2024年10月5日(土)19:00~ @Theater 010
『MIRAGE』(transitory)
振付:ダミアン・ジャレ
舞台美術:名和晃平
音楽:トーマ・バンガルテル
衣裳:ANREALAGE
照明:吉本有輝子
舞台監督:夏目雅也
ダンサー:エミリオス・アラボグル、湯浅永麻、ウィンソン・フレイリー、三東瑠璃、牧野李砂、リ・カフア(Lico)、福士宙夢、加賀谷一肇
ダンスのスペクタクルについて考える。
身体の芸術であるダンスは、身体そのものが芸術であり身体そのものがスペクタクルである。芯のある身体が、驚異的な身体能力で生み出す、目にも鮮やかな動と静。ストイックに身体だけで見せるからこそ、逆説的だがそこに静かで鮮烈なスペクタクルがある。
もちろん、大掛かりな舞台セットを使ったものもあれば、演劇的なもの、コメディと見紛うようなもの、音と音楽を巧みに使ったもの…などダンスの幅は広く、一括りにできはしないことは承知している。だがここでは一旦そういったものは横に置き、身体と、身体を強調するための何か―ー例えば、水、光、スモーク――だけのダンスが持つ、スペクタクルについて考えている。
ダミアン・ジャレ×名和晃平の新作『MIRAGE』を見たからだ。
わずか8名のダンサーが、客席の背後からゆっくりと入ってくる。薄衣をまとったヌーディーな彼らは、一定のリズムで舞台上を歩く。AIロボットのような(つまりはぎこちない昔のロボットではなく、スムーズで柔らかい動き、だが決して人ではないような)均質な動きで、「歩く」。進んで、ストップして、後ろに下がって、進んで、ストップして、後ろに下がって…薄茶色にもやがかった狭い舞台で、互いに接触もせずにその動きをくり返していく。人形、雑踏、軌跡、未来、手探り。私の中にいくつもの言葉が生まれては消えていく。
張り出した半円型の中央ステージに、彼らが互いに複雑に絡んで円になり、長い手を開き閉じ、絡ませた足を開き閉じるシーン。花のような、万華鏡のような、生き物のような。「一糸乱れぬ群衆の動き」には見る者に快感と、時に圧力を与えるが、ここには圧力はない。しなやかな変化は万華鏡のような華やかさがあるが、その一方で、複雑な身体の絡まり合いは美しくもグロテスクで、その四肢と躰が外から内側に閉じる様は食虫花にも見えた。惹かれて吸い込まれてがんじがらめになっていくわたし…。
床一面にスモークがたかれた中でダンサーが踊るシーンでは、彼らの身体は半分ほど白い煙で見えない。上半身だけが白い煙から見え隠れする。それは一見して雲上のようでもあるけれど、私はガス室を想起した。彼らの身体が半分以上見えないからだろうか、あるいはスモークの独特の匂いに(私はそれが好きではない)ダンサーが苦しい思いをしているのではないかと考えてしまったからかもしれない。
天井から降る一縷のキラキラした光を、ダンサーが身体にまとっていく様子も言葉を失う。それは金粉? 暗闇の中で天から身体に振る金の筋は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を彷彿とさせた。同じような山海塾の砂にはそんな事を思いもしなかったのに。暗闇の中でうごめく身体と天からの筋、の連想だろうか。そしてその金はダンサーに貼りつき、身体の形が少しずつ露になっていく。生々しさを人工的な膜で覆うと、その生々しさは不気味になる。軽やかに見えた肉体は途端にうごめく物体に見える。
うすぼんやりとした舞台奥で縦に連なる身体が登場する。縦に連なっている? そして機械的に揃って開いて閉じて…? 何をどうしているのかまったく分からない。普通でない何かがここで行われているとしか言いようがなく、目を凝らしてみるけれど、想像をはるかに超えた「それ」が動いているとしか言えない。バロック建築のような…異国の仏像のような…。見えるのに見えない、見せているのに見せない、そんな狭間にいることにゾワゾワする。
舞台作品において「スペクタクル」と言ったとき、ある種の外連味を揶揄するニュアンスがある。あるいはエンターテインメントとしての「見世物」と割り切る見方もあるだろう。だが身一つのダンスにおいてのスペクタクルは、それらと一線を画す。瞬間的な身体の動線が、なぜか観客には可視化され残像として刻まれる。ありえないはずの動きがあまりにも自然で、その形の美しさを凝視してしまう。
