権は役者にあるとはいえ、観客に自由に発言を促すとどこにたどりつくか分からない。従って予想よりもかなり自由度は低く、観客はあてがわれたセリフを順番が来たら話す、というものがメインだった(それだけではないのだが)。その意味では、手塚夏子の実験的なダンス(という表現でいいのかもはやわからないような)の方が、イマーシブシアター的と言えるかもしれない。


 さて非・売れ線形ビーナスの最新作は松楠居という古い木造家屋の二階を借りて、轡田市猿田地区の自治会の話し合いをするという(てい)の作品であった。観客…いや、参加者は役者と共に車座になって座り、猿田校区の問題点や祭りの話し合いに「参加」するというわけだ。田坂哲郎扮する「猿田まつり実行委員長の鯖芸」氏は「どーもどーも」と腰低くあいさつしながら名刺を配り、世間話をし…出席者たちは出されたお菓子とお茶をいただきながら、区民会議に参加する。本当の区民会議よろしく会議に必要な資料のコピーや、新しくなったという猿田神社のリーフレットまで用意されていて、「らしさ」満点である。


 参加者がどのくらい話し合いに加わるべきなのかと探り合いながら、口を開くのが面白い。こういった自治会会議の場では、互いに見知らぬ者も多いことから周りの様子を伺いつつ恐る恐る発言し始める。その状況と今回のイマーシブシアターならではの探り合いが重なっていて、うまくしたもんだと思う。議題3つの内の2つは、怪しげな作品の世界観(後述する)から作られている「地区の重要な問題点」であるためほぼ発言できない。その分、議題が祭りに移ると(現実世界でもよくあることなので)「あれに参加できます」「こういう協力もできます」と参加者たちが発言しやすくなる。少なくとも私が参加した回はみな積極的に協力を申し出ていた。面白いのが、参加者たちのそこでの提案が「フィクション」ではなく現実にあるお店やグループの紹介だった点だ。フィクションであるはずの会議が参加者によって虚実ないまぜになっていく。その後の練り歩きの「長(先頭で鳴りものを叩く役)」も、参加者から選出され参加者が投票、そのため選ばれなかった人は(初対面なのだから選出に根拠なんて無いのだが)少々気落ちするはめになる。無駄に気落ちさせるのが良いかどうかは別として、巻きこみ型の「虚実混在」がうまく機能している。


 ただし、「(フィクション)」の部分の中途半端さが気になった。


 最初に受け取る資料の中には、新しくなったという「猿田神社のリーフレット」も入っており、それがなかなかの本物っぽい。お菓子を提供される時も、後に猿田神社神主代理とわかる女性(ぽち)が意味ありげに手かざしを行う。議題も、なんだかよくわからない「うねり」というものが発生しているということ(被害状況の変化を比較できる地図資料も配布されている)、補償額についてなどの報告もされる。その後に、練り歩きの踊り(?)を参加者全員がさせられる。こういった仕掛けは十分だったのだが…。


 まず、練り歩きの踊りらしきものを参加者が練習する件。それまでの「うねり」だのわけが分からない用語も相まって、この新興宗教染みた動きをさせられるのは面白いとは思う。しかし、階段下まで行列で練り踊りをしたあと、そのままで作品自体がジ・エンド。途中でポンと投げ出された気分だ。参加者の多くが「これで終わり?」と首を傾げながら2階に戻るはめになる。


 次に、ジャージ姿(記憶は定かではないが)で部屋の端を動く女性(风月)の動きが猿のようで、猿田神社の名前と関連があるのかと気になったのだが、参加者が彼女のその動きに注目していたかと言うとあやしい。参加者はそれぞれ目の前の話し合いや、自らがどうふるまえばいいのかなどに集中していたからだ。そうして練り歩きの練習を終えて2階に戻ってきた時に、彼女が着ていたはずの服が散乱しているのを目にする…のだが、参加者たちは三三五五に話したり帰り支度をしたりしていて、なんとなく「ただ散らかっているだけ」にしか見えない。意味があるのかないのか…は参加者が考えるにしても、あまりにも目立たない。


