劇ナビFUKUOKA(福岡)

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『ライカムで待っとく』

2024年6月15日(土)13:00~ @久留米シティプラザ 久留米座

『ライカムで待っとく』

作:兼島拓也

演出:田中麻衣子

出演:中山祐一朗、前田一世、佐久本宝、蔵下穂波、小川ゲン、神田青、魏涼子、あめくみちこ

美術:原田愛

照明:齋藤茂男

音楽:国広和毅

音響:徳久礼子

衣裳:宮本宣子

ヘアメイク:谷口ユリエ

演出助手:戸塚萌

舞台監督:藤田有紀彦

宣伝イラスト:岡田みそ

宣伝美術:吉岡秀典

企画制作:KAAT神奈川芸術劇場

(久留米公演)

広報:陶山里佳、竹下久美子

票券:伊藤未紀

制作:宮崎麻子、穴井豊太郎



 2024年6月16日、沖縄県議会議員選挙が行われ、玉城知事を支持する県政与党は過半数を下回るという結果が出た。経済の活性化など沖縄が抱える課題は多いため、この結果が示す意味を一つに絞ることは私にはできない。だがこのことが玉城知事の「普天間から辺野古への基地移転反対」という主張に与える影響は小さくないかもしれないと思う――『ライカムで待っとく』を見た翌日のこのニュースに、これは芝居ではなく現実であり現在の話なのだと改めて思う。


 *****


 東京で雑誌ライターをしている浅野は、妻の祖父の葬儀のため沖縄にむかう。その直前に自分と瓜二つの顔をした60年前の男の写真を見せられ、その男が米兵殺傷事件についての手記の筆者であることを教えられる。沖縄に渡った浅野は、偶然にもその殺傷事件の容疑者が妻の祖父・佐久本であることを知る。浅野はこの事件の取材を進めていくうちに、現在とも過去ともつかない混然一体となった「沖縄」の中に入り込む…。


 おそらく観客の誰もが「沖縄は日本のバックヤードだ」というセリフ(実際に舞台をよく見れば、大きなビニールカーテンに囲まれている。私たちはバックヤード(・・・・・・)()見て(・・)いる(・・)のだ)や、「寄り添ってあげますよ」というセリフに引っ掛かり、衝撃を受ける。特に沖縄在住でない観客は自らの「加害者性」――「知らない」ことも罪である――に気づかされる(あるいはリマインドさせられる)。さらに、沖縄に米軍基地があること(しかも日本にある基地の中で最も面積が大きく、地元民の居住区と最も距離が近い)を受け入れている・押し付けていることによって今の生活があることに気づき、当事者意識の欠如を恥じる者もいるだろう。本作は、浅野が巻き込まれ気が付いていくのと同時に、観客も巻き込まれ気が付いていく。メッセージの多様性も含め、非常にすぐれた作品だと思う。


 さて本稿では少し違った視点で論じてみたい。それは「フィクション/ノンフィクション」という構造についてだ。本作の面白くて優れている点の一つが、「フィクションである」という芝居の特性に自覚的であるということだ。それが大きな意味を持たせることになっている。


 まず本作は史実や現在進行形の状況についてベタに描いていない。浅野は60年前の世界と現代を行き来して翻弄される。タクシーに乗れば運転手に「(知らない過去や未来まで)全てお見通し」かのように語られ、60年前の米兵殺傷事件の当事者たちと対峙し、挙句の果てには行方不明になった娘を必死に探すも「いなくなることは必然である」とされ、選べない選択を突き付けられる。まるで浅野が沖縄を他人ごとではなく「自分事」として捉えていくための通過儀礼であるかのように。このSF的な展開が時間的・空間的に「よそ者」である浅野を当事者として巻き込み、それによって浅野(=よそ者)としての観客を巻き込むことに成功しているわけだが、これは芝居としてよくある手法ではある。


 興味深いのはその先だ。沖縄は諦めて事件や差別を受け入れている、諦めて「よりマシ」程度の未来を選ぶしかないとの声を聞いた浅野が、舞台上で動き続ける「回り舞台」を止めようとする。つまり、物語(フィクション)の登場人物が、現実の芝居の機構を止める動きをするのだ! 物語(フィクション)から抜け出し浅野が止めようとしたリアル、それは現在まで続く負の歴史であり、沖縄の諦めである。そして登場人物が物語から抜け出すという行為は、完結した「物語」を破綻させることを意味する。沖縄は長く「物語化」されてきた。戦争、基地、事件、何のことであれ語られてきた、けれども「物語化」とは他人事の表れだ。そして「物語化」は分かりやすさを優先し、零れ落ちるものも多い。「自分たちは物語の中に閉じ込められている」というセリフが示すように。「語られる存在」がその物語を抜け出すこのシーンは、却って他者を物語化する暴力に気づかせる。


 ああ、そういうことかとラストにも納得する。たたずむ殺傷事件当事者たち3人と浅野を一瞬の閃光が包み暗転、終幕となる。おそらくその光はカメラのフラッシュだろう。冒頭で浅野が見せられた写真ではその3人と浅野のそっくりさんが写っていたが、ラストでは過去と現在が混然となった彼らを観客の目がカメラとなって撮った形で終わる。2024年の現在の観客の私たちに、過去であれ現在であれ「自分たちの目で見ろ」と示唆しているのだ。


 そういえば、本作にはたくさんの「物語る媒体」が登場する。米兵殺傷事件の真相を描いたとされる手記。死者と会話することができる金城さん。事件後の裁判。知らないうちに書き進められている浅野の記事。資料が入った段ボール箱ですら開くと語りだす。そこには様々な言葉があって意思があって声がある。その気になれば周りには多くの「物語る媒体」があるのだと気が付くはずだ。誰かのたった一つの物語を妄信したり、また何かの記事だけで分かった気になったりするのではなく、自分のその目で確かめて自分のその耳で声を聞けといっているのだ。同時に、自分が作ってしまう「物語」の暴力性にも自覚的であれと。


 沖縄の未来にあるのは絶望か希望か。そんな雑な「物語」ではなく、複雑で様々な声を聞いて読んで考える努力をしよう。それが私の当事者性だと考えた。

2024.07.02

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柴山麻妃

●月に一度、舞台芸術に関係するアレコレを書いていきまーす●

大学院時代から(ブラジル滞在の1年の休刊をはさみ)10年間、演劇批評雑誌New Theatre Reviewを刊行。
2005年~朝日新聞に劇評を執筆
2019年~毎日新聞に「舞台芸術と社会の関わり」についての論考を執筆

舞台、映画、読書をこよなく愛しております。
演劇の楽しさを広げたいと、観劇後にお茶しながら感想を話す「シアターカフェ」も不定期で開催中。
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