本作はそれ以上に、見る者の「眼」を意識して創りあげている。「どう見られるか」を考慮するのは舞台において当たり前のことだが、本作は特に、観客の視線が彼らの「かたち」を創りあげている気がするのだ。スモークで隠す身体と浮かび上がらせる部分。金粉のおかげで露になる肉体の形。生々しくも絡み合う複数が一つの生き物に見える、細部と全体。超絶した身体技法で創りあげている動きを「見えるが見えない」ように見せる手法。単純に「見る/見られる」ではなく、また「見せる/見る」でもなく――観客は徹底的に「視線」を支配されてしまっているような――圧倒的なスペクタクル。
そこにあざとさや抵抗を感じないのは、それがとんでもないレベルのダンスであり、濃密な空間だから。そこにいることを観客が、喜びに震えているからである。
気がつくと、静寂の中で、地面から上へと放たれていく光を身体で感じている一人の女性ダンサーが目の前にいた。…その光はDNAの二重らせんが未来へと繋がっているように見えるし、彼女が生命の光と戯れる生き物にも見える。そのとき、最前列に座っている私の頬にピッと何かが飛んで来て、その光は水なのだとわかった。ああ、私はこの世界に自分の眼を預けてしまっている――変な表現だけれど――そんな気がした。
そのダンサーの背後に黒人ダンサーが表れ、静かに歌いはじめた。彼のウィスパーボイスは、彼女の耳元で始まり、やがて天に向かってゆっくりと消えて行った。
2024.10.31
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2024年9月12日(木)13:30~ @キャナルシティ劇場
『ジーザス・クライスト=スーパースター エルサレムバージョン』
作詞:ティム・ライス
作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー
企画・製作:四季株式会社
初演日本版演出:浅利慶太
出演:加藤迪(ジーザス)、佐久間仁(ユダ)、守山ちひろ、高井治、吉賀陶馬ワイス、大森瑞樹、佐野正幸、大空卓鵬、玉木隆寛、山田充人、真田司、劉昌明、櫻木数馬、下平尚輝、礒江拓也、香取直矢、森健心、永瀬俊秀、鈴木智之、松尾篤、安斎恵太、愛染洸一、橋岡未浪、寺内淳、坂井菜穂、黒田菓穂、小野実咲季、高倉恵美、辻茜、大石眞由、片倉あかり、濱嶋紗穂里、山田志保、志田奈津帆、北中芹佳、立花梨奈
訳詞:岩谷時子
美術:金森馨
照明:沢田祐一
振付:山田卓
レジデント・ディレクター:荒木美保
ステージング担当:磯津ひろみ
美術監修:土屋茂昭
指揮:渋谷森久
稽古進行管理:北澤裕輔、吉賀陶馬ワイス、松尾篤、大森瑞樹、小島光葉、山田充人
約30年ぶり(?)の『ジーザス・クライスト=スーパースター』である。「♪ジーザスクライスッ ♪ジーザスクライスッ だーれだあなたは だーれだ♪」の部分だけが頭にこびりついているが、実は内容は全く覚えていなかった。この世界的なロングラン作品については初演当時から数多の劇評があるだろうから改めて書くのも尻込みするが、ほぼ初めて(何しろ30年ぶり)に観劇し、これは書きたいと強く思った。俗に言われる「ロックミュージカル」の側面より興味深い点があったからである。
あらすじはこうだ。キャッチコピー「キリストの最後の七日間」が表す通り、人々に崇められた奇跡の人ジーザスがユダに裏切られ十字架にかけられるまでの最後の七日間を描いている。パレスチナの地に生まれた大工の息子・ジーザスは、圧政に苦しむ人々に対して奇跡を起こし、新しい教えを説いていた。「救い主」「神の子」と称えられるようになったジーザスは、自らも「神の子」だと言うようになる。だが弟子の一人であるユダはその様子を危惧する。「神の子」と名乗ることはローマ帝国への反逆になるのではないかと。庶民にとって高価な香油を惜しみなく使いながら貧民を「救う」というのは間違っているのではないかと。マグダラの娼婦マリアを贔屓するのは神の子にあるまじきことではないかと。しかしジーザスは聞く耳をもたない。ユダは、いつか化けの皮がはがれるだろう彼を見るくらいなら、いっそのこと私の手で「神の子ジーザス」を葬ろうと、彼を裏切るのだった。総督ピラトは彼を罰する事に躊躇するが、彼を熱狂的に求めた民衆こそが同時に彼を痛めつけよと叫ぶ。ジーザスは許しを請うこともせず、神の子として磔にされるのだった…。
