2024年10月5日(土)19:00~ @Theater 010
『MIRAGE』(transitory)
振付:ダミアン・ジャレ
舞台美術:名和晃平
音楽:トーマ・バンガルテル
衣裳:ANREALAGE
照明:吉本有輝子
舞台監督:夏目雅也
ダンサー:エミリオス・アラボグル、湯浅永麻、ウィンソン・フレイリー、三東瑠璃、牧野李砂、リ・カフア(Lico)、福士宙夢、加賀谷一肇
ダンスのスペクタクルについて考える。
身体の芸術であるダンスは、身体そのものが芸術であり身体そのものがスペクタクルである。芯のある身体が、驚異的な身体能力で生み出す、目にも鮮やかな動と静。ストイックに身体だけで見せるからこそ、逆説的だがそこに静かで鮮烈なスペクタクルがある。
もちろん、大掛かりな舞台セットを使ったものもあれば、演劇的なもの、コメディと見紛うようなもの、音と音楽を巧みに使ったもの…などダンスの幅は広く、一括りにできはしないことは承知している。だがここでは一旦そういったものは横に置き、身体と、身体を強調するための何か―ー例えば、水、光、スモーク――だけのダンスが持つ、スペクタクルについて考えている。
ダミアン・ジャレ×名和晃平の新作『MIRAGE』を見たからだ。
わずか8名のダンサーが、客席の背後からゆっくりと入ってくる。薄衣をまとったヌーディーな彼らは、一定のリズムで舞台上を歩く。AIロボットのような(つまりはぎこちない昔のロボットではなく、スムーズで柔らかい動き、だが決して人ではないような)均質な動きで、「歩く」。進んで、ストップして、後ろに下がって、進んで、ストップして、後ろに下がって…薄茶色にもやがかった狭い舞台で、互いに接触もせずにその動きをくり返していく。人形、雑踏、軌跡、未来、手探り。私の中にいくつもの言葉が生まれては消えていく。
張り出した半円型の中央ステージに、彼らが互いに複雑に絡んで円になり、長い手を開き閉じ、絡ませた足を開き閉じるシーン。花のような、万華鏡のような、生き物のような。「一糸乱れぬ群衆の動き」には見る者に快感と、時に圧力を与えるが、ここには圧力はない。しなやかな変化は万華鏡のような華やかさがあるが、その一方で、複雑な身体の絡まり合いは美しくもグロテスクで、その四肢と躰が外から内側に閉じる様は食虫花にも見えた。惹かれて吸い込まれてがんじがらめになっていくわたし…。
床一面にスモークがたかれた中でダンサーが踊るシーンでは、彼らの身体は半分ほど白い煙で見えない。上半身だけが白い煙から見え隠れする。それは一見して雲上のようでもあるけれど、私はガス室を想起した。彼らの身体が半分以上見えないからだろうか、あるいはスモークの独特の匂いに(私はそれが好きではない)ダンサーが苦しい思いをしているのではないかと考えてしまったからかもしれない。
天井から降る一縷のキラキラした光を、ダンサーが身体にまとっていく様子も言葉を失う。それは金粉? 暗闇の中で天から身体に振る金の筋は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を彷彿とさせた。同じような山海塾の砂にはそんな事を思いもしなかったのに。暗闇の中でうごめく身体と天からの筋、の連想だろうか。そしてその金はダンサーに貼りつき、身体の形が少しずつ露になっていく。生々しさを人工的な膜で覆うと、その生々しさは不気味になる。軽やかに見えた肉体は途端にうごめく物体に見える。
うすぼんやりとした舞台奥で縦に連なる身体が登場する。縦に連なっている? そして機械的に揃って開いて閉じて…? 何をどうしているのかまったく分からない。普通でない何かがここで行われているとしか言いようがなく、目を凝らしてみるけれど、想像をはるかに超えた「それ」が動いているとしか言えない。バロック建築のような…異国の仏像のような…。見えるのに見えない、見せているのに見せない、そんな狭間にいることにゾワゾワする。
舞台作品において「スペクタクル」と言ったとき、ある種の外連味を揶揄するニュアンスがある。あるいはエンターテインメントとしての「見世物」と割り切る見方もあるだろう。だが身一つのダンスにおいてのスペクタクルは、それらと一線を画す。瞬間的な身体の動線が、なぜか観客には可視化され残像として刻まれる。ありえないはずの動きがあまりにも自然で、その形の美しさを凝視してしまう。
