劇ナビFUKUOKA(福岡)

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劇ナビインタビューNo1 北九州芸術劇場 館長 津村卓さん 第2回(2)

<劇場文化が街に根づく時>

津村 最近は、演劇やダンスいわゆる舞台芸術をツールに使った街の活性化が徐々にやれるようになってきた。それだけのスタッフ力がついてきたということだと思うんです。

商店街と組んで企画をしたり、TOTOさんと組んだり、安川電機さんのスタッフの人にワークショップに来てもらったり、モノレールでお芝居したりと「一緒に街を面白くしましょう」という動きが23年くらい前から始まりました。

津村 何年か一緒にやっていくことで京町銀店街さんは、ご自分たちでやれるようになったんです。昨年ダンスを300人くらいでやったイベントは、京町銀店街さんが主催でやられた。

水上 街にも劇場のノウハウが伝わっているんですね。

津村 劇場を核にどんどん広げていく作業ですよね。地域の企業さんと組んで、どんな面白いことができるか。これから、どう広げていくか。

今までは間接的に観光だったのが、これからは直接的に観光と結びつくためにどういうことができるのか。派手に「何万人を集める」ではなく。「北九州って面白いね」っていう人が50人単位でできるみ企画を考えてくれ、ダンスとか演劇を使ってやって行くことを考えています。

舞台芸術はその力がある。子どもたちの育成にはもちろん、高齢者の方にも障害者の方にも。舞台芸術の役割があるんですけど、街を面白くしていくツールでもある。劇場としては、作られてきたツールを、いい形のものにしてどう提供していくのか、人に街に落としていくのかが一つの仕事だと思います。そういうことを意識してやっていってください、とスタッフにはずーっと言い続けています。それがやっと実ってきたかな。

 

水上 形になってきているということですね。そういう活動が観客のすそ野を広げているんですね。かつては「鉄の街」。そこから次の時代に移ってきている北九州市。劇場の企画によって活力が生まれる。そんな手ごたえはありますか?

津村 手ごたえですか、抽象的な印象でいうと、初めて来た13年前に比べると、笑顔の人が多くなりましたね。街が明るくなったかな、そういう感じは見受けます。「なんか面白そうなことやっているな。何かわからんけど、最近有名人がよく歩いているな。」そういうことが起爆剤になっていけばいいのかな。

 

<クリエイティブ産業が生まれる町に>

津村 一方、仕掛けているんですが、手ごたえがないのは、新しい産業が生まれてきてないことです。第2次産業の衰退してきた中で次の産業は、クリエイティブなサービス産業があると思うんです。特に北九州は物を作ることを知っている町なので、クリエイティブな産業は理解できるはずです。そこに若い人達のクリエイティブな発想を持った産業というものが作れるはずです。そこが10年経ってもまだ出てきていない。ジレンマは感じているんですね。本当ならもっと勇気をもって若い人たちが起業していく。ただ3年くらい前から、魚町銀天街にリノベーションで、若い作家の人たちが集まってきてます。彼らが起爆剤になって劇場と一緒に何かできることを考えましょうと言っています。

水上 劇場だけで考えられることではないですしね。

 ところで、毎年開催されていますが、先日(216日)の「山海塾」の公演、ほぼ満席でしたね。

津村 増えましたよね(笑)

 

<お客様の目が肥えてきたー俳優からの声>

水上 観客と舞台との関係がすごく良くて、終わった後の拍手も暖かい。山海塾のステージって、観客の想像力が求められる、いわゆるハードルは高いですよね。その作品を受け入れて楽しむことのできる人たちがあれだけ集まっている。凄いことじゃないかと思っています。

津村 増えてきましたね、そういう人が。手ごたえを感じます。お客様のことを言うと、凄く目が肥えてこられました。それはわかります。

俳優側からも言われてます。この10年間、大ホールや中劇場に来られる俳優たちから、「いやー、どんどんどんどん目が肥えてきてますよね」っていうことは言われます。何かっていうと、ウケる瞬間の反応が昔に比べて全然変わりました。(笑)ちゃんとウケるところは大阪以上にウケてくれるし。自分たちも手ごたえのある作品の時は凄いカーテンコールをやっていただける。そうでもないときは2回くらいで終わってしまう。(笑)

そこは、ヨイショしてやってないことは凄く良く分かる。お客様の成長って言ったら失礼ですが、見る目が随分変わりましたね、という意見を俳優の人たちからよく聞きます。

舞台に立っている俳優の声なので、正直な手ごたえとして感じます。

 

水上 劇場文化ということでは、とても大事なことだと思います。客席に座って拝見していると、周りに座っているお客さん達の話していることが耳に入ってきます。この劇場で公演される作品への安心感、劇場が企画し紹介している作品への信頼といったことを感じます。また、以前の公演と比較して今度の公演はどうだろう?という期待感のようなものを感じます。そういったことが、繰り返し劇場に足を運びたくなる動機なのかなあ。

お客が来ないと寂しいですし、「劇場に客が付いている」と言っていいんでしょうか。

津村 それは感じます。

水上 私なんか、いつも福岡から来ますが、新幹線で16分。新大阪から新神戸くらいの時間でしょうか?そのくらい近いですよね。でも、こっちに住んでいる人にとっては、そうとう遠いんですよね。

津村 それはね、最初さんざん言われました。(笑)

水上 だいぶ近くなったんじゃないかという気がします。

津村 作品にもよりますが、福岡からのお客様の比率が増えました。後は、大分、広島のお客様が増えましたね。九州新幹線というのは凄いなと思いますけど、熊本、鹿児島のお客様が増えましたね。熊本まで1時間です。北九州以外の率が全体的に増えた。圧倒的に増えたのは福岡の方です。