まず興味深かった1点目は、群衆の怖さ、気持ちの悪さである。愚者の身勝手かつ際限のない欲望は、個人よりも集団になった時の方が発揮される。ジーザスを崇める行為は、彼が望むものを与えてくれないと分かった途端に、豹変する。彼を罵り、十字架にかけろと迫るのだ。(特殊なことではない、今だってひとたび気に食わないことがあれば遠慮なく有名人を公開リンチしているではないか。こと、インターネットが普及して各人が匿名で言葉を発信できるようになってからは、圧倒的な数で対象者に襲い掛かるようになっている。)
群衆が盲目的にジーザスを祀り上げる姿も狂気の沙汰、手のひらを返したようにジーザスを罵る様子も異常。個人が「群衆」となった途端に生まれる「一枚岩的な高揚」の不気味さを、蠢く演技とジーザスを取り囲むフォーメーションで見事に表現していて虫唾が走った。本作はジーザスとユダの物語かもしれないが、その異常性や暴力性を際立たせた点で群衆の物語と見ることもできるだろう。
次に、ジーザス像についてあれこれと考える機会になった。というのも、偶然に少し前に読んだ本で「初期キリスト教時代では復活するキリストは死をも克服する英雄として描かれていたが、1300年以降に徐々に痛々しい受難のキリストへとイメージが変わっていく」ことを知ったからである。確かに本作の「ジーザス青年がキリストになっていく」プロセスは、覚悟を持って愚かな人間たちの罪を引き受けた英雄の姿には見えない。39回の鞭打ちシーン――数えながら鞭を鳴らし、着衣は破れ背中が赤く染まっていく、そして打たれる度に身体がのけぞり徐々に頭が下がり力を亡くしていくジーザス――や、磔のシーン――力のない無抵抗な身体が十字架に載せられ、広げられた腕に打つ釘の音が響き、手首から赤い血が流れる――などのリアルな描き方は、奇跡の存在ではなく、無辜の受難としか見えない。
ただ本作が面白いのは、「聖人の受難話」ではなく「未熟な人間が聖人になってしまう話」にした点だ。奇跡を起こしてしまったことで「神の子」にさせられ、本人もその気になり、でも怖くなって否定もするけれど、結局死へと追いやられキリストに「なった」…ようにしか見えないのだ。実際に裁判のシーンにおいて、死罪を宣告するピラトがジーザスの事を「無知な傀儡」といったニュアンスのセリフを吐く(正確なセリフは不明)。ジーザスをあまりにも人間的に描きすぎて、信者でない私も躊躇してしまう程だ(そりゃ宗教関係者からは猛反発を受けるだろうよ)。
そこでキーマンとなるのがユダ。この点が三つ目の興味深かった点である。彼だけが「神の子」ではない「人間のジーザス」を知り、愛し、彼の未来を案じる。ジーザスと比してユダは男性的な印象で、最後にいたってはモビルスーツ?のようなロックスターの衣裳になって歌う。裏切り者のユダが、(運命に)翻弄される痛々しいジーザスとは違う、力強い存在として描かれている。本作におけるユダとはどういう存在なのだろう。
よくよく考えてみると、人間味あふれるジーザスのこの姿は「観客の目=客観的な姿」のような気がしていたが、徹頭徹尾ユダからの目線である。ジーザスの行為を「あなたを救い主と信じた群衆」「群衆たちを惑わすような」と歌い、彼を「哀れな人」だと歌う。そうして「誰かが追い詰めるくらいなら私がやる」と裏切りに走るわけだが、描かれているのは結局ユダの心持なのである。ユダ目線の「人間ジーザス」像を観客は見せられていたということなのか。…そこまで考えると、これは壮大なユダのジーザスへの愛の物語だったのではないかとすら思えてくる。ユダを力強い存在として描いていると感じたのも当然のこと、彼が主体であり、彼が描いたジーザスの話なのだから。ユダから見た真実、これも「神話」の解釈の一つ(聖書と言わずあえて「神話」と表現するが)だということだろう。終盤の圧倒的なリアリズム演出(鞭打ち、磔、血、そして舞台中央にぶっ垂れられる大きな大きな十字架…)に飲み込まれながら、私たちは壮大なフィクションを見せられたと言えるのかもしれない。
