2024年2月4日(日)14:00~ @福岡市塩原音楽・演劇練習場
『ひなた、日本語をうたう VOL.1』
ひなた旅行舎
構成・演出:永山智行(劇団こふく劇場)
出演:多田香織、日高啓介(FUKAIPRODUCE羽衣)
演奏・音楽:坂元陽太
照明:松本永(eimatsumoto Co.Ltd.)
音響協力:佐藤こうじ(Sugar Sound)衣裳:岡藤隆広
宣伝美術:多田香織
記録写真:宇田川俊之
制作:高橋和美(キューズリンク)
言葉、についてのんびりと考える。意味(シニフィエ)と音声(シニフィアン)についての言語論的むずかしい話ではなく、日本語の音声について。「うた」でもなく「物語」でもなく「言葉のおと」が(それも多田香織の声で)、私の頭の中で楽し気にリフレインしている。
本作は、「歌と演奏」「詩や物語」の8本をライブ形式で送る珍しい作品である。演者3名、坂元陽太(コントラバス)、多田香織と日高啓介(芝居=リーディング、ギター、ハーモニカ、歌)は、立ったまま(途中、少し座ることもあるが)、3人の位置が変わることもなく、そして始終「前を向いて」観客相手に語りかけ、歌を届ける。その意味でも「演劇上演ユニット」としては特異な公演である。
まずラインナップが巧みだ。冒頭は三好達治の「ひなうた」、題名がユニット名と重なる詩で、かつ日本語を堪能させる。そういう路線で行くのか、と思った途端に『ありがとう』(細野晴臣)の歌。歌詞の面白さに一気に場がくだけた雰囲気になる。その後の、歌もはさみながらの3本『話(小説)――或いは、‘小さな運動場’』(尾形亀之助)、『狂言・木六駄』(現代語訳・岡田利規)、『花野』(川上弘美、構成・永山智行)というリーディングの選択がなにより素晴らしい。理由は二つ。俳優の多田香織をうまく活かす作品を選んでいる、「言葉のおと」が印象に残る作品である、という点である。
多田香織は、「軽さ」を持った俳優である(彼女の演技が軽いという意味ではない)。するりと抜けることで周りがくるんと回転させられたり、ひらりひらりと移ることで深刻さを消し去ったり、失敗も間違いにもどこ吹く風だったり――そんな軽さがある。だからふわふわキラキラした役柄も多いが、それを下地に小悪魔的な役もすっとぼけた役もできると私は思っている。本作の3つの小編は、その彼女の「軽さ」、言い換えれば多田のコメディエンヌ性が活かされていた。
例えば『話(小説)…』では夫(日高)に向かって夫婦のあれこれを語るのだが、妻(多田)が1人であーだこーだと思考を巡らせて、喋って、独り相撲をする。その様子には深刻さがみじんもない。可愛らしくも浅はかにも逆に怖くも見える。『狂言・木六駄』は、太郎冠者役の多田のすっとぼけた感じを見て、実は彼女は狂言の笑いに向いていると驚いた。のびやかで自由で阿呆でとてもいい。『花野』にいたっては、原作の持つ物悲しさを永山が再構成することで「おかしみ」を前面に出したのだが、それがいかにもコメディエンヌ多田の軽さにぴったり。「あ、消えちゃった!」で終わるラストも含めて、永山はうまくアレンジしている。多田の良さを引き出す作品をうまく選んでいる。ただ日高あって多田の軽さが際立っていることも付け加えておきたい。
「言葉のおと」が印象に残るという点も、多田の声によるところが大きい。『話(小説)…』では「夫婦」という言葉をハミングするように「ふーふ」と奏で、言葉が音楽になっている。『木六駄』では牛を追う時に「サセイ ホーセイホーセイ チャウチャウチャウ」と能天気な声をかけるが、もはや耳に心地よい「歌」である。彼女の風を含んだ高い声が、言葉を「音として」聞かせる。言葉を大切にする永山だから、俳優の多田だから、シニフィエに戯れることができているのかもしれない。「歌手ではない俳優が日本語に戯れること」の試みは、ひとまず成功しているのだろう。(ただし、歌そのものを聞かせる演目は個人的には今一つに感じた。多田の声の迫力のなさは歌を選ぶだろうし、日高の声と相性がとてもいいわけではないと思うからだ。)
坂元の安定感のある自在な演奏、日高のリラックスさせる佇まい。本作には自由だが安心できる空気がある。
2024.02.29
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