2025年3月15日(土)17:00 @なみきスクエア大練習室
●『おかえりなさせませんなさい』
コトリ会議
作:山本正典
演出:コトリ会議
出演:大石丈太郎、川端真奈、三ケ日晩、花屋敷鴨、原竹志、山本正典、吉田凪詐
舞台監督:三津田なつみ
音響:佐藤武紀
照明:石田光羽
舞台美術:竹腰かなこ
制作:小沢佑太(CLOUD9)、菅本千尋(演劇集団ロッカクナット)、若旦那家康(コトリ会議)
小道具:伊達江李華(小骨座)
衣裳:村上萌
宣伝美術:小泉俊(KODEMA小泉デザイン製作所)
イラスト:花屋敷鴨
特設サイト:三村るな
舞台写真:河西沙織(劇団壱劇屋)
舞台映像:坊内文彦(TRANSIT FIELD)
これは「家族」についての物語でもあり、「人間」とは何かも問われ、「種」について考えさせる作品である。観る人によって「何が描かれているのか」の印象が異なる作品かもしれない。そして誰かと話したくなる芝居である。
今から100年後、第8次世界大戦が尾を引いた「第8次半世界大戦」が地球の各地で勃発している。そんな中の喫茶店トノモトに集う、ある一家の話である。実は長女の夫ヒトトワに国防軍から召集令状が届いたのだ。戦争に行かずにすむ唯一の方法は、ヒューマンつばめになること。ヒューマンつばめとは人間とつばめの合体生物であり、「空を飛べる/永遠に生きる」代わりに「人間の思い出は3割程度しか残らない/子を成せない」。長女ヒヨは、夫と共にヒューマンつばめになる道を選ぶと言う。あるいは、家族間のみ徴兵の委任が可能(ヒューマンつばめ化の自由はある)。父は長女を助けるために、娘婿のヒトトワの徴兵替わりを引き受けヒューマンつばめになる道を選ぶ。そこに末っ子のツグミがヒューマンつばめになって現れる…。
まずは内容の(投げかけるテーマの)深さに反して、視覚に入るものが軽やかであることに言及しておきたい。挿入されるつばめの人形劇や、客席後方から一本のリボンを伝って舞台の「木の上の巣」に到着するつばめ(人形)などは、とても可愛い。またヒューマンつばめの衣装は着ぐるみに近く、一昔前のお笑いのようないでたちである。ヒューマンつばめの耳は着脱可能(しかも紐で繋がっていて、紐はくるくると収納可能、耳は壁にくっつけることもできる)とか、口ばしのせいでコーヒーが飲めない話とか、ちょっとした笑いは芝居全体を軽くすることに一役買っている。ビジュアルのみならず、「空襲警報がさだまさしの『神田川』」「プレステ12」といったクスリと笑えて緊張させない工夫が随所にある。これらのおかげでテーマのシリアスさを観客本人が加減することができる(「受け止め方の程度は観客次第」とでも言おうか)。本作の上手な点である。
さて内容に戻ると、先に書いたように「家族」「人間」「種」が大きくテーマとして考えられそうだ。私が個人的に興味深く感じたのは後者の二つである。それにはヒューマンつばめという存在が大きい。人間と異種(つばめ)の合体というSFあるある設定だが、2つの大きな仕掛けがあるのだ。1つ目は人間だった時の記憶が3割程度しか残らないこと、2つ目は永遠に生きるが、繁殖できないことである。この仕掛けが小憎らしいほど効いている。
徴兵を拒むということは、やがて死ぬその時までは人間らしく生きていきたいということだ。そこでの「生きる」とは、家族と何気ない日常を送ったり、友人を楽しい時を過ごしたり、大切な人を愛しんだり、負の感情も含みつつ、それらを積み重ねていくことである。戦争によって人間らしさを剥奪されるのを拒むのに、ヒューマンつばめには人間らしさが3割しか残らない…。逆に3割残る人間時の記憶とは何なのか。何が残れば、ヒューマンつばめにも人間らしさがあると、かつてはやっぱり人間だったねと、そう言ってもらえるのだろうか。そんな切ないことを考えてしまう。
いや、周りが人間とみなしてくれるかという問題ではない。老化・病気・事故で記憶を失った人と違ってヒューマンつばめになるというのは自らの選択であり、もっと言えば望まないのに迫られた究極の選択である。つまり、「自分が」人である条件に何を求めるか、どこまでなら変化を許せるのか、「自分」を失うことに耐えられるのかが問われる。
実は本作ではヒューマンつばめの自己言及(その悩み)は一切描かれておらず、それは観客が勝手に考えるべき範疇にある。そしてトリッキーなことに舞台上のヒューマンつばめたちが「コスプレした人間」なので「人間の延長線上」に見える。さらに「ヒューマンつばめの出来損ない」の白石があまりに人間的で、「落ちこぼれでも人間らしくいられる可能性もあるのだ」という印象を与える(白石を演じる原竹志がその印象に拍車をかけている)。つまりヒューマンつばめ化はこわくないものという軽い描き方をしていて、これまた人間とは何なのかを考えるかどうかは観客次第というわけだ。
「種」の問題に至ってはおそらく気にせずに見る観客も多いだろう。だがヒューマンつばめは「永遠に生きるが子を成せない」という設定にした事も、最後にヒューマンつばめ化したヒトトワたちが南極に行くという選択を示唆したのも(ビル・ゲイツが南極にありとあらゆる「種」を冷凍保存しているという噂がある)、ヒューマンつばめがサバと合体しカマキリと合体しインフルエンザウィルスと合体し…最後に石になるというエピソードも、すべては作家の山本正典が「種」について考えているからではないか。人間とは何かという問いとも絡むが、生物の本能で「残す=次に繋ぐ」ものは一体何なのか。「種」という観点から考えたら、地球上で争っている者たちが実は一つの「種」であるというのは呆れた矛盾である。そのアンチテーゼとしての、合体生物。この発想に、静かにブスリと突き刺された。
「私」が分からなくなる世界、「種」が混然一体となる世界、そのなかで「おかえりなさい」と迎えてくれる者はいるんだろうか。タイトルの意味を、考える。
2025.04.13
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