ロングラン作品は、少しずつ演出が変わるし出演者によって雰囲気が変わることもある。観客が鑑賞した年齢や経験によっても印象や解釈は変わるだろう。30年前に私はなにを感じたのかなと考えながら、新たな興味を与えてくれる本作の奥深さに、それこそがロングランたる所以なのだろうと感じた。
2024.10.14
カテゴリー:
2024年7月13日(土)14:00~ @愛知県芸術劇場
NDT1 Japan Tour 2024
出演:Alexander Andison, Fay van Baar, Anna Bekirova, Jon Bond, Thalia Crymble, Matthew Foley, Scott Fowler, Surimu Fukushi, Barry Gans, Conner Bormann, Pamela Campos, Emmitt Cawley, Aram Hasler, Nicole Ishimaru, Chuck Jones, Madoka Kariya, Genevieve O’Keeffe, Paxton Ricketts, Kele Roberson, Charlie Skuy, Yukino Takaura, Luca-Andrea Lino Tessarini, Theophilus Vesely, Nicole Ward, Sophie Whittome, Rui-Ting Yu, Zenon Zubyk
NDT(ネザーランド・ダンス・シアター)が5年ぶりに来日するという。世界中の選りすぐりのダンサーが集まっているこのカンパニーの作品が見られるとあって、ダンスに疎い私も一度は拝んでおきたいと名古屋まで出かけた。そして…結論から言えば、行ってよかった。徹底したクラシックバレエのテクニックを身に付けたダンサーによる、振り幅の大きな異なる3本の前衛的なダンス。拙い言葉だが、「ダンスって面白い…!」と思った。ダンスって、ダンスって…なんて豊かなんだろう!
『La Ruta』(by Gabriela Carrizo)
まるで一本の映画を見ているかのような作品である。こんな作品もアリなのかと驚く。
真夜中のバス停。日本語の話し声が聞こえ、やがて消えていき…暗闇、白々とした灯り、車のライト。悪夢を見せられているのだろうか? 車に轢かれて倒れ死にゆく女、その身体を引きずっていく男、狂っていく身体、ぐにゃりとありえない動きをする屍人、サムライ、馬をかぶった男…、狂った世界に閉じ込められているような感覚を覚える。
La Rutaとは道のこと。深夜の人気のない道路の怖さを思いだす。同時にそんな場所で人が現れた時の、異なる怖さも思いだす。そして見ている自分の身体が、恐怖なのか驚きなのか、時々ビクリと反応することに気づく。不気味な空気が私にも纏わりついているような気にもなる。同時にこの空気にワクワクとしている自分もいるから、感覚ってやっかいだ。
「これもアリなのか」と驚いた理由は、きっと、テクニックを「見せつけない」ダンスだったからだろう。けれどどのシーンを切り取ってもおそらく絵になるのは(そう、怖いのだがとても美しいと思ったのだ)、それこそダンサーたちの動きにムダが無いからかもしれない。
『Solo Echo』(by Crystal Pite)
美しくて息をのんだ。ブラームスの音楽の中で少しずつ変容する彫刻のようなダンス。これは人生を表わしているのかと思ったのは、ラストの降りしきる雪を見て。黒い背景に横一列に切り取られた窓があり、そこから雪なのか桜なのか白いものが舞っているのが見える。人生の終わりだと思ったのは「散る」というイメージのせいだろうか。
『One Flat Thing, reproduced』(by William Forsyth)