水上 そうなんですか。

津村 広島のお客様が新幹線代払っても見やすい劇場で観たい。大きなホールで見るよりも、しっかり観たい。そういう意味でお客様の目が肥えたんだと思います。お芝居って面白いよね。自分が困ったときとか精神的に弱った時にいつでも手が届くところに劇場がある。そこに作品が並べられているということは、大きなことを言いますが、きっと自殺者をも減らす。ちっちゃな要素かもわからないけれども一つの要素だと思っています。それが芸術であり文化だと思います。

だから、いつでも手が届くところに芸術というものがある街にしていかないといけないと思います。民間でも公共でも構わないと思いますが、北九州が民間では成り立たないのであれば、公共がやるべきだと思います。

水上 とても羨ましいですね。

 

<アーティスト イン レジデンス>

水上 北九州のいいところは何だと考えますか?どういうメリットがあるでしょう。

津村 地方のメリットとして、劇場の体力は必要ですが、いろんな作品をバランスよくやれることは大きなメリットです。

もうひとつは、これから進めていこうと思っているんですが、アーティストインレジデンスをするためにはすごくいい街だと思います。作品を創っていくために、アーティストがここで活動するにはいいところだと思います。

ただ、地元のアーティストが育っていくためには、サービス業の少なさは課題ではあります。彼ら霞を食って生きているわけではないので、仕事をしないといけない。

水上 生活基盤が要りますからね。

津村 そこの基盤を保証するサービス産業、クリエイティブ産業的なものが弱い都市産業構造になっていると思います。だから、僕らが作っていかないといけないと思っています。

水上 その課題は、次の課題ですね。大きな課題ですけど。地域としてのいいところはありますか。

津村 いわゆる「どこかで見た景色だな、ミニ東京じゃん」みたいなことが全くない。お客様がちゃんと来て、しっかりと舞台を観てくれる。安いお金で美味しいものが食べれるということで、ほとんどの役者さんが行きたいと行ってくれます。よかったんじゃないかな。

 

<これからの北九州芸術劇場>

水上 べたな言い方ですけど、第二の故郷?のような愛着はできましたか。

津村 もちろんあります。1年に半分以上は北九州で暮らす生活が約12年間も過ぎました。本当に住みやすいいいところだと感じています。ただ、劇場に関しては、世代交代をやらないといけない時期に来たなという思いがあります。劇場プロデュースは20年やっては駄目です。そして人は育ってきました。どういうタイミングで引き継ぐか。僕らの世代が考えていかないといけない、そういう時期にきたと思っています。

僕は28歳で初めて大阪で劇場を任された。公共ホールを任されたのが33歳です。そういう年齢のスタッフは北九州にもたくさんいます。ただ、僕らがいますから、そういう年齢の人で大丈夫ですかって言われますけど、僕らは大丈夫だったんですよ(笑)

大丈夫だから、バトンタッチしていかないといけませんね。

僕らが年齢的な引き際になるとその人たちは40代になる。それでは遅いです。

失敗を3年くらい繰り返してプロデューサーになっていくわけですから、のりしろの部分を見とってあげないと、そのためには30代にバトンタッチをしないとダメだと思います。

 

<次の時代のことを考えないといけない>

津村 僕らは公共ホールの第1世代なのです。どう抜けていくかという時期。同じように仕事をしてきた人の中で還暦を超える人も出てきました。「そろそろだよね。」っていう話をしています。

この劇場のスタッフはいい人たちばかりです。課題はいっぱいありますよ。でも総合的に見て、すごくいい劇場、表現者が安心して公演を打てるし、貸し館の人も安心して舞台を使う。客観的に見ても、いい劇場になったなぁと思います。劇場を使う人、見る人の両方からの声を聞いてもそう言っていただけるので。

水上 ハードもソフトも含めて良いということでしょうね。展望を一言お願いしていいですか。これからの構想を。

 

<地域と向き合う10年に>

津村 今までは、全国的なポジションとしてどう成立させていくのか、地域を見ながら進めてきました。国内外の素晴らしいアーティストの人たちがこの劇場に来てくれるようになりました。そのことで劇場としての成立はしたと思います。全国的に。

これから先の10年は、これまで行ってきたことを継続またレベルアップしながら続けることはもちろんのこと、それと併せて地域の伝統芸能や、地域で継承されてきたものとどう向き合っていくか、ということですね。いわば地域の記憶と新しい共感を共有していく作業を次の10年間に行う。全国に発信する10年間はやれたと思っています。次は地域とどう向き合って地域の劇場として成立させていくのかということをやる10年間になります。

そうして、20年目に理想的な公共劇場が生まれると思っています。

地方の公共劇場として、理想的なバランスが取れた、「これが公共劇場の役割なんです」ということがいえる劇場づくりを目指していくつもりです。

 

水上 地域にあるからこそ、存在意義がある。

津村 その地域にどういう意味で存在しているか、言葉で言えないとだめです。理想論は言えるけど、なかなかそうはならない。次の10年をきちんとできれば、言葉として、市民の方々に実績をもとにお伝えできると思います。

そこで何を生むかというのは、後は役所の仕事です。

そのことが20年間、劇場に投資してきた結果が生まれる時だと思っています。

 

<クリエイティブシティのモデルに>

水上 クエイティブシティということが世界的に言われています。そういうことを起こしながら地域産業が生まれていく。日本にとってもこれからの領域ですね。

津村 ここは、ヨーロッパ型概念のクリエイティブシティで、日本で一番モデルになる地域ですよ。ヨーロッパ型はほとんど2次産業がダメになってアートを核に街を再生したわけですから。

