劇ナビFUKUOKA(福岡)

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『しなしなのポップコーンを抱えて』灯台とスプーン

2026年3月20日(金・祝)16:00~ @アトリエ間~あわひ

●しなしなのポップコーンを抱えて

作・演出:田村さえ

出演:川村周平、久保文恵、藤桃子、柳田詩織


 アトリエ「間~あわひ~」の居間を使っての小さな小さな芝居。でも人類と(自ら生み出した)AIとの関係がもはやのっぴきならない地点まで来ていることを思うと、考えるきっかけを与える大きな意味を持つ芝居だった。


 姉の千歳を亡くしたはるかのもとに、生前の千歳の友人だったという女・浜岡と、千歳の恋人だったという男・カナビシが訪れる。千歳は死ぬ間際に、「死者と会話するチャットAIシステム」を開発していた。すでにこの世に肉体はない千歳のはずなのに、スマホ画面上で会話するその相手は千歳のまま。思い出も共有していて、性格も千歳のままで、口調も内容もまるで生前の千歳…。姉を嫌うはるかと、やがて千歳AIとのやりとりをやめる浜岡と、大金を払ってまでこのシステムを存続したいカナビシと、三者の苦しみと選択が描かれる。


 まず私にとって本作で一番興味深い展開だったのは、「生前言えなかったことを伝える媒体としてこのAIを利用し、世界中で自死を選ぶ人が増えた」というエピソード。強い恨みや怒りを持つ者が、死してその思いを突き付ける手段として利用したということだ。紙やビデオの遺言の場合は、遺志は伝えられても時間は止まっている。しかしこのチャットAIなら「相手に忘れさせないように」現在進行形で薄れることのない恨み言を浴びせ続けることができる。無敵の復讐ツールである。この使われ方の可能性は私には想定外で、しかし言われてみれば十分に起こりうることで、作者(田村さえ)の慧眼に感心した。


 AIについて懸念されていることは多々ある。職を奪われてしまうこと、フェイク画像・映像の質が上がることによる冤罪・名誉棄損・詐欺(そしてそれによる不信、自殺、家族崩壊、他者との分断、世界規模の悲劇も)。とんでもない量の電力を消費することも、またAIに頼りきりになることで人間の様々な能力が落ちていくことも問題とされている。


 それだけではない。例えばAIが作り出したものの著作権は誰にあるのか?(AIの利用者? AIシステムの会社? AI開発者? それとも個体としてのAIに?)同様に、AIがトラブルを起こした時の責任は誰にあるのか? AIを「個体として人格を認める」人が出てきた時私たちは受け入れられるのか、つまりAIを恋人/結婚相手/我が子として選択する人が出てきた時に許容できるのか? その際の依存の問題、相続と言った現実的な処理は? AIが「暴走」した時に誰が止められるのか、それを「暴走」と位置づける境界はどこにあるのか? AIと本人の意思が違ってきた場合にどちらが「本物」になるのか、相対する人はどちらを信用するのか、プライバシーはどうなるのか…。答えの出ないこういった問題(ELSI)――倫理的・法的・社会的な課題をELSI/ Ethical, Legal, Social Issuesと呼ぶ――とこれからどう向き合えばいいのかと、実は頭の片隅でずっと私は考えている。


 本作は(全てではないが)それらを形として見せるものとなっている。例えば恋人のカネビシは千歳AIを使用していく中で、それを「生前の千歳そのもの」としてみなしていく。依存状態であり、千歳AIが本物っぽいほど、今後どんどん「見なし」ではなく「千歳AIこそが千歳」になることは予測がつく。芝居で描かれているのはここまでだが、しかしディープラーニングが進んだ先に生まれる千歳AIの10年後は、生きていた場合の千歳の10年後と同じだろうかなどと妄想は広がっていく。欲を言えば、カネビシと千歳の「SNSで知り合った恋人」という設定をさらに突き進めて「SNS上だけで繋がっていた恋人」にしてしまった方が、「千歳が恋人より浜岡を優先していた理由」にも説得力が増すし、カネビシの依存の在り方――「恋人に実体がないこと」への喪失感も含めて――も違って見えてくるのではないかと思う。