本作はそれ以上に、見る者の「眼」を意識して創りあげている。「どう見られるか」を考慮するのは舞台において当たり前のことだが、本作は特に、観客の視線が彼らの「かたち」を創りあげている気がするのだ。スモークで隠す身体と浮かび上がらせる部分。金粉のおかげで露になる肉体の形。生々しくも絡み合う複数が一つの生き物に見える、細部と全体。超絶した身体技法で創りあげている動きを「見えるが見えない」ように見せる手法。単純に「見る/見られる」ではなく、また「見せる/見る」でもなく――観客は徹底的に「視線」を支配されてしまっているような――圧倒的なスペクタクル。
そこにあざとさや抵抗を感じないのは、それがとんでもないレベルのダンスであり、濃密な空間だから。そこにいることを観客が、喜びに震えているからである。
気がつくと、静寂の中で、地面から上へと放たれていく光を身体で感じている一人の女性ダンサーが目の前にいた。…その光はDNAの二重らせんが未来へと繋がっているように見えるし、彼女が生命の光と戯れる生き物にも見える。そのとき、最前列に座っている私の頬にピッと何かが飛んで来て、その光は水なのだとわかった。ああ、私はこの世界に自分の眼を預けてしまっている――変な表現だけれど――そんな気がした。
そのダンサーの背後に黒人ダンサーが表れ、静かに歌いはじめた。彼のウィスパーボイスは、彼女の耳元で始まり、やがて天に向かってゆっくりと消えて行った。
2024.10.31
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2024年9月12日(木)13:30~ @キャナルシティ劇場
『ジーザス・クライスト=スーパースター エルサレムバージョン』
作詞:ティム・ライス
作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー
企画・製作:四季株式会社
初演日本版演出:浅利慶太
出演:加藤迪(ジーザス)、佐久間仁(ユダ)、守山ちひろ、高井治、吉賀陶馬ワイス、大森瑞樹、佐野正幸、大空卓鵬、玉木隆寛、山田充人、真田司、劉昌明、櫻木数馬、下平尚輝、礒江拓也、香取直矢、森健心、永瀬俊秀、鈴木智之、松尾篤、安斎恵太、愛染洸一、橋岡未浪、寺内淳、坂井菜穂、黒田菓穂、小野実咲季、高倉恵美、辻茜、大石眞由、片倉あかり、濱嶋紗穂里、山田志保、志田奈津帆、北中芹佳、立花梨奈
訳詞:岩谷時子
美術:金森馨
照明:沢田祐一
振付:山田卓
レジデント・ディレクター:荒木美保
ステージング担当:磯津ひろみ
美術監修:土屋茂昭
指揮:渋谷森久
稽古進行管理:北澤裕輔、吉賀陶馬ワイス、松尾篤、大森瑞樹、小島光葉、山田充人
約30年ぶり(?)の『ジーザス・クライスト=スーパースター』である。「♪ジーザスクライスッ ♪ジーザスクライスッ だーれだあなたは だーれだ♪」の部分だけが頭にこびりついているが、実は内容は全く覚えていなかった。この世界的なロングラン作品については初演当時から数多の劇評があるだろうから改めて書くのも尻込みするが、ほぼ初めて(何しろ30年ぶり)に観劇し、これは書きたいと強く思った。俗に言われる「ロックミュージカル」の側面より興味深い点があったからである。
あらすじはこうだ。キャッチコピー「キリストの最後の七日間」が表す通り、人々に崇められた奇跡の人ジーザスがユダに裏切られ十字架にかけられるまでの最後の七日間を描いている。パレスチナの地に生まれた大工の息子・ジーザスは、圧政に苦しむ人々に対して奇跡を起こし、新しい教えを説いていた。「救い主」「神の子」と称えられるようになったジーザスは、自らも「神の子」だと言うようになる。だが弟子の一人であるユダはその様子を危惧する。「神の子」と名乗ることはローマ帝国への反逆になるのではないかと。庶民にとって高価な香油を惜しみなく使いながら貧民を「救う」というのは間違っているのではないかと。マグダラの娼婦マリアを贔屓するのは神の子にあるまじきことではないかと。しかしジーザスは聞く耳をもたない。ユダは、いつか化けの皮がはがれるだろう彼を見るくらいなら、いっそのこと私の手で「神の子ジーザス」を葬ろうと、彼を裏切るのだった。総督ピラトは彼を罰する事に躊躇するが、彼を熱狂的に求めた民衆こそが同時に彼を痛めつけよと叫ぶ。ジーザスは許しを請うこともせず、神の子として磔にされるのだった…。