北九州がちゃんとできれば、明らかにヨーロッパを手本とした日本型のクリエイティブシティが作れるはずです。

ところが、創造都市のことをよくわかっとらんかったのです(笑)。話したら、「詳しく意味を知らなかった」と言われましたから(笑)。

 

水上 最初にお聞きした、扇町でやられたこととクリエイティブシティのこと、とても共通していますね。

津村 たまたまやりたいなと思ったことだったんですけど、2030年経つ中で、リノベーションも含めて、「時代が来たな」という気がしています。

大阪ガスは、扇町ミュージアムスクエアのツールをそうとう利用しました。民間企業ですから、投資した分の何十倍も返る位の利用をしたんじゃあないでしょうかねぇ()

 

<納税者にお返しする計画を>

水上 行政も劇場に税金を投入されていますからね。

津村 劇場や美術館などで生まれてきたモノをツールに変換し、どう上手に地域に使っていくのか、というのは役所のマネージメントです。

税金をお預かりして、投資するんだったら。何年先になるか分からないけれども、必ず見返り、いわゆるアウトカムがあるっていう風にしていかないとダメだと思いますね。

トータルとして、投資した分をどういう形と内容で、納税者にお返しするかの計画を立てないといけないと思います。

 

水上 それでは、これからの北九州芸術劇場に注目していきたいと思います。ありがとうございました。

津村 ありがとうございました。

 

津村さんとの話は1時間40分にもおよびました。とても興味深いお話で、時間を忘れる程でした。予定枚数を超えるページ数になりましたが、全文ご紹介しました。

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

『NODAマップ』の話題作や世界的な演出家ピーター・ブルックの作品など、九州で唯一の招聘を行いながら、オリジナル作品のプロデュースも継続的に行っている。「北九州芸術劇場のブランド化」の10年でスタッフ力を蓄積してきた自負を感じました。同時に、これからの10年を見据えて、公共ホールの理想の姿を描いているところに、頼もしさを覚えました。1回目でご紹介した「扇町ミュージックスクエア」を企画したやんちゃでしたたかな若者の顔も垣間見えました。

九州で全国に通用するレベルの演劇を制作するためには、やはり、東京の人材やノウハウが必要だし、それをコーディネイトするプロデューサーの力が必要、ということを改めて感じさせてくれました。自分たちの世代で何を残し、次の世代に何を渡していくのか、先を見通す力も必要だな、と感じたインタビューでした。津村さん、ますますご活躍を。

取材:水上徹也(シアターネットプロジェクト代表)

2014.04.07

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劇ナビ インタビューNo1 北九州芸術劇場 館長 津村卓さん 第2回(1)

<コンセプトは「観る・創る・育つ」三つのミッションにチャレンジ>

水上 さて、お話は北九州芸術劇場に移ります。劇場は2003年にオープンしました。

津村 オープンの2年前から関わりました。キャパ数も決まっていました。基本設計は終わって、実施設計がはじまっていたころです。本来なら設計になかなか口を挟めないですけど、そうとう挟ませてもらいました。(笑)これじゃあ、市長が言われている演劇専用ホールが成立しないですよ。複合施設としてのデメリットを克服するにはどうしたらいいですよ、等々です。

一番大きく変わったのは小劇場ですね。ここが一番メインになるから、なんとか変えてほしいと提言しました。

市長から言われていたミッションをふまえたうえで、どうコンセプトをつくっていくのかがオープン前の時期です。「観る・創る・育つ」というコンセプトです。

正直自信なかったです。3つの大きな車輪を同時に動かすって、これはちょっと無理でしょ、って思ってました。それも北九州で。演劇という文化はあったんですけど、劇場という文化はなかった。すごく大変だったですね。精神的にも怖かった。おまけに福岡の知人から北九州ではチケット売れないでしょ、って相当脅されていましたので。どうなるんやと思いましたね。

 

津村 うちのスタッフに聞くとオープン1年目の記憶がないというんですね。(笑)僕も正直あんまりないです。記憶ほとんど皆無ですというスタッフもいました。毎日がすごいスピードで過ぎていく、あまりの忙しさに。

三つの車輪を同時に動かすというのがそもそも無理で、財団法人地域創造で全国の劇場を見せてもらっているという仕事柄、この車輪を同じだけの荷重で同時に動かしたのは、きっと日本で最初ではないかなって思います。。そこは自負しています。

 

<レパートリーは日本では劇場はできない>

水上 「創る・観る・育つ」三つ全部聞きたいですが、僕は核になるのは、「創る」ことだと。また北九州のような地域にとっては、劇場に足を運ぶという文化をどうやって作るか、だと思うんです。

津村 創ることに関しては、僕もタッチしてきましたが、能祖 將夫さんにプロデューサーをお願いしています。

全国に打って出る作品と、地元できちんと作る作品、このふたつはきちっとやっていきましょうということですね。日本はレパートリーシステムとしての著作権が海外とは違うんです。契約をきちっとしない限り劇場は著作権が持てない形になっているんです。だから、レパートリー化はすごく難しいですね。プロデュース作品を作った場合、プロデュースをした劇場が最も権利を持てない法的システムになっているので、なかなか難しい。

クオリティの高い作品をこの劇場の財産として貯めていく。そのことをやろうと思うと、全国のアーティストの協力が必要ですし、向き合わないといけない問題がいくつも出てきます。「北九州芸術劇場が九州にできましたよ。これだけのクオリティのものを担保しますよ。レパートリーとして持っていきます。」そういうことを言えることは、この世界ではすごく大きな仕事なんです。

