劇ナビFUKUOKA(福岡)

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『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』チェルフィッチュ

2025年8月3日(日)14:00~ @熊本県立劇場 演劇ホール舞台上

●『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』チェルフィッチュ

作・演出:岡田利規

出演:安藤真理、徐秋成、ティナ・ロズネル、ネス・ロケ、ロバート・ツェツシェ、米川幸リオン

舞台美術:佐々木文美

音響:中原楽(KARABINER inc.)

サウンドデザイナー:佐藤公俊

照明:吉本有理子(MAHIRU)

衣裳:藤谷香子

舞台監督:川上大二郎(スケラボ)

演出助手:山本ジャスティン伊等(Dr.Holiday Laboratory)

熊本公演照明オペレーター:花輪有紀(MAHIRU)

英語翻訳:オカワアヤ

宣伝美術:前澤秀登

プロデューサー:永野恵美(precog)、黄木多美子(precog)

プロジェクトマネージャー:遠藤七海

プロジェクトアシスタント:千田ひなた(precog)

製作:一般社団法人チェルフィッチュ

共同製作:KYOTO EXPERIMENT

企画制作:株式会社precog

主催:公益財団法人熊本県立劇場

後援:熊本日日新聞社


 言葉が持つ、うっすらとした暴力性――暴力的な言葉という意味ではない――というものが浮き彫りになる芝居である。岡田利規のこの試みが言語の(ひいては芝居の)可能性を開くことに繋がるものだったのかもしれないが、その手前で私は、我々が言語に縛られる窮屈な存在であること、それだけ言葉が我々を支配する力が大きいことを思い知らされた気がしたのだ。


 本作の舞台は宇宙船イン・ビトゥイーン号の中。4人の乗組員が、「わたしたちの言葉の衰退が著しいのでそれをなんとか食い止めたい。あわよくば盛り返したい。そこで地球外知的生命体に私たちのこの言葉を習得させるという壮大な計画」のために宇宙の旅をおこなっているという設定である。


 本作の最大の特徴は、ノンネイティブの役者が日本語でセリフを言う芝居だということだ。そしてAIロボットと地球外知的生命体を日本語ネイティブの役者が演じている。「チェルフィッチュ」の岡田利規が4年前から始めた「日本語を母語としない俳優たちと、日本語の芝居を作る」という試みである(2023年に初演)。

 言葉に対して意識的にさせる仕掛けがいくつもある。まずはその仕掛けを取り出してみたい。


 言うまでもなく大きな仕掛けは、日本語ノンネイティブの話者が日本語で会話をするということだ。そこに、ネイティブの役者がAIロボットと地球外知的生命体として加わっている。明らかな「他者(異物)」が、日本語話者の観客にとって「普通の」言葉を話すわけだ。そこに第三の言語として、コーヒーマシーンの声が入る(入退室の扉にも声があった記憶があるが、私の捏造かも)。この宇宙船でのマジョリティは隊員と呼ばれるノンネイティブで、外見も外国人らしい(注意が必要な一文だがやり過ごしてほしい)。他方でAIロボットはネイティブの日本語を話すが外国人のような見かけ、地球外知的生命体は被り物こそしているけれど見える容姿は金髪のイマドキの若い日本女性だ。そしてコーヒーマシーンの声には実体がない。「言葉(発話)」についてだけでなく、発話者の外見との関係に意味を持たせているのは明らかだ。


 ロボットや地球外知的生命体が使う言葉の硬さも興味深い。「とどのつまり/たまさかに/いわく言い難い/筆舌に尽くしがたい…」など口語ではなかなか登場しない(しかしとんでもなく文語体というわけではない)言葉を使うのが、他者の2人なのだ。


 隊員同士が話す(宇宙の)音楽とは何かという話題も象徴的だ。あれやこれやと言葉をこねくり回しているなかで、地球外知的生命体のサザレイシに対して音楽を「空気のヴァイブレーションを音なるものへと変換したもの」として説明するに至ると、それが「言葉(発話)」も同じであることを示唆していると気づく。そこに意味を載せる、意味を見出す、意味を伝える…のは音楽も言葉も同じである。