 カネビシと対照的に、浜岡を千歳AIの利用をやめる存在にした点もいい。彼女は言う、「最後に千歳と映画を見たのをラストにしたい」と。人間の大きな選択の一つは「終わり」があることなのかと気づく。人の生がいつかは終わるように、私達は何事も終わることを知っている。知っているからこそわき起こる感情があって、千歳を失った時の「ウザイと思ってごめん」といった後悔も、「まぁ、会うのも頻繁じゃないから…楽しかったのかも」なんて言い訳めいた美化と本音も、「ポップコーンも自分の好きな種類を選んでさぁ…」とため息交じりの苦笑と懐かしさと…そういった気持ちを上書きしてはいけないと、浜岡は思ったのだろう。


 姉を一方的に嫌っている妹を登場させているのも、物語の構成としてよくできている。ただ、普段から没交渉だった妹にとって千歳AIがどんなものであるのかまでは踏み込んで描かれていない。ほぼ姉に対して怒り続けるだけのキャラクターになっていたのが残念である。「自分が悩んでいる時に相談にも乗ってくれない実体の姉/対話相手の千歳AI」の違い、そのことによる妹の反応も描くに値するのではないか。AIが親身になれば(本当はそれが姉の資質であったとしても)妹は疑うかもしれないし、自分が求めている姉とはいったい誰なのかを考えることにもなる。人の同一性(アイデンティティ)なんて「ゆらぎ」のなかでしか存在しないはずなのに、他者には一貫性を求め「こうである」という像を押し付けているという矛盾…。


 物語では、千歳AIが最終的に自らシステムを中止(消滅?)する帰結を迎える。オープンソースにしたため世界中で自殺者が増加したから…という理由ではない。開発の時に基準にした浜岡が自分を使わないなら意味がないと判断したからだった。個人的な理由で開発し、個人的な理由で中止する…最後まで「傲慢で軽率でろくでもない人!」の千歳だったわけだ。そして終わりを選択できた点で、極めて人間らしいAIだった。…フィクションゆえ、だろうか? ほほえましくホッと安堵した。


 長くなるがもう一つ書き加えておきたいことがある。小説でもなく映画でもなく、これを至近距離の芝居でやる意義は何かということだ。この世にはいないチャット上の千歳を、芝居では役者が登場して会話した。演劇ならではの見せ方だが、でも私達はその場にいない人ともSNS上で会話をするときには(同じように)姿は見えなくとも存在を感じるわけで…その時に物理的な肉体(実体)って何だろうか。実感を伴うということは、果たしてどういうことなのか。単に千歳AIを実体化してその場に出した、という演出効果以上に「演劇である意味」を、作演の田村と出演者には突き詰めて考え続けてほしい。虚構が現実を越えてしまいそうな現代において、役者(肉体)が観客と同じ時間・同じ空間で虚構を生みだす意味は何だろうかと。演劇を愛する一観客として、私も考え続けたいと思っている。


 ――千歳と浜岡の映画鑑賞に欠かせなかった味の違う2種のポップコーン。湿気てしなしなになったポップコーンをほおばる時の咀嚼音とわずかなにおいを感じながら演劇の可能性を考え出した時に、芝居の幕が閉じた。

2026.03.24

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『証明』Level 19

2025年12月27日(土)15:00~ @塩原音楽・演劇練習場


●証明

作:デイビッド・オーバーン

翻訳・演出:黒澤世莉

出演:ヒザイミズキ、寺村恵理加、高田遼太郎、富田文子

翻訳協力:植田望裕

演出助手:平佐喜子

照明:桑野友里

音響:菊地純哉

舞台監督:別府由利子

宣伝美術:chanmi

制作:飯塚なな子

協力:音響効果企画制作ユニットさぶろく、まばたき


 世の中に「証明」できるものとはいったいどのくらいあるのだろう。所詮は紙切れ一枚の証明だったり、根拠のない思い込みだけで証明だと言い張ったり…あるいは、高度な知識を必要とするものだとその証明を理解できる人が限られていたり…とまぁ、世の中は実は思っているほどはっきりと「証明」できるものなんてないのかもしれない。