 宗教儀式のような芝居を観客が列席する形で見るという芝居はあった気がするが、そこまで直接的にする必要はないにせよ、「思わせぶり」な要素を入れているのならあと一押しがほしい。中途半端な印象だけを持ち帰ることになってしまった。残念である。


 もう一つ付け加えると、本作に5000円のチケット代は高すぎる。

2025.04.20

カテゴリー:

『おかえりなさせませんなさい』コトリ会議

2025年3月15日(土)17:00 @なみきスクエア大練習室

●『おかえりなさせませんなさい』

コトリ会議


作:山本正典

演出:コトリ会議

出演:大石丈太郎、川端真奈、三ケ日晩、花屋敷鴨、原竹志、山本正典、吉田凪詐

舞台監督:三津田なつみ

音響:佐藤武紀

照明:石田光羽

舞台美術:竹腰かなこ

制作:小沢佑太(CLOUD9)、菅本千尋(演劇集団ロッカクナット)、若旦那家康(コトリ会議)

小道具:伊達江李華(小骨座)

衣裳:村上萌

宣伝美術:小泉俊(KODEMA小泉デザイン製作所)

イラスト:花屋敷鴨

特設サイト:三村るな

舞台写真:河西沙織(劇団壱劇屋)

舞台映像:坊内文彦(TRANSIT FIELD)




 これは「家族」についての物語でもあり、「人間」とは何かも問われ、「(species)」について考えさせる作品である。観る人によって「何が描かれているのか」の印象が異なる作品かもしれない。そして誰かと話したくなる芝居である。


 今から100年後、第8次世界大戦が尾を引いた「第8次半世界大戦」が地球の各地で勃発している。そんな中の喫茶店トノモトに集う、ある一家の話である。実は長女の夫ヒトトワに国防軍から召集令状が届いたのだ。戦争に行かずにすむ唯一の方法は、ヒューマンつばめになること。ヒューマンつばめとは人間とつばめの合体生物であり、「空を飛べる/永遠に生きる」代わりに「人間の思い出は3割程度しか残らない/子を成せない」。長女ヒヨは、夫と共にヒューマンつばめになる道を選ぶと言う。あるいは、家族間のみ徴兵の委任が可能(ヒューマンつばめ化の自由はある)。父は長女を助けるために、娘婿のヒトトワの徴兵替わりを引き受けヒューマンつばめになる道を選ぶ。そこに末っ子のツグミがヒューマンつばめになって現れる…。


 まずは内容の(投げかけるテーマの)深さに反して、視覚に入るものが軽やかであることに言及しておきたい。挿入されるつばめの人形劇や、客席後方から一本のリボンを伝って舞台の「木の上の巣」に到着するつばめ(人形)などは、とても可愛い。またヒューマンつばめの衣装は着ぐるみに近く、一昔前のお笑いのようないでたちである。ヒューマンつばめの耳は着脱可能(しかも紐で繋がっていて、紐はくるくると収納可能、耳は壁にくっつけることもできる)とか、口ばしのせいでコーヒーが飲めない話とか、ちょっとした笑いは芝居全体を軽くすることに一役買っている。ビジュアルのみならず、「空襲警報がさだまさしの『神田川』」「プレステ12」といったクスリと笑えて緊張させない工夫が随所にある。これらのおかげでテーマのシリアスさを観客本人が加減することができる(「受け止め方の程度は観客次第」とでも言おうか)。本作の上手な点である。


 さて内容に戻ると、先に書いたように「家族」「人間」「種」が大きくテーマとして考えられそうだ。私が個人的に興味深く感じたのは後者の二つである。それにはヒューマンつばめという存在が大きい。人間と異種(つばめ)の合体というSFあるある設定だが、2つの大きな仕掛けがあるのだ。1つ目は人間だった時の記憶が3割程度しか残らないこと、2つ目は永遠に生きるが、繁殖できないことである。この仕掛けが小憎らしいほど効いている。


