劇ナビFUKUOKA(福岡)

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『ジーザス・クライスト=スーパースター』(エルサレムバージョン)劇団四季

2024年9月12日(木)13:30~ @キャナルシティ劇場

『ジーザス・クライスト=スーパースター エルサレムバージョン』

作詞:ティム・ライス

作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー

企画・製作:四季株式会社

初演日本版演出:浅利慶太

出演:加藤迪(ジーザス)、佐久間仁(ユダ)、守山ちひろ、高井治、吉賀陶馬ワイス、大森瑞樹、佐野正幸、大空卓鵬、玉木隆寛、山田充人、真田司、劉昌明、櫻木数馬、下平尚輝、礒江拓也、香取直矢、森健心、永瀬俊秀、鈴木智之、松尾篤、安斎恵太、愛染洸一、橋岡未浪、寺内淳、坂井菜穂、黒田菓穂、小野実咲季、高倉恵美、辻茜、大石眞由、片倉あかり、濱嶋紗穂里、山田志保、志田奈津帆、北中芹佳、立花梨奈

訳詞:岩谷時子

美術:金森馨

照明:沢田祐一

振付:山田卓

レジデント・ディレクター:荒木美保

ステージング担当:磯津ひろみ

美術監修:土屋茂昭

指揮:渋谷森久

稽古進行管理:北澤裕輔、吉賀陶馬ワイス、松尾篤、大森瑞樹、小島光葉、山田充人










 約30年ぶり(?)の『ジーザス・クライスト=スーパースター』である。「♪ジーザスクライスッ ♪ジーザスクライスッ だーれだあなたは だーれだ♪」の部分だけが頭にこびりついているが、実は内容は全く覚えていなかった。この世界的なロングラン作品については初演当時から数多の劇評があるだろうから改めて書くのも尻込みするが、ほぼ初めて(何しろ30年ぶり)に観劇し、これは書きたいと強く思った。俗に言われる「ロックミュージカル」の側面より興味深い点があったからである。


 あらすじはこうだ。キャッチコピー「キリストの最後の七日間」が表す通り、人々に崇められた奇跡の人ジーザスがユダに裏切られ十字架にかけられるまでの最後の七日間を描いている。パレスチナの地に生まれた大工の息子・ジーザスは、圧政に苦しむ人々に対して奇跡を起こし、新しい教えを説いていた。「救い主」「神の子」と称えられるようになったジーザスは、自らも「神の子」だと言うようになる。だが弟子の一人であるユダはその様子を危惧する。「神の子」と名乗ることはローマ帝国への反逆になるのではないかと。庶民にとって高価な香油を惜しみなく使いながら貧民を「救う」というのは間違っているのではないかと。マグダラの娼婦マリアを贔屓するのは神の子にあるまじきことではないかと。しかしジーザスは聞く耳をもたない。ユダは、いつか化けの皮がはがれるだろう彼を見るくらいなら、いっそのこと私の手で「神の子ジーザス」を葬ろうと、彼を裏切るのだった。総督ピラトは彼を罰する事に躊躇するが、彼を熱狂的に求めた民衆こそが同時に彼を痛めつけよと叫ぶ。ジーザスは許しを請うこともせず、神の子として磔にされるのだった…。


 まず興味深かった1点目は、群衆の怖さ、気持ちの悪さである。愚者の身勝手かつ際限のない欲望は、個人よりも集団になった時の方が発揮される。ジーザスを崇める行為は、彼が望むものを与えてくれないと分かった途端に、豹変する。彼を罵り、十字架にかけろと迫るのだ。(特殊なことではない、今だってひとたび気に食わないことがあれば遠慮なく有名人を公開リンチしているではないか。こと、インターネットが普及して各人が匿名で言葉を発信できるようになってからは、圧倒的な数で対象者に襲い掛かるようになっている。)

 群衆が盲目的にジーザスを祀り上げる姿も狂気の沙汰、手のひらを返したようにジーザスを罵る様子も異常。個人が「群衆」となった途端に生まれる「一枚岩的な高揚」の不気味さを、蠢く(うごめく)演技とジーザスを取り囲むフォーメーションで見事に表現していて虫唾が走った。本作はジーザスとユダの物語かもしれないが、その異常性や暴力性を際立たせた点で群衆の物語と見ることもできるだろう。