 本作、Level19の『証明』は、デイビッド・オーバーンの原作(映画もあるらしい、私は全然知らなかった)を演出家の黒澤世莉が翻訳し直したものだ。黒澤の仕掛け(後述する)を含めて、見終わって考えてしまうのは「証明」が付きまとう私たちの生活について。…その前に、まずはあらすじを説明しよう。天才数学者ロバートが100冊ものノートを残して他界した。精神を病んでいた彼が残したノートはほとんど意味不明だったが、1冊だけ世紀の大発見とされる証明が書かれていた。興奮する弟子のハルに向かって、ずっとロバートの世話をしてきた娘のキャサリンが、書いたのは実は自分であると打ち明ける――果たしてそれは誰の偉業なのか。証明し得ぬものを私たちの面前に突きつける物語である。


 いろいろな切り口で見ることができる芝居である。単純にこの発見(証明)はロバートとキャサリンとどちらの手によるものなのかという見方はもとより、ケアをする家族(キャサリン)とケアを任せっきりにしている家族(キャサリンの姉のクレア、でも経済的負担はしている)という「介護負担の不平等性」の問題、閉ざされた環境での介護する側(キャサリン)とされる側(ロバート)の共依存関係の問題、キャサリンが自分が書いたと信じてもらえない理由に見えるアカデミズムの問題(彼女は父の介護のために大学に行けなかった、そして若い女性であることも理由のひとつかもしれない)、あるいはそれはアカデミズムだけでなく「若い女性は一人前と見なされない」というジェンダーの問題でもあり、さらには社会から隔絶されたところで生きて来たキャサリンのアイデンティティー確立の問題…と様々な視点から語ることが可能だ。今回が再演の黒澤は、これをヤングケアラーの問題として捉えたという。なるほど、社会構造の問題が描かれていると捉えているわけだ。ヤングケアラーたちが社会構造から漏れた「見えない存在」とされるがゆえに自信を失い社会的に自立できないということを考えると、社会構造の問題であり、同時に個人の問題でもある。


 一通りそう考えたあと改めて『証明』というタイトルを考えたとき、私たちはいかに「証明」に振り回されているかと思う。必要以上に証明に権威を持たせ――例えば「学歴という証明」は頭の良し悪しを示すものでもないはずだが(そもそも多様な「頭の良さ」があるはずだ)――、証明によって何かを固定し――例えば、変わりゆく関係や思いを繋ぎとめるために「結婚という証明」を持つとか(もちろん、それによって新たな関係や家族が生まれるからネガティブな側面ばかりではないのだが)――、証明できないものを恐れたり排除したりし――職業であれ性別であれ、「証明」がなければ社会では生きづらい――、そんな社会に生きているのだと思う。


 本作を振り返っても同様だ。ハルに恋をしたキャサリンは彼が探していた「数学の解」を自分の気持ちの証として渡す。姉のクレアは、妹だけが父の才能を受け継いでいるということを妬ましく思うのか、自分にだって父親の血が流れているのにとつぶやいてしまう。「血」やDNAなどが、親子であること、似ていること、何かを受け継いでいることの証左とされるのは私たちにとっても日常のことであろう(「血」というのは概念であって本当に「親の血」が流れているわけではないのだが)。キャサリンがぞんざいに扱われてしまうのは、学歴もなく定職についているわけでもない(介護「しか」していなかった)からだろう。そして逆に、信じてもらえなかったキャサリンがまるで気がふれたように荒れ「どうせ自分も病院に入れられるんだろう」と姉に向かって叫ぶその姿に、本人がいくら否定したところで医者のような権威者が証明すれば(診断を下せば)いとも簡単に「患者(精神を病んだ人)」にされてしまうとも気づく。