水上 そのとおりですね。

 

津村 ということで創造事業は、劇場としての財産を作っていこう、そのことが一つ。もう一つは、優秀な演出家に北九州にレジデンスしてもらったり、地元の作演出家も含めて、地元で作品を作っていく、二つのベクトルを持って「創る」ことをこの劇場で具現化していく。劇場って、そのことができなければ、「観る」ということにも「育つ」ということにもベクトルが波及していかないんですね。そのことはきちっとやっていこうということです。

 

津村 三つの要素の順番ではないですが、水上さんが言われた通り、「創る」ということは、事業の中の中心的な核ではある、と思います。プログラムでは、僕も何作かは創りましたが、今のプロデュース公演は能祖さんにお任せしています。役割分担では、鑑賞事業=「観る」ということを僕が責任を取っています。1年間やると、なかなか「創る」ことにタッチできないんです。

また、プロデュース公演をすると、「育つ」ということにも関わります。

「観る」と「育つ」は僕が中心に回し、「創る」は能祖 將夫さん。そして館長として劇場の経営は僕が責任を取る、そういう形で二人でやらせていただいています。

 

<地方のメリット>

津村 一方で、一般の方からの視線でいうと観ることも核にしていかないといけない。

劇場にお客さんを集める、劇場を認知してもらうには、強い作品を、皆さんが観たいと思っていただいている作品を持ってきてこそ、なので、それを吟味しましたね。

どういうバランスで、大ホール・中劇場・小劇場の作品をブッキングするか。番組を構成していくか。そうとう考え話し合いました。

手前味噌ですが、外から見てバランスが取れている演目になっているんじゃないかと思っています。東京だとこのバランスが取れないんですよ。

地方のメリットを最大限生かしていると思います。

北九州芸術劇場ってどういう劇場ですか?って質問されたら、「演劇を核にした公共劇場としてはそうとうバランスのとれた劇場」だと言えますね。

注目を集める作品をすべて公演するのは難しいですが、今一番旬なもので大中小の劇場にあわせた演目を散りばめることができるのは、じつは地方の劇場のメリットではあるんですよね。

 

津村 大ホール演劇は佐藤君(佐藤和久:開館時の広報宣伝課の課長・劇ナビ開設にも関わりながら2010年に癌のため逝去)がホリプロにいたことが幸いしました。。毎年シェークスピア作品を中心にした蜷川作品は、彩の国さいたま芸術劇場とホリプロが作品創りを行っているのですが、蜷川幸雄さんに杮落し公演のひとつをお願いし、来ていただいたのですが、その時に蜷川さんが、劇場を惚れて頂けたのが大きかったですね。

 

<スタッフ力を育てる>

水上 演出家が、劇場を気に入ったんですね。自分の作品を表現する場所として。

津村 大きなカンパニーのもの、テクニカル的にも制作的にも劇場が力を持っていないとこなせないものを具現化するのは、スタッフ力を上げないとできない(もちろん、小劇場が簡単であるとは言いませんが)。まず、スタッフ力をどうアップさせていくか。そのことから始まりましたね。

5年目には、地方の劇場として、主要なカンパニーが安心して来られる劇場のトップになったと思います。

今は、全国にツアーを回られている団体も、「北九州芸術劇場に着いたらホッとする」と言っていただいています。創ることと観ることのなかで、多くのアーティストと向き合い作品を創るという力を全スタッフが持っている。経験の積み上げが生んだ結果だろうなと思いますね。そうやってスタッフも育てる。アーティストも育てる。観客も一緒に育っていただくという仕掛けはしています。そこから波及して、子どもたちの育成のため、障碍者の社会参加のため、というカリキュラムを組んでいける状態になったのは、全体が一つになれているからだろうと思っています。

 

水上 とても大切なことですね。

津村 広報がやってくれている情報の発信がベースになっているんですが、関わってくれた表現者側、演出家や俳優、スタッフがみなさん、口コミで広めて言ってくれている。

3つの車輪をなんとか転がせたと思います。今、順調に回っている。そのことが評価されて、文化庁の特別支援劇場に採択されました。

 

<文化庁特別支援劇場(※)として>

津村 九州・中国・四国地方で、文化庁の特別支援劇場に採択されたのは北九州芸術劇場だけです。北九州の事業と運営がこれから地方の劇場のサンプルにされるようになれば嬉しいですね。

 

※「劇場、音楽堂の活性化に関する法律」(劇場法)の制定に伴い、今年度実施する補助事業「劇場・音楽堂等活性化事業」。この中の「特別支援事業」として全国トップレベルの15の劇場・音楽堂が採択された。5年間、支援を受けて様々な事業を行う。」

 

水上 全国で15劇場が採用されて、そのエリアで北九州の1か所ですか。

津村 首都圏に固まっていますね。

 ※採択された劇場と地域:関東⑦(さいたま芸術劇場・世田谷パブリックシアター・東京芸術劇場・サントリーホール・神奈川芸術劇場・ミューザ川崎・水戸芸術館)、中部④(静岡県舞台芸術センター・新潟市民芸術文化会館・石川県立音楽堂・可児市文化創造センター)、近畿③(びわ湖ホール・兵庫県立芸術文化センター・兵庫県ピッコロシアター)、九州①(北九州芸術劇場)

 

水上 責任重大ですね。

津村 責任重大で重たいです。(笑)

 

<九州でのネットワークは次の課題>

水上 拠点劇場の話も出ましたが、ネットワークのことをお聞きします。

全国でもいくつかの劇場と提携され、作品のクオリティを担保に、北九州芸術劇場のブランド化を図られてきたと思います。

津村 作品のクオリティを保つこと。「ルル」「ファウスト」「地獄八景」「錦鯉」等、全国の劇場を回ることで、ブランディングの戦略はくみました。「北九州芸術劇場プロデュース」として、全国へ発信しようと北海道から仙台、東京、長野県の松本、名古屋、大阪、岡山、広島などで公演しました。。

 

水上 九州のエリアの劇場とのネットワークは考えていらっしゃいますか?