一転してカラフルな衣裳に身を包んだダンサーたちが長テーブルをズイイイと押して並べて始まる。舞台上には規則的に並んだ20台のテーブル。いや、踊りにくいよね⁉ 狭いよね⁉ 動きが制御されるよね⁉ とギョッとする中でダンサーたちが二人ずつ、あるいは三人ずつのアンサンブルで(その組み合わせも変えながら)、テーブルの上や間を使って踊っていく。私が面白かったのは、いわゆるコンテンポラリーダンスでよくある「全体的な」調和とズレが一切なかったこと。それらはすべて「個別的」に組み合わさっていて、全体で見ると不規則で複雑。あちらこちらでいくつもの「調和とズレ」が生み出されているように見える。互いのキューの出し方(顔や目を合わせたり、カウントだったり)も異なっているし、観客が無意識に用意している予定調和を軽く飛び越えていく。これは…観ているよりかなり高度なことなんじゃなかろうか。しかも障害物(テーブル)のせいで動きを細かく計算しなければならないし、さらにこの環境ではかなり鍛えていないと踊れない。
それなのに、受ける印象はどこまでも軽やか。衣装がカラフルなことも手伝って、楽しそうなんだよなぁ。「あした衣装の色が変わったら(例えば今日は黄色のTシャツ、明日は赤とか)やることも変わるのかな、雰囲気ちがうよね」なんて考えるほどに明るくて楽しげ。ストイックに美しく見せてくれるダンスも惹かれるけれど、表情からしてキラキラ輝いているこんな感じのダンスもいいなぁ。全体の一部ではなく「自分たちが」踊っている、という気持ちなのかな。・・・そんなことも考えたりして。
それにしても、振付家がちがうとはいえ全く異なるタイプの3本のダンスで、幅の広さに感服。これは「高度な技術」「前衛的な作品づくり」というNDTの特徴でもあるだろうが、私にはダンスの豊かさの表れのような気がする。そうしてダンスの深淵に触れて圧倒された私はやっぱりつぶやいてしまうのだ。「ダンスって、面白い…!」と。
2024.08.03
カテゴリー:
2024年6月15日(土)13:00~ @久留米シティプラザ 久留米座
『ライカムで待っとく』
作:兼島拓也
演出:田中麻衣子
出演:中山祐一朗、前田一世、佐久本宝、蔵下穂波、小川ゲン、神田青、魏涼子、あめくみちこ
美術:原田愛
照明:齋藤茂男
音楽:国広和毅
音響:徳久礼子
衣裳:宮本宣子
ヘアメイク:谷口ユリエ
演出助手:戸塚萌
舞台監督:藤田有紀彦
宣伝イラスト:岡田みそ
宣伝美術:吉岡秀典
企画制作:KAAT神奈川芸術劇場
(久留米公演)
広報:陶山里佳、竹下久美子
票券:伊藤未紀
制作:宮崎麻子、穴井豊太郎
2024年6月16日、沖縄県議会議員選挙が行われ、玉城知事を支持する県政与党は過半数を下回るという結果が出た。経済の活性化など沖縄が抱える課題は多いため、この結果が示す意味を一つに絞ることは私にはできない。だがこのことが玉城知事の「普天間から辺野古への基地移転反対」という主張に与える影響は小さくないかもしれないと思う――『ライカムで待っとく』を見た翌日のこのニュースに、これは芝居ではなく現実であり現在の話なのだと改めて思う。
*****
東京で雑誌ライターをしている浅野は、妻の祖父の葬儀のため沖縄にむかう。その直前に自分と瓜二つの顔をした60年前の男の写真を見せられ、その男が米兵殺傷事件についての手記の筆者であることを教えられる。沖縄に渡った浅野は、偶然にもその殺傷事件の容疑者が妻の祖父・佐久本であることを知る。浅野はこの事件の取材を進めていくうちに、現在とも過去ともつかない混然一体となった「沖縄」の中に入り込む…。
おそらく観客の誰もが「沖縄は日本のバックヤードだ」というセリフ(実際に舞台をよく見れば、大きなビニールカーテンに囲まれている。私たちはバックヤードを見ているのだ)や、「寄り添ってあげますよ」というセリフに引っ掛かり、衝撃を受ける。特に沖縄在住でない観客は自らの「加害者性」――「知らない」ことも罪である――に気づかされる(あるいはリマインドさせられる)。さらに、沖縄に米軍基地があること(しかも日本にある基地の中で最も面積が大きく、地元民の居住区と最も距離が近い)を受け入れている・押し付けていることによって今の生活があることに気づき、当事者意識の欠如を恥じる者もいるだろう。本作は、浅野が巻き込まれ気が付いていくのと同時に、観客も巻き込まれ気が付いていく。メッセージの多様性も含め、非常にすぐれた作品だと思う。
さて本稿では少し違った視点で論じてみたい。それは「フィクション/ノンフィクション」という構造についてだ。本作の面白くて優れている点の一つが、「フィクションである」という芝居の特性に自覚的であるということだ。それが大きな意味を持たせることになっている。