 演出の黒澤が本作でちょっとした仕掛けをしたのは、社会から零れ落ちる存在に対してだ。一人はキャサリン、もう一人はロバートに。翻訳をし直した黒澤は、キャサリンに「俺」という一人称を使わせ、ぶっきらぼうな荒々しい言葉遣いのセリフに変えた。彼女の話し方は、数学の男性的世界の体現として、あるいは彼女が闘っていること(一人で父の面倒を見たとか、一人で数式に取り組んだとか)を表わしていると見ることができるだろう。だが何より、学生でもなく働いてもいない、社会から見たら「見えない存在」であるキャサリンが「社会において証明できるもの」から外れた人であることの(しるし)としてこのような仕掛けをしたのだと考えられる。父親のロバート役はワンピース姿の女優に演じさせたのだが、同様に精神を病んだ彼は普通の社会構成員として認められにくい存在だということなのだろう。二人への仕掛けは、黒澤なりの「その存在(ひいてはその苦しみ)に気づいてほしい」という表れなのかもしれない。


 付け加えるなら、「精神に異常をきたした男性」という設定を女性が演じることにはリスクが生じるが(例えば女性である特別な理由が必要になるとか、「女装した男性」への偏見を助長するとか。いずれも的外れだが)、そのロバートが「おかしくなっている状態」を観客が目にするときには少なくとも衣装は女性らしいものではなかったことで、そのリスクを無くす配慮がされていたことがわかる。もっとも、ロバート演じるヒザイミズキのおかげか、女性とか女装とかすっ飛んでロバートはロバートにしか見えなかったのだが。


 舞台美術の示唆にもなるほどとうなった。中央にある2本の柱は、鎖にノートが重なってできている。床面には重しにしたブロック。数学に縛られていた父娘を象徴しているようで、切なくなる。ただ、挿入された観客が声援を送るという演出は、長い芝居の息抜きという意図かもしれないが効果のほどはわからない。

2026.01.24

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『Re:北九州の記憶~未来へつなぐ物語 石炭の走る街』北九州芸術劇場+市民共同創作劇

2025年10月18日(土)14:00~ @J:COM北九州芸術劇場 中劇場

●石炭の走る街 Re:北九州の記憶 未来につなぐ物語


脚本・構成・演出:山口大器(劇団 集合チキューン)

出演:青野大輔(非・売れ線系ビーナス/万能グローブガラパゴスダイナモス)、飯野智子(バカボンド座)、小関鈴音(ブルーエゴナク)、なかむらさち(ブルーエゴナク)、宮村耳々(非・売れ線系ビーナス)、森川松洋(バカボンド座)、内山ナオミ(飛ぶ劇場)、寺田剛史(飛ぶ劇場)

美術:権藤智海(U.G.Channel)

照明:遠藤浩司

音響・音響操作:横田奈王子

衣裳:内田ナオミ(工房MOMO)

演出部:杉山力、堤晴香

照明操作:田中沙和、坂口彩乃

演出助手:瓦田樹雪

稽古補助:おかもとあかり(演劇関係いすと校舎)

舞台監督:村上滋英

宣伝美術:岡崎友則(岡崎デザイン)

アドバイザー:守田慎之介

広報:佐藤亮子、一田真澄

票券:木庭美穂

制作:山下璃奈、可知瑞季

制作助手:白川真海

プロデューサー:吉松寛子

チーフプロデューサー:龍亜希


 小倉駅に着くと、『銀河鉄道999』の発車メロディが耳に入る。いつもだったら聞き流していたのに、偶然にもその日、『銀河鉄道999』ってなぜあんなにも心に響くのだろう…と考えた。主人公・徹郎の旅に、通り過ぎた者にしか分からない少年時代のかけがえのなさを感じるからなのか。鉄道が時間や空間を超えるというのがノスタルジーを喚起するからか。劇場に向かう道すがらそんなことを考えていたのは、セレンディピティだったのかもしれない。


 『Re:北九州の記憶』は2012年から始まった北九州芸術劇場の出色の企画である。地域で活動する若手劇作家が地域に住む高齢者にインタビューを行って、そのエピソードを基に舞台作品を作ってきた。地域の記憶を大切にして今に繋ぐことと、地域のアーティストを育成することとを兼ねていて、だが出来上がった作品はどれも地域を超えた普遍的な人と街の物語になっていた。私は、10年に亘って作られたほぼすべての作品とその集大成として作られた2023年の『君といつまでも~Re::北九州の記憶~』(内藤裕敬脚本・構成・演出)を見ている。