津村 次の課題だろうと思っています。ただ、何を持ってネットワークというのか。

作品を回せばいいんでしょ、といった印象が昔はあった。でも、実は作品を回すというだけでネットワークはできないです。

それぞれの劇場のスタッフがきちっとわかりあい、作品だけではなくて、劇場の環境も含めた形でどうやって結びついていくのかがないと本当の意味のネットワークとは言えないんじゃないでしょうか。

津村 もちろん作品を回していく意思はあります。売り買いで終わっているのではネットワークにならない。どういうネットワークを構築していくか考えている最中です。

ただ、責任ある立場の劇場にはなりましたので、いろんな劇場からの相談や研修は受け入れています。

 

<研修制度や劇場間サポート制度>

水上 どんな研修制度があるんですか?

津村 研修事業を年1回、テクニカル系と制作系で開いています。九州中国四国エリアに情報発信してホールの方だったらどなたでも受けれる研修会を毎年やっています。

その他、オープン前の劇場のスタッフが研修を目的に何か月か入る、受け入れ態勢もあります。

作品を制作していく場合や海外作品の初演などは、うちで最初に作品を立ち上げる。そうすると、スタッフが長時間付きますね。最初の段階でいろいろと調整が必要ですから。そのスタッフが次のホールまで行ってちゃんとテクニカル的なサポートやスタッフが少ないホールに対して公演を制作するサポートといったことも行ったことがあります。今後、どういうネットワークが考えられるのか、ネットワークの意味をお互いがどう理解して組んでいくのか、考えていこうと思っています。

 

<二つのパターンのネットワーク>

津村 ネットワークには、二つパターンがあると思います。

一つは「予算が少ない。スタッフも少ない。でも事業をやりたい」劇場に対して、我々が何らかの協力をやれるネットワーク。もう一つは、同じレベルの劇場同士が組んでいく、という二つのパターンがあると思っています。

 

津村 今までも、埼玉や世田谷等と組ませていただいた。これまでも作品を協力して成立させていくネットワークはやって行かないといけないと思いますが難しいです、ネットワークは。作品だけが中心になっちゃうと劇場間のネッワークというのが、なにを目的にしているのかが見えなくなってしまいます。そういう意味でも劇場同士が多様な考え方をしていかないといけないと思います。

 

<オリジナル作品の共同制作>

津村 作品を制作するとき、共同制作と言う形で制作する場合があります。お互いがスタッフを出し合い、同等の予算を出し合いというところまで創れればいいんですけど、なかなかそこは難しいですね。どうしても、そのようなレベルのものを創ろうとなると現場が東京になりますから。

特に役者をそろえようと思うと、東京を稽古場の中心にしないとどれだけ経費があっても足らないですね。そうなっていくと、東京が中心になっていきますので、うまくお互いの考えが合致しない。どうしても東京の劇場が作品を創ってくれて、こちらが公演の仕方を考えるという話になります。

水上 そうか、そういうことですね。

 

津村 リリー・フランキーさんの「東京タワーオカンとボクと、時々、オトン」という作品を共同製作しましたが、稽古は東京でやるしかないんですよ。あれだけの役者さん達をこちらに連れて来て稽古を積むなんて、無理です。その代わり、加賀まりこさんがこちらに来て、リリー・フランキーさんが住んでいた地域の取材をするときには、うちの劇場が全面的に協力をして、ある種の役割分担をしていました。

それから、北九州で初演を開けることにしました。初演を開けるというのは、準備に日程がかかる。そこをうちが受け取りましょう。そういう形ですね。

役割分担をどうしていくかということにはなっていくと思うんです。

 

水上 東京は突出していますからね。そんな中、北九州は率先して創ってこられましたが、九州というエリアでオリジナル作品を創造していく可能性はあると思いますけど。

津村 うちの劇場だけ良ければいいとは、どのスタッフも考えていないので、いろんな劇場から、相談があれば、必ず応えていこうと思っています。逆にうちから提案をさせていただいたり、協力依頼をすることもあります。

九州圏内で何かを一緒にやっていければいいなとは思っています。


以下(2)に続く

 

 

2014.04.07

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劇ナビ インタビュー No1 北九州芸術劇場 館長 津村卓さん

劇ナビは、2007年に福岡県内の劇場の連携で、「相互に観客を広げていこう。劇場文化を育てよう」という目的で、情報を発信する媒体としてスタートしました。

一方で、劇ナビ事務局(シアターネットプロジェクト)では、情報の元となる「公演」そのものの招聘企画や、「作品」の制作にも携わってきました。

福岡の地域から全国に発信できる演劇作品の創造とその環境づくりのお手伝いをすることが、劇ナビ事務局の役割だと考えています。

福岡という地域で、劇場の最前線で演劇のプロデュースに携わっているみなさんに、これまでの成果やこれからの課題を取材して、福岡の劇場文化の未来像を探っていきます。そして、芸術文化が社会にどのような責任を果たしていくのか、考えてみたいと思います。

 

トップバッターには、今年で開設10年を迎えた北九州芸術劇場の館長・チーフプロデューサーの、津村卓さんにご登場してもらいました。

お話が多岐にわたり興味深く、取材時間が予定を大幅に越えてしまいました。2回に分けて、ご紹介します。

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まず、1回目は、北九州と出会う前の時代編です。

 

<扇町ミュージックスクエアという文化型リノベーション装置をプロデュース>

水上 まず、人となりからお聞きしたいと思います。この世界に入ったきっかけは?