まず本作は史実や現在進行形の状況についてベタに描いていない。浅野は60年前の世界と現代を行き来して翻弄される。タクシーに乗れば運転手に「(知らない過去や未来まで)全てお見通し」かのように語られ、60年前の米兵殺傷事件の当事者たちと対峙し、挙句の果てには行方不明になった娘を必死に探すも「いなくなることは必然である」とされ、選べない選択を突き付けられる。まるで浅野が沖縄を他人ごとではなく「自分事」として捉えていくための通過儀礼であるかのように。このSF的な展開が時間的・空間的に「よそ者」である浅野を当事者として巻き込み、それによって浅野(=よそ者)としての観客を巻き込むことに成功しているわけだが、これは芝居としてよくある手法ではある。
興味深いのはその先だ。沖縄は諦めて事件や差別を受け入れている、諦めて「よりマシ」程度の未来を選ぶしかないとの声を聞いた浅野が、舞台上で動き続ける「回り舞台」を止めようとする。つまり、物語の登場人物が、現実の芝居の機構を止める動きをするのだ! 物語から抜け出し浅野が止めようとしたリアル、それは現在まで続く負の歴史であり、沖縄の諦めである。そして登場人物が物語から抜け出すという行為は、完結した「物語」を破綻させることを意味する。沖縄は長く「物語化」されてきた。戦争、基地、事件、何のことであれ語られてきた、けれども「物語化」とは他人事の表れだ。そして「物語化」は分かりやすさを優先し、零れ落ちるものも多い。「自分たちは物語の中に閉じ込められている」というセリフが示すように。「語られる存在」がその物語を抜け出すこのシーンは、却って他者を物語化する暴力に気づかせる。
ああ、そういうことかとラストにも納得する。たたずむ殺傷事件当事者たち3人と浅野を一瞬の閃光が包み暗転、終幕となる。おそらくその光はカメラのフラッシュだろう。冒頭で浅野が見せられた写真ではその3人と浅野のそっくりさんが写っていたが、ラストでは過去と現在が混然となった彼らを観客の目がカメラとなって撮った形で終わる。2024年の現在の観客の私たちに、過去であれ現在であれ「自分たちの目で見ろ」と示唆しているのだ。
そういえば、本作にはたくさんの「物語る媒体」が登場する。米兵殺傷事件の真相を描いたとされる手記。死者と会話することができる金城さん。事件後の裁判。知らないうちに書き進められている浅野の記事。資料が入った段ボール箱ですら開くと語りだす。そこには様々な言葉があって意思があって声がある。その気になれば周りには多くの「物語る媒体」があるのだと気が付くはずだ。誰かのたった一つの物語を妄信したり、また何かの記事だけで分かった気になったりするのではなく、自分のその目で確かめて自分のその耳で声を聞けといっているのだ。同時に、自分が作ってしまう「物語」の暴力性にも自覚的であれと。
沖縄の未来にあるのは絶望か希望か。そんな雑な「物語」ではなく、複雑で様々な声を聞いて読んで考える努力をしよう。それが私の当事者性だと考えた。
2024.07.02
カテゴリー:
2024年4月13日(土)18:00~ @枝光本町商店街アイアンシアター
●『Plant』 劇団言魂
作・演出:山口大器
出演:池高瑞穂、片山桃子、森唯美、横佐古力彰、山口大器
照明:菅本千尋(演劇空間ロッカクナット)
音響:吉田めぐみ
演出助手:瓦田樹雪
稽古補佐:木下海聖(有門正太郎プレゼンツ)
制作:劇団言魂
宣伝美術:山口大器
物言わずただそこに生きている植物と、他を支配し君臨したい人間。この対比と、両者の思いもかけぬ結びつきが面白い。劇団言魂『Plant』は、突拍子もない発想で魅了しながらいろんなことを考えさせる、興味深い作品である。
近未来なのか、パラレルワールドなのか、今の日本とはほんの少しだけ違うどこかが舞台。人々の右手にはマイクロチップが埋め込まれており、それは個人情報管理はもとより他者との関係を築く上で重要な役目をはたしている、そんな時代である。
円(森唯美)が1か月ぶりに実家から恋人・直と同居している部屋に戻って来ると、部屋はもぬけの殻で代わりに大きな植物が残されていた。劇団主宰で探偵業のバイトもやっている友人・優人(山口大器)やその後輩で植物を研究している君丸(横佐古力彰)の協力も仰ぐが、直は見つからない。そんな折に、直のことを知っているらしい女の子(片山桃子)に会い、直がどうやら植物になったのではないかと気がつく…。