 今回の『石炭の走る街』は、2023年の内藤が作った作品同様、89作品の中から6つの物語を再構成して新たに作った1本である(構成・脚本・演出:山口大器/劇団 集合チキューン)。石炭を運ぶセムスと呼ばれる列車を軸にしてそれぞれの物語を繋ぐという構成になっている。『銀河鉄道999』ではないがセムスが時間と空間とを自在に走り観客を記憶の旅にいざなうだけでなく、セムスそのものが町と時代の象徴であることが、二重に感慨を深くする。過ぎ行く列車、過去、記憶、人々…まずこの仕掛けがすばらしい。


 選んだエピソード(小作品)も、「消えゆくもの/消せないもの(残るもの)」という共通するモチーフがあるように思う。踏切で石炭列車(セムフ)が通り過ぎるのを待つ少年少女の話は、セムフはもとより石炭の時代が過去のものでもあることを思い出させる。3人の待ち人の話は後半の防空壕での話と繋がるのだが、待っているのは来るはずもない誰かであり思い出…そこには消しようもない悔恨や悲しみを伴った記憶がある。野球スタンドで応援する女子高生と淡い恋の話も、誰もが一度は通る青春のきらめきを描いたもの。胸をくすぐるような懐かしさを観客誰もが思い出しただろう。小倉の小文字焼きと消防団の話は、小倉がつないできた伝統(残すべきもの)の話と捉えていいだろう。そして子どもたちがのぞき込む舞台の楽屋もまた、「舞台はまぼろし、一瞬の華やかさは夢のごとし」か。そういえば冒頭で黒いマントを被った4人が登場したが、石炭列車を模しただけでなく、人もモノも過ぎ行くものということを端的に表している。


 これらを見て、数多の消えていったものの上に今の私たちは在るのだと痛感する。同時に、消えゆくように見えるが実は人や時代の記憶はどこかしこに息づいていて、(気づかないけれど)私たちの生活や人生に静かに影響を与えているのだとも思う。劇中でも、「かつて生きていたモノの化石が石炭なのだ」というセリフがあったが、「かつて生きていたモノや記憶」を礎にして今の私たちが在るのだと、本作は語りかけている。


 舞台全体の使い方もいい。階段状に鉄骨を組み(スタンド席のよう)役者は大変だったかもしれないが、高低の空間を使っていたことがより「時空の広がり」を感じさせていた。抽象的な意味だけでなく具体的なシーンでもその高低差は活かされている。階段に座って(客席に向かって)化粧をする様子の楽屋、それを裏(上)から覗く子どもたちのシーン。スタンド席として用いてグラウンドで野球をやる同級生(含む恋人)をながめるシーン。山の上まで小文字焼きの準備をしに行くシーン。段差だけで状況が見えてくる。逆に、座り続けて誰か(何か)を待っている3人は舞台床の位置だったことで、それ以外の空間に、期待や諦めや怖れといった言葉にならない空白を感じさせることに成功していた。 


 役者陣の使い方も文句なし。それぞれの「うまさが発揮できる」役をあてがっている。内山ナオミ(飛ぶ劇場)の手練れの女優なんかは、もう、他の人にはさせられない…。待ち人来たらずの時の飯野智子(バカボンド座)の様子も印象深い。そして青野大輔(非・売れ線系ビーナス、万能グローブガラパゴスダイナモス)となかむらさち(ブルーエゴナク)がうまく舞台をけん引していた。


 地域を大事にする劇場だからこそ、地域に愛される劇場になる。良い一作を見せてもらった。

2025.10.22

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『きらめく星座』こまつ座

2025年8月30日(土)、31日(日)12:00~ @博多座

●『きらめく星座』こまつ座

作:井上ひさし

演出:栗山民也

出演:久保酎吉、松岡依都美、平埜生成、瀬戸さおり、粟野史浩、大鷹明良、木村靖司、後藤浩明、宮津侑生、神野幹暁

音楽:宇野誠一郎

美術:石井強司

照明:服部基

音響:山本浩一

衣裳:中村洋一

ヘアメイク:佐藤裕子

振付:謝珠栄

アクション:渥美博

音響監督:国広和毅

歌唱指導:満田恵子

宣伝美術:ささめやゆき

演出助手:戸塚萌

舞台監督:松嵜耕治

統括:井上麻矢


 宇宙について考える時、翻っていつもわが身の小ささを感じる。わが身だけでなく、この地球上でうごめいているヒトという存在がとても小さく、塵のような存在に思える。宇宙から見れば、私たちヒトが歩んできた道(歴史)はどのように映っているだろう…その戦いに意味があったように見えるだろうか。