津村 僕が仕事として演劇と初めて向き合ったのは、大阪の情報誌「プレイガイドジャーナル」です。日本で最初に情報誌を作った雑誌社で、ぴあよりも何年か早かったと思います。そのあとフリーで企画の仕事をしていました。

そんなとき、大阪ガスから「古い建物の遊休地利用をやりたい」という話が持ち上がりました。その時に、「扇町ミュージアムスクエア」という施設を企画して採用されたんです。

倉庫を改装した小劇場と、事務所を改装したスーベニールというアート系の雑貨販売、ギャラリー(後にミニシアターになる)、ショールームを改装したレストラン。4階建ての劇場の2階に、劇団新感線と南河内万歳一座の稽古場をつくり、オフィスには大阪ぴあを誘致した。何の変哲もない大阪ガスの古い建物を若い人たちが楽しめる遊び場にしました。今はやりのリノベーションのはしりだったですね。オープンしたのは1984年でした。

その劇場をプロデュースするというのが劇場を本格的にプロデュースする最初でした。

 

水上 あの「扇町ミュージアムスクエア」の立ち上げの責任者だったのですか?

津村 大阪ガスの方も来られていたので、僕は副支配人兼プロデューサーでしたが、ひとつひとつ全部自分で企画させていただいて、若い子たちを集めてスタートしました。

忙しさで、1年でボロボロになりました。(笑)

28歳の時です。27歳の時に企画書を持ち込んで、リノベーションの形になってからは最終的に僕の企画が残り、やらせてもらった。ホントに手作りですよね。

南河内も新感線もまだ大学出て2年目くらいですね。ちゃんとした稽古場も持たず、転々と稽古場を探していた時です。ちょうど30年前です。

 

津村 誰もマユツバで、「こんなのできるわけないやろ」みたいな感じだったんですけども、そのレストランも2年目以降は1億円以上の売り上げをあげ、スーベニールというアート系の当時大阪には売っていない、東京の一部しか取り扱わないというものを探しに行って、販売をしていました。グッズですから大したことないと思っていましたが売り上げとしては1億近くまでいったんじゃないですかねぇ。

施設全体としては十分運営できる状態でした。家賃収入も入りますし。

 

水上 劇場経営のスタートですね。

津村 そこで全体をまとめた経営というものを学ばさせて頂いた。芝居と向き合い、ひょっとしたら、これ、一生の仕事になるんじゃないかなあって、感じる瞬間がありました。

 

水上 その施設に劇団を入れようと思ったのは?

津村 井上君(いのうえ ひでのり:劇団☆新感線 主宰)も内藤君(内藤裕敬:南河内万歳一座 座長)も大学の後輩なんです。(笑)でも、繋がりがあったからということではなく、彼らよりももっとお客さんを集めている劇団もありましたけども、いろんなお芝居を見させていただく中でこの2劇団がこれから絶対に大阪の演劇界を席巻するであろうし、東京に進出していくことは間違いないなと確信していました。「一緒に育っていこうよ」って。

 

<若い人たちに面白いことを提案する施設>

水上 アーティスティックな施設の核に劇場を入れるという発想は何処から?

津村 劇場とアートギャラリーとミニシアターが核ですね。

当時、文化的というと大げさかな、直接的に若い人たちが楽しんでいない、若い連中に「こんな面白いもんあるよ」っていうことを伝えたいことが先にありました。

それに関連して、こんな面白い遊びやろうよっていう提案ですね。その中にレストランがありまして、レストランをショーケースにしよう。全面ガラス張りの処にレストランを作った。当時、レストランというのは見えては駄目だったんですよ。逆に、全部見せよう、中を。シースルーのはしりでした。それ以降そういうものが増えたって、専門の方に言われました。シースルーにしたかったわけではなくて、遊びの中にシースルーっていう気持ちはあったんですけども、お金がなかったので、せざるを得なかったですね。(笑)

劇場を中心にした施設なので、ご飯を食べたりコーヒーを飲んでるのを外から見るのも一種の演劇、中が見える方が面白い、というコンセプトにした。それが大ヒットしました。テレビの番組に使われたり、ファッションショーが開かれたりとか、いろんなことに使っていただいた。

 

<レストランが即興のコンサート会場に>

 

津村 レストランの経営をお願いしていた方が舞台のテクニカルの会社の方で、フェスティバルホールとか近鉄劇場とかの仕事もされていたんですね。

面白かったのはフェスティバルや近鉄劇場、もちろんこの施設の劇場でコンサートや公演が終わった人が扇町へ来る。客席が80席くらいあったんですけどほぼ全員が顔がわかる人ばかり。久しぶりに会う人たちじゃないですか、役者とかミュージシャンとか。そうするとピアノを置いていたので、夜中に即興のコンサートが始まったりしましたね。レストランの中にいる人よりも外でそれを見ている人の数のほうが多かった(笑)。彼らもそれを面白がって、盛り上がる。そのころはそれ自体が珍しい。そういう意味では、核になった。

そこ全体をプロデュースすることがこの世界の入り口だったです。

 

水上 何年くらいされたんですか?