 次に、ジーザス像についてあれこれと考える機会になった。というのも、偶然に少し前に読んだ本で「初期キリスト教時代では復活するキリストは死をも克服する英雄として描かれていたが、1300年以降に徐々に痛々しい受難のキリストへとイメージが変わっていく」ことを知ったからである。確かに本作の「ジーザス青年がキリストになっていく」プロセスは、覚悟を持って愚かな人間たちの罪を引き受けた英雄の姿には見えない。39回の鞭打ちシーン――数えながら鞭を鳴らし、着衣は破れ背中が赤く染まっていく、そして打たれる度に身体がのけぞり徐々に頭が下がり力を亡くしていくジーザス――や、磔のシーン――力のない無抵抗な身体が十字架に載せられ、広げられた腕に打つ釘の音が響き、手首から赤い血が流れる――などのリアルな描き方は、奇跡の存在ではなく、無辜(むこ)の受難としか見えない。


 ただ本作が面白いのは、「聖人の受難話」ではなく「未熟な人間が聖人になってしまう話」にした点だ。奇跡を起こしてしまったことで「神の子」にさせられ、本人もその気になり、でも怖くなって否定もするけれど、結局死へと追いやられキリストに「なった」…ようにしか見えないのだ。実際に裁判のシーンにおいて、死罪を宣告するピラトがジーザスの事を「無知な傀儡」といったニュアンスのセリフを吐く(正確なセリフは不明)。ジーザスをあまりにも人間的に描きすぎて、信者でない私も躊躇してしまう程だ(そりゃ宗教関係者からは猛反発を受けるだろうよ)。


 そこでキーマンとなるのがユダ。この点が三つ目の興味深かった点である。彼だけが「神の子」ではない「人間のジーザス」を知り、愛し、彼の未来を案じる。ジーザスと比してユダは男性的な印象で、最後にいたってはモビルスーツ?のようなロックスターの衣裳になって歌う。裏切り者のユダが、(運命に)翻弄される痛々しいジーザスとは違う、力強い存在として描かれている。本作におけるユダとはどういう存在なのだろう。


 よくよく考えてみると、人間味あふれるジーザスのこの姿は「観客の目=客観的な姿」のような気がしていたが、徹頭徹尾ユダからの目線である。ジーザスの行為を「あなたを救い主と信じた群衆」「群衆たちを惑わすような」と歌い、彼を「哀れな人」だと歌う。そうして「誰かが追い詰めるくらいなら私がやる」と裏切りに走るわけだが、描かれているのは結局ユダの心持なのである。ユダ目線の「人間ジーザス」像を観客は見せられていたということなのか。…そこまで考えると、これは壮大なユダのジーザスへの愛の物語だったのではないかとすら思えてくる。ユダを力強い存在として描いていると感じたのも当然のこと、彼が主体であり、彼が描いたジーザスの話なのだから。ユダから見た真実、これも「神話」の解釈の一つ(聖書と言わずあえて「神話」と表現するが)だということだろう。終盤の圧倒的なリアリズム演出(鞭打ち、磔、血、そして舞台中央にぶっ垂れられる大きな大きな十字架…)に飲み込まれながら、私たちは壮大なフィクションを見せられたと言えるのかもしれない。


 ロングラン作品は、少しずつ演出が変わるし出演者によって雰囲気が変わることもある。観客が鑑賞した年齢や経験によっても印象や解釈は変わるだろう。30年前に私はなにを感じたのかなと考えながら、新たな興味を与えてくれる本作の奥深さに、それこそがロングランたる所以なのだろうと感じた。

2024.10.14

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プロフィール
柴山麻妃

●月に一度、舞台芸術に関係するアレコレを書いていきまーす●

大学院時代から(ブラジル滞在の1年の休刊をはさみ)10年間、演劇批評雑誌New Theatre Reviewを刊行。
2005年~朝日新聞に劇評を執筆
2019年~毎日新聞に「舞台芸術と社会の関わり」についての論考を執筆

舞台、映画、読書をこよなく愛しております。
演劇の楽しさを広げたいと、観劇後にお茶しながら感想を話す「シアターカフェ」も不定期で開催中。
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