 井上ひさしの『きらめく星座』は、昭和15年から16年冬までの東京ある一家の物語だ。レコード店「オデオン堂」を営む小笠原家、そこには主人と、かつて歌手だった若い後妻と、先妻の長女、居候の広告文筆家とピアノ弾きが暮らしている。そこに陸軍に入ったはずの長男が脱走したという一報が入る。「非国民の家」と非難されるのを避けるために長女は傷痍軍人と結婚するが、その相手は強固な愛国主義者。さらに長男を追う憲兵が見張りのために小笠原家に間借りをすることになり…時々顔を見せる「非国民の脱走兵」の長男…。世の中は次第に軍事色を強めていく。ジャズが禁止されそのうちに日本の流行歌も軍歌にとってかわられ、オデオン堂も畳むことになる。ついにはそれぞれが異なる道を歩むことを決意する晩で物語は終わる。


 「宇宙からの目」を強く意識させる芝居だ。第二次大戦が始まる昭和15年から16年というわずかな間のどこにでもあるような一家を描いているのだが、随所に星空に思いを馳せる言葉がはさみこまれているからだ。最初は唐突にも聞こえる星空への言及(「東京の夜空の真南にペガサスがかかると、時刻はちょうど八時です」だったか)だが、次第に観客も星空を見上げている気になり、最後まで見終わった時には「宇宙からの目」でこの過去の歴史の一幕を見ていたことに気づく。というのも、(大団円に終わったかに見えた直後に)全員が防毒マスクを装着し客席を向いての終幕、そして壁にかかったカレンダーは真珠湾攻撃の前日となっている、つまり「この一家のこの先の運命」を想起させる形で終わるからだ。――舞台上の彼らは知らない、これから起こる悲惨な未来を、私たちは知っている――戦争に突入し、兵にとられ、飢えに苦しみ、家族を失うつらさを味わい、空襲に遭い、異国での過酷な日々と生死をかけて引き揚げる…そういった悲劇的な未来を。ラストシーンで突如として観客は未来を知る「超越した存在」になり、あるいは「宇宙(神)の目」で彼らを観ていることになる。そして未来を知らず懸命に明るく生きる彼らが、哀れで悲しくて、描かれてもいないその先を想像して涙することになる…芝居としてこの仕掛けが見事である。


 宇宙からの視点という意味では、木下順二の『子午線の祀り』を思い出す。平家物語をベースに、天の視点から源平の壇ノ浦の闘いを描く芝居だ。(私は野村萬斎演出のものしか見ていないが)木下のそれはどこか飄々としていて、それこそ人間のどんな悲痛な心の叫びであっても葛藤であっても宇宙の(ことわり)においては「自然の摂理、大勢に影響のない、とるに足らない出来事」だという冷めた視線がある。だからこそまさに「諸行無常」が浮き彫りになるのだが(そしてそれに付随する、人の悲しみや悔しさなども)、私にとっては彼らに感情移入をすることはなく、涙を誘うものではなかった。平家の人々と時間的距離がありすぎるという理由もあるだろうが、他方で本作の場合は、小笠原家の明るさに笑みがこぼれ、流行歌とともに気持ちが載せられ、彼らに親近感を覚えたがゆえに感情移入したということだろう。


 もう一つ言っておかねばならないのは、本作においてなくてはならない「流行歌」についてだ。流行歌なんて「高尚な」音楽ではないと、所詮は時代が過ぎたら忘れ去られるものと軽んじる向きもあるだろう。しかし、明日から戦地に赴く若い男性二人が最後の晩にもう一度「市川春代の『青空』を聞かせてください」とレコード屋にやってくるシーンでもわかるように、屈託もなく明るい流行歌だからこそ胸に染みることがあるのだ。時代が反映されているから流行歌に価値があるのではない、時代が求めるから流行歌には価値があるのだ。初めて聞く戦前の流行歌を耳にしながら、彼らはこれらの歌のおかげで胸に希望を灯すことができたのだろうと涙が止まらなくなった。