津村 準備に2年、オープンしてから4年で辞めました。

あえて辞めました。次の若い子にバトンタッチしていくこと。劇場のことをフォーラムって言っていましたが、ミュージアムスクエアというものと津村というものが、僕の中でうまくバランスが取れなくなって、自分が前に出て行くのはダメダメ、って。あくまで施設を前に出していかないといけない。

 

 

<伊丹AIホールで全国初の民間プロデューサー>

 

津村 そのあと、兵庫県の伊丹市から相談に乗ってくれ、と正式にオファーがあって、そこで、人生初の公共ホールの経験が始まるんですね。

びっくりしました。公共ホールに行って、こんなに民間とは違うものだなと。


水上 おいくつの時でしたか?

津村 32歳の時に、任せると市長に言われ、それが伊丹市立演劇ホール。愛称がAIホールというところだったんです。公共ホールなんですけど、市長に任せるといわれたので、直営館だったんですが結構自由にやらせてもらいましたね。法律は守らないといけませんし、市としての無茶なことはできない。でも、伊丹では、規制の中では何をやっても構わないと言われたので、じゃあ、ということで引き受けさせてもらいました。

水戸芸術館が1990年にオープンして、日本初の公共の芸術監督制度をひいたんですけど、AIホールは1988年にオープンしていますので、日本でもとても早い民間のプロデューサー制度だったですね。ましてやそれを32歳の若造に任せたというのは、いまだに市長って勇気あったなって思っていますね。


水上 その時の役職は?

津村 プロデューサーです。職員にはならなかった。契約という形です。そのやりかたも日本では珍しかったと思います。

小劇場なので、すごく自由にやらせてもらいました。ボックスホールで自由に組める、300席くらいかな。19メートル四方の正方形です。

小劇場のなかで、数年で、「扇町かAIホールか」といわれるまでになりました。

言えないこといっぱいしましたよ。僕ともう一人以外は全部市の職員です。何も失うものはない僕の責任でやりますから、というのがものすごく多かったですね。

 

 

<全国の劇場建設のお手伝い 「建設計画をやめろ」と提言>

津村 それから、当時の自治省の外郭団体で、全国の文化施設の支援をさせて頂くという財団法人地域創造に行って、いくつかの劇場の立ち上げに関わりました。企画委員会から始まってオープンするまでですね。地域創造は現在もプロデューサーとして関わっています。

その中で、実際に運営にかかわったのは、びわ湖ホールです。

急にどでかいホールの運営になりました。4面舞台の本格的なオペラができるホールと900の演劇・ダンスをメインにした中ホール、そして音楽専用の小ホール。そこを3年間、起動に乗るまでプロデューサーをさせて頂きました。

 

水上 まるで、立ち上げ仕掛け人ですね。

津村 仕掛け人かどうかわかりませんが、立ち上げは一杯やりましたね。

委員会で議論してて、これは駄目だとわかったら、「造るな」、ばっかり言っていましたね。

わかっていないんです。たとえば50億かかって1500席と400席くらいのホールと稽古場を持ったホールを造ったら、どのくらいのランニングコストがかかるかということが全然わからないんですよ。

なおかつ、どんな劇場にしたいのかっていうコンセプトがない。貸館オンリーならいくら、自主事業をやりたいとなるといくら、ましてや作品を創りたいとなるとこれだけ掛かりますよという、計算が成り立っていない。毎年数億円が必要になります。なおかつ、10年か15年たったら大規模修繕がでてくる。そこには「何十億かかかりますよ」って言ったら、びっくりする。でも、行政として計画をスタートしているので、余程のことがない限り、造ってしまう。その後えらいことになったホールはいっぱいあります、

全国に。目的やミッションが不明確で、なおかつ10年・20年先までを見据えていないことがわかった瞬間に、「造るな、造るな」って必死で抵抗しましたね。造ったら、あなたたちはいいかもわからないけど、20年先の職員は泣きを見ますよ。って、よく言いましたね。

 

<北九州は「文化は街の核」という覚悟があった>

津村 北九州芸術劇場も、そうとうの予算がかかりますよ、と言いました。でも、当時の市長のコンセプトがはっきりしていて、北九州という街をどう作っていくのかというビジョンの中に、文化というのは大きな核としてある。劇場を造るということに関しては、覚悟というか、目的とミッションを明確に持ち、そして理解をされてスタートしていただいたので、我々スタッフも目標を持って進めたことが大きかったと思います。

建物を創ったらそれで終わりという人、結構多くいらっしゃいますので。公共建設物は一生壊れないと思っている人がいたりしますからね。だって、家だって改築するでしょう?

 

<公共ホールの転換期>

水上 80年代後半から90年代、従来の市民会館型から事業を行う財団形式の劇場が建設されていったころですね。まさに移行期、その移行を推進する役割だった?