 こういったいくつもの仕掛けの中でとりとめもなく言葉について考えていき――私がたどりつくのは、冒頭に書いた「うっすらとした言葉が持つ暴力性」だった。例えばノンネイティブが日本語を話す時に、その拙さがその人自身の価値を損なわせていることはないか。「まだ」うまくしゃべれないと判定を下したり、言葉のせいでうまく伝わらないと切り捨てたり、ということもあるだろう。逆に外国語を話す時に多くの人がうまく伝わっているか怖れ、うまく話せないことに引け目を感じる。たかだか「空気のヴァイブレーションを音なるものへと変換した」に過ぎない言葉が、もちろん意味を伝える重要な役割があるからだが、私たちの中で大きな支配力を持っているのだと思う。(別のレベルの話になるが、「英語」という言語の更なる暴力性についても思う所がある。そしてその英語で本作に字幕が出ていた点について、気にかかっている)


 そこで、「うまく」話せない隊員たちと、「うまく」話せるロボットとの序列的な関係が意味を持ってくる。言葉が持つ「支配力」が、少なくともこの場(イン・ビトゥイーン号)に於いては通用していないわけだ。そしてこの構造の逆転の先に、「うまく話す」とはいったい何かという疑問に行きつく。例えば彼らのミッションが遂行されて、どこぞの知的生命体に彼らの言語を習得してもらうことができたとしよう。その時に習得されるべき言語は隊員たちの(日本語ネイティブにはたどたどしく聞こえる)あの話し方であってロボットの流暢なそれではないとされ、そこでの「うまい」は私たち日本語話者にとっては流暢に聞こえない言葉を指すことになるだろう。芝居において彼らの序列は変わらないかもしれないが、少なくとも本作を見ている観客にとっては、序列化された関係を言葉で揺さぶる効果がある。


 言葉そのものを暴力のカードとして使うことは歴史的にも繰り返されてきた(支配者が被支配者の言葉を奪い、自分たちの言葉を押し付ける施策)し、この宇宙船イン・ビトゥイーン号の目的は舞台を宇宙に変えただけで植民地時代と同じである。だが本作が中心的に扱うのはもう少しデリケートな、言葉そのものが持つ暴力性…のはずだったが、終盤に、客席と舞台に間に置かれた小さな宇宙船の窓を隊員たちが交互にのぞき込むシーンが出て、私たち観客がのぞき込まれているという気分になった。観客は、客席から窓の外の宇宙に存在することになったのだ。ということは、隊員たちが自分たちの言葉を教え込もうとしている相手は、ひょっとして私たち…? つまりは言葉に振り回される存在だと言われている気がした。

2025.09.01

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『恋はみずいろ』「老いと演劇」OiBokkeShi

2025年7月6日(日)14:00~ @久留米シティプラザ Cボックス

●『恋はみずいろ』 「老いと演劇」OibokkeShi

作・演出:菅原直樹

出演:中島清廉、竹上康成、植月尚子、金定和沙、吉田省吾、内田一也、粟井美津代、西春華、内田京子、杉本愛、種原大悟、申瑞季、岡田忠雄(特別出演)

舞台監督:中西隆雄、三津田なつみ

作曲・編曲・ピアノ演奏:矢野裕美

舞台美術:森純平

音響・照明:竹内晃(株式会社エスオーエムクリエイション)

音響オペレート:高木由紀(ステージプランニング)

照明オペレート:越尾由美(株式会社ライトビジョン)

サポートスタッフ:栗原立、福島美香、西昌子、芝山祐一郎、武田有史

宣伝美術:hi foo farm

宣伝イラスト:あさののい

制作:武田知也(bench)