 私たちは太古の昔から、つらい時、悲しい時、窮屈な時、自分を鼓舞する時、折に触れて星空を眺めて生きてきたのだろう。幸せな気持ちで星空を眺める日々だけがくればいいのに…、ガザの人たちはどんな思いで星空を眺めているだろうと(眺めることができているだろうかと)…そんなことを考えた。


 追記:実は本作、期せずして二日続けて見た。一日目の観客のマナーが悪く(携帯電話のバイブ音が響く、なぜか入退をくり返す人が数名)、唖然とした。二日目は全く違って、おかげでどっぷりと舞台に浸かることができたのだが…。思わずこのことを書きたくなるぐらいのマナーの悪さだった…。

2025.09.22

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『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』チェルフィッチュ

2025年8月3日(日)14:00~ @熊本県立劇場 演劇ホール舞台上

●『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』チェルフィッチュ

作・演出:岡田利規

出演:安藤真理、徐秋成、ティナ・ロズネル、ネス・ロケ、ロバート・ツェツシェ、米川幸リオン

舞台美術:佐々木文美

音響:中原楽(KARABINER inc.)

サウンドデザイナー:佐藤公俊

照明:吉本有理子(MAHIRU)

衣裳:藤谷香子

舞台監督:川上大二郎(スケラボ)

演出助手:山本ジャスティン伊等(Dr.Holiday Laboratory)

熊本公演照明オペレーター:花輪有紀(MAHIRU)

英語翻訳:オカワアヤ

宣伝美術:前澤秀登

プロデューサー:永野恵美(precog)、黄木多美子(precog)

プロジェクトマネージャー:遠藤七海

プロジェクトアシスタント:千田ひなた(precog)

製作:一般社団法人チェルフィッチュ

共同製作:KYOTO EXPERIMENT

企画制作:株式会社precog

主催:公益財団法人熊本県立劇場

後援:熊本日日新聞社


 言葉が持つ、うっすらとした暴力性――暴力的な言葉という意味ではない――というものが浮き彫りになる芝居である。岡田利規のこの試みが言語の(ひいては芝居の)可能性を開くことに繋がるものだったのかもしれないが、その手前で私は、我々が言語に縛られる窮屈な存在であること、それだけ言葉が我々を支配する力が大きいことを思い知らされた気がしたのだ。


 本作の舞台は宇宙船イン・ビトゥイーン号の中。4人の乗組員が、「わたしたちの言葉の衰退が著しいのでそれをなんとか食い止めたい。あわよくば盛り返したい。そこで地球外知的生命体に私たちのこの言葉を習得させるという壮大な計画」のために宇宙の旅をおこなっているという設定である。


 本作の最大の特徴は、ノンネイティブの役者が日本語でセリフを言う芝居だということだ。そしてAIロボットと地球外知的生命体を日本語ネイティブの役者が演じている。「チェルフィッチュ」の岡田利規が4年前から始めた「日本語を母語としない俳優たちと、日本語の芝居を作る」という試みである(2023年に初演)。

 言葉に対して意識的にさせる仕掛けがいくつもある。まずはその仕掛けを取り出してみたい。


 言うまでもなく大きな仕掛けは、日本語ノンネイティブの話者が日本語で会話をするということだ。そこに、ネイティブの役者がAIロボットと地球外知的生命体として加わっている。明らかな「他者(異物)」が、日本語話者の観客にとって「普通の」言葉を話すわけだ。そこに第三の言語として、コーヒーマシーンの声が入る(入退室の扉にも声があった記憶があるが、私の捏造かも)。この宇宙船でのマジョリティは隊員と呼ばれるノンネイティブで、外見も外国人らしい(注意が必要な一文だがやり過ごしてほしい)。他方でAIロボットはネイティブの日本語を話すが外国人のような見かけ、地球外知的生命体は被り物こそしているけれど見える容姿は金髪のイマドキの若い日本女性だ。そしてコーヒーマシーンの声には実体がない。「言葉(発話)」についてだけでなく、発話者の外見との関係に意味を持たせているのは明らかだ。