 徴兵を拒むということは、やがて死ぬその時までは人間らしく生きていきたいということだ。そこでの「生きる」とは、家族と何気ない日常を送ったり、友人を楽しい時を過ごしたり、大切な人を愛しんだり、負の感情も含みつつ、それらを積み重ねていくことである。戦争によって人間らしさを剥奪されるのを拒むのに、ヒューマンつばめには人間らしさが3割しか残らない…。逆に3割残る人間時の記憶とは何なのか。何が残れば、ヒューマンつばめにも人間らしさがあると、かつてはやっぱり人間だったねと、そう言ってもらえるのだろうか。そんな切ないことを考えてしまう。


 いや、周りが人間とみなしてくれるかという問題ではない。老化・病気・事故で記憶を失った人と違ってヒューマンつばめになるというのは自らの選択であり、もっと言えば望まないのに迫られた究極の選択である。つまり、「自分が」人である条件に何を求めるか、どこまでなら変化を許せるのか、「自分」を失うことに耐えられるのかが問われる。


 実は本作ではヒューマンつばめの自己言及(その悩み)は一切描かれておらず、それは観客が勝手に考えるべき範疇にある。そしてトリッキーなことに舞台上のヒューマンつばめたちが「コスプレした人間」なので「人間の延長線上」に見える。さらに「ヒューマンつばめの出来損ない」の白石があまりに人間的で、「落ちこぼれでも人間らしくいられる可能性もあるのだ」という印象を与える(白石を演じる原竹志がその印象に拍車をかけている)。つまりヒューマンつばめ化はこわくないものという軽い描き方をしていて、これまた人間とは何なのかを考えるかどうかは観客次第というわけだ。


 「(しゅ)」の問題に至ってはおそらく気にせずに見る観客も多いだろう。だがヒューマンつばめは「永遠に生きるが子を成せない」という設定にした事も、最後にヒューマンつばめ化したヒトトワたちが南極に行くという選択を示唆したのも(ビル・ゲイツが南極にありとあらゆる「(たね)」を冷凍保存しているという噂がある)、ヒューマンつばめがサバと合体しカマキリと合体しインフルエンザウィルスと合体し…最後に石になるというエピソードも、すべては作家の山本正典が「(しゅ)」について考えているからではないか。人間とは何かという問いとも絡むが、生物の本能で「残す=次に繋ぐ」ものは一体何なのか。「(しゅ)」という観点から考えたら、地球上で争っている者たちが実は一つの「(しゅ)」であるというのは呆れた矛盾である。そのアンチテーゼとしての、合体生物。この発想に、静かにブスリと突き刺された。


 「私」が分からなくなる世界、「種」が混然一体となる世界、そのなかで「おかえりなさい」と迎えてくれる者はいるんだろうか。タイトルの意味を、考える。

2025.04.13

カテゴリー:

カテゴリー
月別アーカイブ
最近の記事
プロフィール
柴山麻妃

●月に一度、舞台芸術に関係するアレコレを書いていきまーす●

大学院時代から(ブラジル滞在の1年の休刊をはさみ)10年間、演劇批評雑誌New Theatre Reviewを刊行。
2005年~朝日新聞に劇評を執筆
2019年~毎日新聞に「舞台芸術と社会の関わり」についての論考を執筆

舞台、映画、読書をこよなく愛しております。
演劇の楽しさを広げたいと、観劇後にお茶しながら感想を話す「シアターカフェ」も不定期で開催中。
劇ナビ運営について

「劇ナビFUKUOKA」は、株式会社シアターネットプロジェクトが運用管理しています。
株式会社シアターネットプロジェクト
https://theaternet.co.jp
〒810-0021福岡市中央区今泉2-4-58-204

お問い合せはこちら