広報:陶山里佳、竹下久美子

制作:宮崎麻子、韓ヨルム





 「変化」について考える。


 私たちは、生まれてからしばらくの間は、変化を「成長」と見なしてもらえる。でもいつの頃からかその変化は「老い」と呼ばれるようになる。そこには価値判断が含まれていて、「できなくなる」「遅くなる」「間違う」「劣化」といった言葉でわかるように、単なる変化ではなく下り坂のみじめな状況への変化とされる。もちろん私自身もその価値観にどっぷり浸かっている。「老いは誰にでもやってくる」という言葉と共にエイジズム(年齢差別)を批判していたけれど、裏を返せばその物言いは老いへの恐れであり、ちゃんと向き合わねばという姿勢の表れであり、つまりはやっぱりその価値観に自分が浸かっているのだと痛感する。


 けれど本作を見て、ふと、「そうか、老いも単なる変化なのだ」と思う。


 本作『恋はみずいろ』は、特別養護老人ホーム「青空」を舞台にした物語だ。そこの入居者、スタッフ、訪ねてくる人たちが織りなす人間模様を描いている。軸となるのは、母親に捨てられた青年・由一と、そのいなくなった母親・佐代子、由一が訪ねて来た「青空」入居者の祖父・正雄という一つの家族の物語。そこにかつては中学教師だったが大病をして動きも発話もままならない松村先生--終盤で松村先生の初恋の相手がその佐代子だと分かる――や、入居している母に会いに来た美鈴――久しぶりに来たくせに、身内ではない職員の古千谷が母親の通帳と印鑑を持っていると知って激昂する――、この町に居住を考えて訪ねて来た車いすの島沢さん――どうやら親との折り合いが悪いらしい――などが絡む。特に通帳を返せと言う美鈴と「娘さんには通帳を渡さないでくれと言われた」と言う職員古千谷との辛辣なやり取り、それが耳に入った由一が、他人(ひと)の家族について口出しするなと怒りをあらわにするシーンは、家族の在り方について考えさせる。「母親である前に一人の人間」だの「他人であっても、通帳や印鑑を預けるほどに自分と信頼関係を結んだのだ」と分かった(●●●●)よう(●●)()口をきく古千谷に対して、母親に複雑な思いを抱く由一が耐えられなかったのは当然のこと。きれいごとではすまされない、やっかいな存在である「家族」というものを、観客それぞれが自分事として考えたに違いない。


 だから最後のシーンは、ある意味、観客の受け取り方でずいぶんと違うように見えるかもしれない。由一の母の登場を、現実と見るか幻と見るかである。舞台中央にはベッドで寝ている老人・正雄。彼はきついことを言って娘が離れて行ったことを悔いて、「行かないでくれ」「俺の傍にいてくれ」と手を伸ばしうわごとをくり返す。そこに現れる、娘の佐代子。由一の母である。佐代子が父親の手を握り、静かに澄んだ声で「あなたにすべての花と光をあげたい」と歌う。そのあまりにも美しい声と歌詞に私も涙がこぼれたのだが…この佐代子を幻と捉えるのなら、つまりは実際には彼女は現れなかったのだとするのなら――そこから見える「家族観」はずいぶんと異なるものになる。大団円に終われないシリアスな現実もまた、家族なのだという解釈も可能だろう。


 その様子を思い返しながら、他方で私は「変わる」ことについて考える。頭ごなしに娘を否定していた父親が「俺の傍から離れないでほしい」という本音を吐けるようになった、その変化を、人は「老いて気が弱くなったから」と言いがちだ。それも間違いでないかもしれないが、人は絶えず変わっていくのに高齢者だけが老いのせいにされてしまう。人が変わるのにはいろんな理由があるのに。そしてどんな年齢だっていつだって、変わっていく(る)のに。松村先生が病気で肢体不自由になってしまったのも変化だし、中学時代の佐代子が松村君(後の松村先生)からの告白で一歩踏み出したのも変化だ。その一方で、人は思うようには変われないという現実もある。母に信用されていないと知った美鈴がショックを受け反省しても、今後思うように変われるかどうかはわからない。家庭を飛び出した佐代子も、望む形での変化を遂げられたわけではないだろう。