まず興味深かった1点目は、群衆の怖さ、気持ちの悪さである。愚者の身勝手かつ際限のない欲望は、個人よりも集団になった時の方が発揮される。ジーザスを崇める行為は、彼が望むものを与えてくれないと分かった途端に、豹変する。彼を罵り、十字架にかけろと迫るのだ。(特殊なことではない、今だってひとたび気に食わないことがあれば遠慮なく有名人を公開リンチしているではないか。こと、インターネットが普及して各人が匿名で言葉を発信できるようになってからは、圧倒的な数で対象者に襲い掛かるようになっている。)
群衆が盲目的にジーザスを祀り上げる姿も狂気の沙汰、手のひらを返したようにジーザスを罵る様子も異常。個人が「群衆」となった途端に生まれる「一枚岩的な高揚」の不気味さを、蠢く演技とジーザスを取り囲むフォーメーションで見事に表現していて虫唾が走った。本作はジーザスとユダの物語かもしれないが、その異常性や暴力性を際立たせた点で群衆の物語と見ることもできるだろう。
次に、ジーザス像についてあれこれと考える機会になった。というのも、偶然に少し前に読んだ本で「初期キリスト教時代では復活するキリストは死をも克服する英雄として描かれていたが、1300年以降に徐々に痛々しい受難のキリストへとイメージが変わっていく」ことを知ったからである。確かに本作の「ジーザス青年がキリストになっていく」プロセスは、覚悟を持って愚かな人間たちの罪を引き受けた英雄の姿には見えない。39回の鞭打ちシーン――数えながら鞭を鳴らし、着衣は破れ背中が赤く染まっていく、そして打たれる度に身体がのけぞり徐々に頭が下がり力を亡くしていくジーザス――や、磔のシーン――力のない無抵抗な身体が十字架に載せられ、広げられた腕に打つ釘の音が響き、手首から赤い血が流れる――などのリアルな描き方は、奇跡の存在ではなく、無辜の受難としか見えない。
ただ本作が面白いのは、「聖人の受難話」ではなく「未熟な人間が聖人になってしまう話」にした点だ。奇跡を起こしてしまったことで「神の子」にさせられ、本人もその気になり、でも怖くなって否定もするけれど、結局死へと追いやられキリストに「なった」…ようにしか見えないのだ。実際に裁判のシーンにおいて、死罪を宣告するピラトがジーザスの事を「無知な傀儡」といったニュアンスのセリフを吐く(正確なセリフは不明)。ジーザスをあまりにも人間的に描きすぎて、信者でない私も躊躇してしまう程だ(そりゃ宗教関係者からは猛反発を受けるだろうよ)。
そこでキーマンとなるのがユダ。この点が三つ目の興味深かった点である。彼だけが「神の子」ではない「人間のジーザス」を知り、愛し、彼の未来を案じる。ジーザスと比してユダは男性的な印象で、最後にいたってはモビルスーツ?のようなロックスターの衣裳になって歌う。裏切り者のユダが、(運命に)翻弄される痛々しいジーザスとは違う、力強い存在として描かれている。本作におけるユダとはどういう存在なのだろう。
よくよく考えてみると、人間味あふれるジーザスのこの姿は「観客の目=客観的な姿」のような気がしていたが、徹頭徹尾ユダからの目線である。ジーザスの行為を「あなたを救い主と信じた群衆」「群衆たちを惑わすような」と歌い、彼を「哀れな人」だと歌う。そうして「誰かが追い詰めるくらいなら私がやる」と裏切りに走るわけだが、描かれているのは結局ユダの心持なのである。ユダ目線の「人間ジーザス」像を観客は見せられていたということなのか。…そこまで考えると、これは壮大なユダのジーザスへの愛の物語だったのではないかとすら思えてくる。ユダを力強い存在として描いていると感じたのも当然のこと、彼が主体であり、彼が描いたジーザスの話なのだから。ユダから見た真実、これも「神話」の解釈の一つ(聖書と言わずあえて「神話」と表現するが)だということだろう。終盤の圧倒的なリアリズム演出(鞭打ち、磔、血、そして舞台中央にぶっ垂れられる大きな大きな十字架…)に飲み込まれながら、私たちは壮大なフィクションを見せられたと言えるのかもしれない。
ロングラン作品は、少しずつ演出が変わるし出演者によって雰囲気が変わることもある。観客が鑑賞した年齢や経験によっても印象や解釈は変わるだろう。30年前に私はなにを感じたのかなと考えながら、新たな興味を与えてくれる本作の奥深さに、それこそがロングランたる所以なのだろうと感じた。
2024.10.14
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