2025年1月12日(日)17:00~ / 1月13日(月)12:00~ @博多座
●『天保十二年のシェイクスピア』
作:井上ひさし
音楽:宮川彬良
演出:藤田俊太郎
出演:木場勝巳、浦井健治、唯月ふうか、中村梅雀、梅沢昌代、瀬奈じゅん、大貫勇輔、綾風華、章平、阿部裕、土井ケイト、玉置孝匡、猪野広樹、福田えり、山野靖博、森加織、武者真由、新川將人、妹尾正文、出口雅敏、白木美貴子、水野貴以、水島渓、古川隼大、藤咲みどり、中嶋紗希、鈴木潦平、下あすみ、斎藤准一郎
振付:新海絵理子
日本舞踊:花柳寿楽
アクションコーディネーター:諸鍛冶裕太
美術:松井るみ
照明:勝柴次朗
音響;山本浩一
衣装:有村淳
ヘアメイク:野澤幸雄
映像:横山翼
歌唱指導:林アキラ
照明助手:日下靖順
衣装助手:川崎千絵
衣装制作(松竹衣裳):飯塚直子
稽古ピアノ:宮川大典
音楽コーディネート:森岡孝夫
舞台監督:中村貴彦
演出助手:郷田拓実、鄭光誠
制作助手:中尾遥
アシスタントプロデューサー:橋本薫
アソシエイトプロデューサー:渡邊隆
プロデューサー:今村眞治
宣伝写真:森崎恵美子
特殊メイク:土肥良成
タトゥーペイント:H&Ms Tatoo
宣伝美術:菅沼結美
井上ひさしらしい芝居である。良く言えばサービス精神が旺盛、悪く言えば饒舌で情報過多。これまで多くの井上ひさし作品を観てきて「ここまで長くする必要はあるか?」としばしば思っていたが、本作にいたっては「シェイクスピア全37作を盛り込む」と明言しているのだから、芝居が長いのも観客が情報の渦に巻き込まれようとも「当然」とばかりの開き直り。しかしこれはそれでいいのである。なぜなら、井上が楽しんで書いていて、観客が楽しんで観る、ただそれだけの作品だからである。
だから、井上ひさしらしくない芝居でもある。井上戯曲と言えば社会的なテーマを扱っているという印象が強い。本作にはそれがない。パンフレットで大貫勇輔(出演者)が「貧困層がより貧困層の者から搾取しようとする時代であることが、江戸末期、本戯曲が書かれた1974年、そして現在に共通する」「それでもその時代を生きる者はその事に気づかず<ただ今を懸命に生きている>、それがこの戯曲を2024年にやる理由であると、演出の藤田俊太郎が説明した」と述べているが、私はそうは思わない。天保年間はともかくとして、1970年代の問題、現代の問題は、少々違う気がしているからだ。そんなたいそうな物を掲げて作ったのではなく、井上は本作で、とことん言葉遊びをし、軽くて下品で人間臭い話(注:けなしているわけではない)を楽しんで書いたという気がしている。――観劇後少し経って、扇田明彦が「この作品以降に、井上戯曲には社会的なひろがりのある主題が多く登場するようになった」と書いているのを読んでやはりそうかと納得した。本作に無理やり社会的テーマを見出す必要はないのだ。(そして私の井上戯曲の「社会派」という印象は、主として中期以降の作品からできていたのだろうと知った)
それにしても「一見豪華な和洋折衷のお節料理」っぷりがすごい。井上が用意した「天保水滸伝」と「シェイクスピア」を織りなした戯曲だからというだけでない。音楽もボサノヴァやらブルースやら演歌やらジャンルが多岐に亘り、盛りだくさん。一作品でこれだけ多ジャンルの楽曲が出てくる作品はおそらく映画でも舞台でもないはずで、きっと作曲家の宮川彬良が戯曲のノリに合わせたのだろう。冒頭から「もしもシェイクスピアがいなかったら~」で始まる歌にバーンスタインの『ウエストサイド物語』の曲の一部をわざと入れ込んできたのを聞いた瞬間に(そりゃそういう歌詞なのだけれど)、宮川も楽しんだのだろうと頬が緩んだ。もちろん踊りも振付が和洋折衷である。
何でもかんでも面白い物は入れてしまえと言わんばかりに、「時を止めて」しまうし、歌舞伎でなじみの「人形ぶり」や「早替わり」もあるし、次から次へと見せ場が続く。その上、歌詞まで言葉遊びと文字数の多さ(=内容を追いたくなる)ために、息つく暇がないというのはこの舞台のことだろう。したがって、両脇に字幕を付ける親切は、さらに観客の頭をアップアップさせるために不要だったのではないかと思う。言葉遊びは耳が戯れればいいし、意味内容の遊びはビビッと瞬時に楽しんですぐに忘れる程度でいい。(同じく、『ハムレット』の”To be or not to be, that is the question.”の邦訳をいちいち訳者ごとに10近く紹介するのも、やりすぎだろう、井上ひさしらしいけれど)
そうでなくとも、目にも刺激が多い。女郎たちとの肉体的な絡み(かなりどぎつい)、ド派手な立ち回りとバッタバッタと死んで行く登場人物たち。おまけに歌と踊りが覆いかぶさる。客席へのいじりもあれば終盤には客席通路で出演者が踊ってくれる大サービスまで。
つまり「絢爛豪華 祝祭音楽劇」と銘打たれている通り、これは「賑やかし」なのである。打ち上げ花火のような、派手で華やかで一瞬にして闇夜に消える芝居。残像と共に残されるのは、醜い欲望や憎悪やコンプレックスや差別意識ってところか。
最後は大きな鏡が客席を映し、間に立つ登場人物(みんな死んだのだが)は観客を眺める。「今見たものは舞台の上の話ではないですよ、現実の話なのですよ」と言われているような。舞台は現実で、現実は舞台…「この世は舞台、人はみな役者」(『お気に召すまま』)。シェイクスピアの言葉がストンと胸に落ちた気がした。
2025.01.28
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