 私たちは、「変化」に対してあらゆる感情を載せてしまう。変わったことへの後悔、羨望、蔑み、諦め、悲嘆、喜び、(そし)り、怒り。変わることへの願望、恐れ、(やま)しさ、恥ずかしさ、羨ましさ。変われなかったことへの悲しさ、受容、安堵、嘲り。それらの感情をとめることはできないが、そして達観できるほど悟りを開けるわけでもないけれど、変わって当然なんだ、変われなくても当然なんだ…と気持ちが軽くなる気がした。


 同時に、舞台にいるOiBokkeShiの役者たちを見ていて、そのほとんどがワークショップから参加した演劇素人たちだったと聞いて、「変わる力」を眩しく思う。演劇の力であり、仲間の力であり、ヒトの力なのだろう。OiBokkeShiは、「変化」について肯定も否定も何もない、ただ受け止めるという集団なのかもしれない。物語の内容だけでなく、その存在の清々しさに、改めて涙がこぼれた。



公演が終わって

2025.07.24

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『受胎の森』ゴブノタマシイ

2025年5月18日(日)14:00~ @湾岸劇場博多扇貝

●「受胎の森」ゴブノタマシイ


脚本・演出:あおい みき

出演:松本征也(最新旧型機クロックアップ・サイリックス)、白川宏治、景乙(最新旧型機クロックアップ・サイリックス)、馬場佑介(Yb[イッテルビウム])、坂井籍暁、田村ちほ(Yb[イッテルビウム])、大谷豪

照明:出田浩志(stage lighting 大黒屋)

音響:青井美貴(最新旧型機クロックアップ・サイリックス)

装置:安部将吾(南無サンダー)

チラシ制作:わっきー

声の協力:山田彩加、峰尾かおり



 らい病患者の苦しみ、隔離された療養所の孤独と非人道性、らい予防法の問題について、真正面から描いた意欲作である。


 福岡において、具体的な差別問題をテーマに芝居を作る人々がいることに(しかも若い役者たちである)驚いた。なぜなら、(雑な表現だが言葉を選ばずに書けば)多くの人に「テーマとして受け入れられやすい」差別問題と、そうでないものとがあると感じているからだ。例えばジェンダーがテーマなら理解も賛同も得やすいだろう。現代ならセクシュアリティについても同様だ。人種問題も数多く舞台で扱われてきた。だが、らい病の社会的問題を若い劇団が芝居にするのは様相が異なる気がする。いろんな理由があるけれど、一つには現在において多くの人が共有する問題とされていないことがあるだろう(もちろん、裁判に決着がついたのは数年前だし、それも実名を伏せての原告だったことからわかるように、いまだに差別や偏見が根強く、この問題が終わっていないことは強調しておく)。病名程度しか知らないという若い人もいるかもしれない。言い換えると社会が封印してきた負の歴史の箱を、若い役者たちが開けたのが本公演ということになる。


 内容は、開演前に脚本・演出をしたあおいみきが説明したように北条民雄の『癩院受胎』を基にした創作である。人里離れた療養所内を舞台にしていること、そこに住む舟木家の兄妹、その妹・カヤコが同じ療養所内の久留米と恋仲になり子を孕むこと、兄の舟木は病気で肉体が朽ちていっても美しい精神は育つと主張し、他方で久留米は肉体に固執し病で蝕まれることを肉体の敗北だと言うこと、そして久留米は自殺をすること、それらをつぶさに見ながら自らもらい病患者である成瀬が小説を書き続ける…登場人物も大筋も確かに『癩院受胎』に倣っている。


 ただ本作『受胎の森』は、これを「遺された未完の小説」として、数十年後の現在、発見されたという構造を取る。小説の内容を演じる層と、閉鎖される療養所の図書館でそれを発見する現代の層という二つから成っているのだ。過去と現在を結びつけることは、本作においてとても大きな意味を持っている。それは作者の、現在も「まだ終わっていない」問題だという示唆であり、らい病に限らず「自分事の」差別の問題として捉えるべきだという主張だからである。(と私は受け取った)


