2023年7月16日(日)14:00~ @大濠公園能楽堂
●ふくおか「萬斎の会」
「食」
小舞・野老 (野村萬斎)
狂言・苞山伏 (高野和憲・月崎晴夫・深田博治)
狂言・栗燒 (野村万作・内藤連)
狂言・宗論 (野村萬斎・野村裕基・中村修一)
野村萬斎は、普段の喋りより狂言の時の声がいい。演目が始まる前に、本日のテーマと演目の解説をしてくれたのだが、それより狂言の時の方が、声も活舌も良く聞こえた。不思議だ。今まで彼の狂言も現代演劇も、どちらも見ていたのだが、初めてそんなことを思った。
さて本公演のテーマは「食(じき)」だという。『小舞 野老(ところ)』『狂言 苞山伏(つとやまぶし)』『狂言 栗燒』『狂言 宗論』の4本立て。狂言において、飲み物も含めた「食」はよく出てくる題材だ。学校の教科書に出てきた『附子』もそうだし、『柿山伏』も有名だ。「禁じられているものを食べた」だの「こっそり食べた」だの、子どもがやりそうなことを大の大人が後先考えずにやってしまうことばかり。無邪気というか、浅はかというか。多くが権力者への意趣返しにもなっているので、食べ物ていどの仕返しはかわいいものともいえる。お金や武器が登場するような生々しい反抗となると、もはや笑いというより復讐劇で、狂言ではなくなってしまうからね。そういえば、『茸(くさびら)』という演目を見たのを思い出す。キノコと山伏の戦いの話で、山ほどのキノコ(を演じる立衆)が続々と登場してきて、とてもびっくり、そして大笑いした。人間の基本は食だから、人間を愛しみながら笑う狂言が食を扱うのは当然か。
特に食に注目すると、いつもとは違った面白さにも気がついた。例えば『苞山伏』での食べっぷりである。苞(つと)とは納豆が入っているような藁でできた保存容器のことらしく、つまりはお弁当だと思えばいい。それを脇につけたまま寝入っている山人を見つけた山伏がこっそりと苞を食べるのだが、その時の様子と言ったら、藁を親指で押し開いて中のものを口にやるしぐさが何ともリアル。ここでの演技は誰が演じてもそうするのか、今回の山伏役の深田博治だけの演技なのかわからないが、そのモグモグタイムの可愛いこと、面白いこと。
『栗燒』は栗が焼ける様子の音が面白い。狂言にはもともと音楽や効果音がなく、色んな音をオノマトペで表す。太郎冠者(野村万作)が主人に命じられ40個の栗を焼くのだが、その時の音が豊かなのだ。シューシュー、ぽん、ブツブツ。失礼ながら齢90を超える万作がオノマトペをとなえるとかわいらしくも見える。狂言では「ドブドブドブ」と酒を注いだり「クックック」と飲んだり(そう聞こえる)「あむあむあむ」と食べたりと、オノマトペは定型化されていてそこが面白さの一つでもある。何となく「オノマトペの文字が見えるようだ」といつも思う。マンガに出てくる文字化されたオノマトペのあれである。登場人物の行動の単純さも加わって、狂言ってマンガに共通するところがあるのかもしれない。
他2作は、言葉で食と戯れる作品だった。『野老(ところ)』は変てこりんな話で、野老(=山芋)の亡霊が、自分が土の中から掘り起こされて調理されて食べられてしまう様子を地獄のようだと嘆いて舞う話だ。配布された謡の詞章を見ると、食べ物の名前がいっぱい、しかもダジャレである。それに、山芋の立場で(鶏や魚ならまだわかるけれど)食べられる苦しみを舞うって…かなりぶっ飛んでいる。『宗論』は宗教論争をする話だが、ここでも言葉遊びのような形で料理が登場する。(情けないことに私は萬斎の解説がなかったらよく分からなかっただろう。)直接的に食べ物を小道具にして笑いを誘う『苞山伏』『栗燒』と違って、食べ物の気持ちになったり食べ物で言葉遊びをしたりと、一風変わった面白さである。狂言の笑いもバリエーションに富んでいるのだと学んだ一日だった。
追記:「万作の会」もそうだが、親子三代(野村万作・萬斎・裕基)での舞台、演る方も見る方も幸せなことである。
2023.08.05
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