津村 AIホールに関わったころ、文化財団が生まれていく、一部のホールで自主事業をという形が生まれてきた、ちょうどそのころですね。

小劇場だけをとりあげてやっていくのは、全国でも珍しかったですね。32歳の人間にそれも民間の人間にプロデューサーを任せるというのは珍しかっただろうな。僕も伊丹で勉強させていただきました。のちのち、お互い理解しあえるベースになった。行政の論理っていうのは否定される方もいらっしゃるのですけども、よくみていくと、凄くよくできたスキームなんですね。これを使わん手はないと思いました。いわゆる舞台芸術の論理というか、芸術家の持っている自由な発想と相反するところがあるんですけど、芸術側のルールと役所側のルールのいいところを混ぜ合わせれば、きっとお互いが理解しあえるルールが作れるんじゃないかということは、勉強になりました。すぐに実践することはできなかったですけど。

 

津村 公共の劇場が事業を前向きに進めていくだろうな。という感触はすごくありました。

そのなかに、アート系が社会にとってどんな責任を取っていくのか、ということもすごく感じました。いち早く、ワークショップ系、研修系のものをAIホールには入れました。

演劇とかコンテンポラリーダンスがどう社会に向き合って、社会に対して何を提出していけるのか。公共ホールはどういう事業を組み立てていかないといけないか、

主は、いい作品を提供することですが、演劇やダンスが持っている力をどういうふうに社会に提供していけるか、俳優になりたい人だけのためのワークショップではなくて、もっと違う角度でワークショップをしていけるんじゃないか。AIホールの時代にさんざんいいましたね。

そういう流れが来ている時に、北九州を責任者としてやらせていただけた。ありがたかった。貯めてきたことを実践できる場として。

 

水上 魅力的な話で、長時間お話ししてくださいました。ありがとうございました。


時には刺激的な言葉も出てきましたが、第1回目は、ここまで。

次回は、いよいよ、北九州芸術劇場の話です。お楽しみに。

取材:水上徹也(シアターネットプロジェクト代表)

2014.03.31

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二月博多座大歌舞伎

2014年年明けの観劇記録です。

ブログを覗くと、2013年は1本も書いてなくて、みなさんから叱咤激励をいただきました。

今年も2月の中盤に入り、このままでは、あっという間に大晦日に、、、とは大げさですが、忘れられてしまわないうちに、最近の舞台をご紹介します。

新春恒例の博多座大歌舞伎。

今年の演目は、昼の部が、『御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)』、『二人椀久(ににんわんきゅう)』、『封印切(ふういんきり)』の三本。

夜の部が、『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』、『奴道成寺(やっこどうじょうじ)』、『土屋主悦(つちやちから)』、という演目です。

 

実は今年は、博多座が開場して15年という。 ロビーには過去の作品がずらりと並んでいました。

hakataza15.jpg

160本あまりの演目が並んだ様子は壮観です。歌舞伎・ミュージカル・演劇などなど、懐かしい作品がずらり。

記念する第1作は、『杮葺落大歌舞伎』。

kabuki1999.jpg

懐かしい役者が揃って、さすが杮落し公演にふさわしい顔ぶれでした。

この時の演目に、団十郎の『勧進帳』と鴈治郎の『娘道成寺』が入っています。

そのお二人の演じた弁慶と白拍子(実は今回の演目では狂言師)を、今年の舞台では、橋之助が軽やかに演じていました。

『御摂勧進帳』、『奴道成寺』とも、いわゆるご存知の作品とは別物ですが、ちがう趣があり、見比べると歌舞伎の楽しさが広がる。

昨年は団十郎が鬼籍に入り、橋之助の義兄にあたる勘三郎が一昨年に亡くなった。これからの歌舞伎界を背負う責任も大きいと思われるが、期待にこたえる大きな芝居でした。

また、翫雀と扇雀も大活躍。

『封印切』での恋しあう二人の駆け引きはなんとも色気があって可愛らしく、『傾城反魂香』の夫婦ではしっかりものの女房と絵師に生きる亭主という、全く違う役です。歌舞伎ならではの表現が、役の個性を一層際立たせていますが、演技力がないとできるものではない。

夜の部最後の『土屋主悦』は、忠臣蔵外伝の作品で、赤穂浪士の大高源吾の逸話をもとにした作品。

1月の歌舞伎座で、『松浦の太鼓』という作品が上演されていましたが、同じ大高源吾の話でも、設定が少し異なって、登場人物や配役が変わって描かれている。偶然、二つの作品に巡り合ったが、見比べられて幸せでした。

2014.02.11

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青年劇場 『キュリー・キュリー』

僕はキュリー夫人のことは、実を言うとあまり知らない。

「中学校の教科書に載っていた。偉人伝の人気も高い。ラジウムを発見した女性初のノーベル賞受賞者。たしか日本にも来日し、多くの名言を残している。  だけど、、、、、、あまりに偉人といわれると敬遠してしまう。」

 

この作品は、そんな人にお勧めの作品。

(11月3日 ももちパレス)

 

マリーとピエール・キュリー夫妻、その出会いからラジウム発見までを舞台化したものだが、二人のやり取りをまじめに見ていては味気ない。

「そんなに献身的に実験室で頑張らなくても」と言うピエールに、

「自己犠牲?私が実験室にこもるのは、自分の悦びのため。快感ね。」

と言い放つシーンが印象的だった。

 

実は、ドラマは、乳母の口を通して語られる。母マリーの姿を、娘が聴きながら進行していく。

実験に明け暮れ、構ってもらえなかったこと、自分は科学ではなくピアニストとしての道を選んだこと、ホントの気持ちを伝えられない悩み。

その娘が、母の真実を知るまでの物語でもある。

 

母(キュリー夫人)は、社会のため、名誉のため、に困難と闘ったのではなく、ほんとうに科学が好きだった。好きなことをやり遂げて、成功した。

ラジウムの実験に成功し、夫妻が興奮して喜びあったとき、マリーは夫に言った。

「最初にすることは、愛し合うことよ。さあ服を脱いで!」

 

自分に素直に生きる、その生き方が、子どもに伝わった時、母子が理解しあえた。

女性は逞しい! そして、この時代(1890年代)に、その生き方を貫いたマリー・キュリーに、人間としての興味がわいた。

2012.11.28

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