 その一つが、「らい予防法」という言葉を出し明確に悪法として糾弾し、治療薬ができた後もその法律は生き続け40数年後にようやく廃止されたという事実をはっきりと批判するシーンを加えていること――そこにとどまらず「これが君たちの物語の終わりなのか」と問う点である。最後の入居者が亡くなればすべての問題は終わりになり、悲惨で残酷な事実も憎しみも悲しみも忘れ去られ、やがてなかったことにされていく…それが君たちの物語の終わりなのか? 過去を封印する行為は卑怯で愚かである(知らないことも同罪である)という強いメッセージだ。


 現代でその未完の小説を発見したケンイチが、らい病患者や著者の成瀬に自分を重ね、苦しくても生き続け(自分の物語を書き続け)ていかねばならないと決意する点も大きなポイントだろう。「忘れないこと」は、過去と今を断絶させないことである。そしてらい病が治る病になった現代だってそれに代わる何かが違う形で差別を生んでいるのかもしれない。繋げろ、自分事として考えろと言っているのだ。この点も評価したい。ただし、物語を引き継ぐというケンイチのバックグラウンドが、「期待されていたのにプレッシャーに負け受験に失敗し、暴力をふるい、社会不適合者として見捨てられてしまう」という設定はあまりにも弱い。病気と国によって理不尽に人生を奪われたらい病患者たちとケンイチの境遇を同列に扱うのは無理がある。この設定には不満が残った。


 個人的に興味深いと思ったのは、執筆をつづける成瀬に対して、成瀬の「思想」として阿久津という男を登場させている点だ。それも作家あおいみきがオリジナルだ。私の理解ではこの阿久津という男は実在しないのだが(あるいは『癩院受胎』の作者北条民雄の分身か)、芝居の後半で阿久津を演じる大谷豪が現代において療養所の図書館を管理していた者としてケンイチの前に現れることに胸が詰まる。小説の中で舟木と久留米が「肉体は朽ちかけても精神は育つ」「肉体が滅びることを前に精神の成熟は意味がない」といった心身を二つに分けて議論するのだが、まさに成瀬の肉体がらい病に侵されていく一方で、尊厳・知性・思想は侵されまいとする作家のゆずれない思いが阿久津の存在として現れているとみることができるからだ。そして阿久津のような人が、療養所の「知」としての図書館の管理人として登場する…同じ役者を使うことでうまく表現で来ていてなるほどと思う。


 惜しむらくは、多くの役者たちの芝居が大仰だったこと。肩に力が入りすぎているように感じられた。大谷の演技にはそれがなくホッとしたが、ラストで彼の写真を出したことで笑いが起きてしまい(彼のせいではない)、作品の空気が一変して残念だった。


 「もーいいかい」「まーだだよ」、劇中で何度も響くかくれんぼのやりとりにも意味を持たせ、ぶれない作品ができあがったと思う。

2025.05.26

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『人形の家をたずねて』加茂慶太郎×cobaco ohori house

2025年3月30日(日)13:00~@cobaco ohori house

●『人形の家をたずねて』

出演:高橋克昌(演劇創作館 椿楼)、藤嶋美月、加茂慶太郎

原作:イプセン『人形の家』

構成・演出:加茂慶太郎

制作:穴井豊太郎

主催:加茂慶太郎

共催:gallery cobaco






 大濠の一角にある小さなゲストハウスcobaco ohori house、小さな間口から靴を脱いで入ると小さくてこぎれいなリビングが待っていた。奥にはオープンキッチンと大きなテーブルがあり、パソコンが一台。画面は「古典戯曲研究会」と出ている。


 本作は高橋克昌(演劇創作館 椿楼)と加茂慶太郎が「古典戯曲研究会」を、今回だけ特別にオープンにしながら進めていく…という(てい)の作品だ。「ここは通常はゲストハウスであるけれど、事情によって貸してもらえることになった」という説明の後に、二人の研究会が始まる。取り上げる作品はイプセンの『人形の家』。ところがその最中に、ゲストハウスの泊り客らしい女性が現れて、料理を作って姿を消し、料理ができ上った頃に再び現れて同じテーブルで食べ始め、片付けた後には奥の浴室に行こうとする…。