面白かったのは、マイクロチップによって「合意」をとるというエピソードである。――自宅に他人(友人であっても)が来る場合に、互いの右手のひらを合わせることで(=マイクロチップをかざすことで)、「招きました/強引に押し入っていません」との「合意」をとる。芝居の稽古において演出家がダメ出しをする際には「問題発言をしていません/傷ついていません」との「合意」をとる――。現実でも2023年末に「性的合意アプリ」なるものが開発されたというニュースを見たのだが、まさに現在と地続きにありえそうなこのフィクションが実に示唆的で面白い。ハラスメントはあってはならないことだが、その一方で加害者になるのを恐れるあまり「問題がないと思っているかどうか」をいちいち確認させてほしいという心理…バランスの取り方が難しい現代をよく表している。すべてにおいて「合意」をとれば解決ではないか!と、短絡的にチップの「合意」に頼りたくなる気分はわかる。いや、この「合意」すら強制的に合意させられましたと言われることもあろう、そのためにチップ所持者の血流や心拍数から心理状態を検知して…? 本作ではそこまでの話はなかったが(心理状態の検知は別のエピソードだった)皮肉な現実味がある。
物語の肝となるのは「人間の植物化」。植物になってしまった直はモラハラ気質だった(そのために円がプロポーズを受け入れられず実家に帰っていた)ことが分かるのだが、優人もまた劇団で過去に強権的だったことが明らかになる。今ではすっかり反省したかに見える優人だが、少しずつ木になりかけている。後輩・君丸への態度からも優人のパワハラ気質は治っているわけではなく…どうやら、支配的で、高圧的な態度をとる人間が植物になっていくらしいとわかる。そのことに納得してしまうのは、ハラスメント加害者に対して「お前は(植物のように)黙れ!」と言いたくなるからだろうか。因果関係なんて一つも説明されていないのに妙な説得力がある。
ユニークなのは優人の植物化していく様子。芽が出て、葉が生え、枝が出て、木になり、足から根が出て張るようになり…変化していくビジュアルはインパクト大。優人役の山口大器の焦る様子が面白さに輪をかけている。物言わず中央に鎮座している大きな木(=直)との対比もあり、最終的にこうなるのだろうと悲劇的な結末も思わせるのに、植物化する優人のビジュアルにやはり笑ってしまう。本人にとっては悲劇だが周りにとっては喜劇、の典型かもしれない。―――と笑って見てはいたが、そして優人が最後の最後までセクハラまがいのことを必死に叫び続けることもあって見ている時は気がつかなかったが、これはいじめの構造にも似ている。他者からの奇異な目に晒されるということ、被害者が言葉を失ってしまうこと、そんな目に遭わされた者たちの復讐が「植物化」ということなのか。
本作は徹頭徹尾、被害者と加害者は分断され、分かり合えないと言っているように聞こえる。例えば直も優人も反省し自分の態度を改善しようと試みていたらしいのにそれでも植物化してしまうという結論。人の根本は簡単には変わらないという絶望の表れだろうか。また、いずれは完全な植物になるのに、それでも火をつけて優人を殺してしまおうとする君丸の姿には、虐げられていた者は加害者を絶対に許さないという悲痛な決意が見える。
となると、「被害者/加害者」と厳密に分かれて、決して分かり合えず、人は変わることがないという、かなりきつめの人生観を持った芝居ともいえる。そんななか登場する桜(池高瑞穂)は怪しげな宗教めいたことを主張するしお近づきになりたくないタイプではあるが、「(マイクロチップに振り回されて、)みんな人を見ることをやめている」といった批判は一理あるし、この芝居を中和する役目を担っていると言えるのかもしれない。
シーンに合わせて天井に吊られてテーブルが降りて来たり、植物化していく様子の美術がよくできていたり、演劇ならではの仕掛けも楽しませてくれた。
2024.05.12
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