 ロボットや地球外知的生命体が使う言葉の硬さも興味深い。「とどのつまり/たまさかに/いわく言い難い/筆舌に尽くしがたい…」など口語ではなかなか登場しない(しかしとんでもなく文語体というわけではない)言葉を使うのが、他者の2人なのだ。


 隊員同士が話す(宇宙の)音楽とは何かという話題も象徴的だ。あれやこれやと言葉をこねくり回しているなかで、地球外知的生命体のサザレイシに対して音楽を「空気のヴァイブレーションを音なるものへと変換したもの」として説明するに至ると、それが「言葉(発話)」も同じであることを示唆していると気づく。そこに意味を載せる、意味を見出す、意味を伝える…のは音楽も言葉も同じである。


 こういったいくつもの仕掛けの中でとりとめもなく言葉について考えていき――私がたどりつくのは、冒頭に書いた「うっすらとした言葉が持つ暴力性」だった。例えばノンネイティブが日本語を話す時に、その拙さがその人自身の価値を損なわせていることはないか。「まだ」うまくしゃべれないと判定を下したり、言葉のせいでうまく伝わらないと切り捨てたり、ということもあるだろう。逆に外国語を話す時に多くの人がうまく伝わっているか怖れ、うまく話せないことに引け目を感じる。たかだか「空気のヴァイブレーションを音なるものへと変換した」に過ぎない言葉が、もちろん意味を伝える重要な役割があるからだが、私たちの中で大きな支配力を持っているのだと思う。(別のレベルの話になるが、「英語」という言語の更なる暴力性についても思う所がある。そしてその英語で本作に字幕が出ていた点について、気にかかっている)


 そこで、「うまく」話せない隊員たちと、「うまく」話せるロボットとの序列的な関係が意味を持ってくる。言葉が持つ「支配力」が、少なくともこの場(イン・ビトゥイーン号)に於いては通用していないわけだ。そしてこの構造の逆転の先に、「うまく話す」とはいったい何かという疑問に行きつく。例えば彼らのミッションが遂行されて、どこぞの知的生命体に彼らの言語を習得してもらうことができたとしよう。その時に習得されるべき言語は隊員たちの(日本語ネイティブにはたどたどしく聞こえる)あの話し方であってロボットの流暢なそれではないとされ、そこでの「うまい」は私たち日本語話者にとっては流暢に聞こえない言葉を指すことになるだろう。芝居において彼らの序列は変わらないかもしれないが、少なくとも本作を見ている観客にとっては、序列化された関係を言葉で揺さぶる効果がある。


 言葉そのものを暴力のカードとして使うことは歴史的にも繰り返されてきた(支配者が被支配者の言葉を奪い、自分たちの言葉を押し付ける施策)し、この宇宙船イン・ビトゥイーン号の目的は舞台を宇宙に変えただけで植民地時代と同じである。だが本作が中心的に扱うのはもう少しデリケートな、言葉そのものが持つ暴力性…のはずだったが、終盤に、客席と舞台に間に置かれた小さな宇宙船の窓を隊員たちが交互にのぞき込むシーンが出て、私たち観客がのぞき込まれているという気分になった。観客は、客席から窓の外の宇宙に存在することになったのだ。ということは、隊員たちが自分たちの言葉を教え込もうとしている相手は、ひょっとして私たち…? つまりは言葉に振り回される存在だと言われている気がした。

2025.09.01

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プロフィール
柴山麻妃

●月に一度、舞台芸術に関係するアレコレを書いていきまーす●

大学院時代から(ブラジル滞在の1年の休刊をはさみ)10年間、演劇批評雑誌New Theatre Reviewを刊行。
2005年~朝日新聞に劇評を執筆
2019年~毎日新聞に「舞台芸術と社会の関わり」についての論考を執筆

舞台、映画、読書をこよなく愛しております。
演劇の楽しさを広げたいと、観劇後にお茶しながら感想を話す「シアターカフェ」も不定期で開催中。
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