 家を使って、家を出ていく女性についての戯曲を考える、という設定は良いと思う。イプセンがまさに描いているように、家は様々なものの象徴であるから。そして同時にここが「本当の家ではない(ゲストハウス)」ことも意味を持たせることは可能。フムフム…と思って見ていたのだが…。


 せっかくノラの話、女性の話、家の話(の戯曲)を扱っているのだから、もう少し現実の女性(藤嶋美月)の存在を活かせなかったのかというのが何よりも感想である。例えば、「偉そうに」男二人がノラ(に代表される当時の女性たちが置かれていた状況)について論じているにもかかわらず、何も分かっていないのだということを突き付ける皮肉な存在にする、とか。つまりイプセンの時代の話かと思えば現代の話になっていたという描き方にするわけだ。また例えば、時間軸をパラレルにしてこの女性だけノラの時代を生きる者として、ノラとしての言葉(家を出ていく前のノラにしてもいいし家を出て一人なったノラにしてもいい)をつぶやかせるのも面白い気がする。「家」や「一人の女性」などキーになる要素を並べたのに、それだけで終わっているという印象なのがとても残念である。


 要因の一つは研究会として男二人が話す内容にもある。二人の会話はおおよその流れだけ決めて後はアドリブだったのではないかと思うが(わからない)、あらすじの説明に時間がかかったせいか、二人の『人形の家』の解釈が深くなかったのだ。この話は何を言いたいのか、ノラの存在とは何なのか、夫は何を考えているのか、この時代について、現代から見て違和感があるのはどの点か、現代との共通点はどこか、現代でも上演され続ける理由は何か…。本当の研究会よろしくそれらを深く議論していれば、様々な解釈を披露していれば、観客は解釈と女性を結び付けて勝手に「読み込んで」くれることも可能だった(ちなみに、解釈は二人のオリジナルである必要はない)。研究会の内容こそを演劇的に固めておくべきだったと思う。


 ちょっとワクワクして始まっただけに…観客に「考えさせる何か」を与えなかったのがとても残念である。

2025.05.05

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『轡田市猿田校区年度末区民会議』非売れ線系ビーナス

2025年3月20日(木・祝)15:00~ @松楠居

●『轡田市猿田高校年度末区民会議』

非売れ線系ビーナス

作・演出:田坂哲郎

演出助手:内田龍太郎

出演:风月、ぽち、田坂哲郎

制作:木村佳南子、ミナミエリ

Photo:あだな

チラシデザイン:ミナミエリ




 


 観客参加型の芝居のことを「イマーシブシアター」という。直訳すれば「没入型演劇」。観客も巻き込まれる形で作品の一部となるタイプの芝居である。2023年に北九州芸術劇場で佐藤隆太の一人芝居『エブリ・ブリリアント・シング』を見たのが、初めてのイマーシブシアターだった。主導権は役者にあるとはいえ、観客に自由に発言を促すとどこにたどりつくか分からない。従って予想よりもかなり自由度は低く、観客はあてがわれたセリフを順番が来たら話す、というものがメインだった(それだけではないのだが)。その意味では、手塚夏子の実験的なダンス(という表現でいいのかもはやわからないような)の方が、イマーシブシアター的と言えるかもしれない。


 さて非・売れ線形ビーナスの最新作は松楠居という古い木造家屋の二階を借りて、轡田市猿田地区の自治会の話し合いをするという(てい)の作品であった。観客…いや、参加者は役者と共に車座になって座り、猿田校区の問題点や祭りの話し合いに「参加」するというわけだ。田坂哲郎扮する「猿田まつり実行委員長の鯖芸」氏は「どーもどーも」と腰低くあいさつしながら名刺を配り、世間話をし…出席者たちは出されたお菓子とお茶をいただきながら、区民会議に参加する。本当の区民会議よろしく会議に必要な資料のコピーや、新しくなったという猿田神社のリーフレットまで用意されていて、「らしさ」満点である。


 参加者がどのくらい話し合いに加わるべきなのかと探り合いながら、口を開くのが面白い。こういった自治会会議の場では、互いに見知らぬ者も多いことから周りの様子を伺いつつ恐る恐る発言し始める。その状況と今回のイマーシブシアターならではの探り合いが重なっていて、うまくしたもんだと思う。議題3つの内の2つは、怪しげな作品の世界観(後述する)から作られている「地区の重要な問題点」であるためほぼ発言できない。その分、議題が祭りに移ると(現実世界でもよくあることなので)「あれに参加できます」「こういう協力もできます」と参加者たちが発言しやすくなる。少なくとも私が参加した回はみな積極的に協力を申し出ていた。面白いのが、参加者たちのそこでの提案が「フィクション」ではなく現実にあるお店やグループの紹介だった点だ。フィクションであるはずの会議が参加者によって虚実ないまぜになっていく。その後の練り歩きの「長(先頭で鳴りものを叩く役)」も、参加者から選出され参加者が投票、そのため選ばれなかった人は(初対面なのだから選出に根拠なんて無いのだが)少々気落ちするはめになる。無駄に気落ちさせるのが良いかどうかは別として、巻きこみ型の「虚実混在」がうまく機能している。


 ただし、「(フィクション)」の部分の中途半端さが気になった。


 最初に受け取る資料の中には、新しくなったという「猿田神社のリーフレット」も入っており、それがなかなかの本物っぽい。お菓子を提供される時も、後に猿田神社神主代理とわかる女性(ぽち)が意味ありげに手かざしを行う。議題も、なんだかよくわからない「うねり」というものが発生しているということ(被害状況の変化を比較できる地図資料も配布されている)、補償額についてなどの報告もされる。その後に、練り歩きの踊り(?)を参加者全員がさせられる。こういった仕掛けは十分だったのだが…。


 まず、練り歩きの踊りらしきものを参加者が練習する件。それまでの「うねり」だのわけが分からない用語も相まって、この新興宗教染みた動きをさせられるのは面白いとは思う。しかし、階段下まで行列で練り踊りをしたあと、そのままで作品自体がジ・エンド。途中でポンと投げ出された気分だ。参加者の多くが「これで終わり?」と首を傾げながら2階に戻るはめになる。


 次に、ジャージ姿(記憶は定かではないが)で部屋の端を動く女性(风月)の動きが猿のようで、猿田神社の名前と関連があるのかと気になったのだが、参加者が彼女のその動きに注目していたかと言うとあやしい。参加者はそれぞれ目の前の話し合いや、自らがどうふるまえばいいのかなどに集中していたからだ。そうして練り歩きの練習を終えて2階に戻ってきた時に、彼女が着ていたはずの服が散乱しているのを目にする…のだが、参加者たちは三三五五に話したり帰り支度をしたりしていて、なんとなく「ただ散らかっているだけ」にしか見えない。意味があるのかないのか…は参加者が考えるにしても、あまりにも目立たない。


 宗教儀式のような芝居を観客が列席する形で見るという芝居はあった気がするが、そこまで直接的にする必要はないにせよ、「思わせぶり」な要素を入れているのならあと一押しがほしい。中途半端な印象だけを持ち帰ることになってしまった。残念である。


 もう一つ付け加えると、本作に5000円のチケット代は高すぎる。

2025.04.20

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プロフィール
柴山麻妃

●月に一度、舞台芸術に関係するアレコレを書いていきまーす●

大学院時代から(ブラジル滞在の1年の休刊をはさみ)10年間、演劇批評雑誌New Theatre Reviewを刊行。
2005年~朝日新聞に劇評を執筆
2019年~毎日新聞に「舞台芸術と社会の関わり」についての論考を執筆

舞台、映画、読書をこよなく愛しております。
演劇の楽しさを広げたいと、観劇後にお茶しながら感想を話す「シアターカフェ」も不定期で開催中。
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