劇ナビは、2007年に福岡県内の劇場の連携で、「相互に観客を広げていこう。劇場文化を育てよう」という目的で、情報を発信する媒体としてスタートしました。
一方で、劇ナビ事務局(シアターネットプロジェクト)では、情報の元となる「公演」そのものの招聘企画や、「作品」の制作にも携わってきました。
福岡の地域から全国に発信できる演劇作品の創造とその環境づくりのお手伝いをすることが、劇ナビ事務局の役割だと考えています。
福岡という地域で、劇場の最前線で演劇のプロデュースに携わっているみなさんに、これまでの成果やこれからの課題を取材して、福岡の劇場文化の未来像を探っていきます。そして、芸術文化が社会にどのような責任を果たしていくのか、考えてみたいと思います。
トップバッターには、今年で開設10年を迎えた北九州芸術劇場の館長・チーフプロデューサーの、津村卓さんにご登場してもらいました。
お話が多岐にわたり興味深く、取材時間が予定を大幅に越えてしまいました。2回に分けて、ご紹介します。
まず、1回目は、北九州と出会う前の時代編です。
<扇町ミュージックスクエアという文化型リノベーション装置をプロデュース>
水上 まず、人となりからお聞きしたいと思います。この世界に入ったきっかけは?
津村 僕が仕事として演劇と初めて向き合ったのは、大阪の情報誌「プレイガイドジャーナル」です。日本で最初に情報誌を作った雑誌社で、ぴあよりも何年か早かったと思います。そのあとフリーで企画の仕事をしていました。
そんなとき、大阪ガスから「古い建物の遊休地利用をやりたい」という話が持ち上がりました。その時に、「扇町ミュージアムスクエア」という施設を企画して採用されたんです。
倉庫を改装した小劇場と、事務所を改装したスーベニールというアート系の雑貨販売、ギャラリー(後にミニシアターになる)、ショールームを改装したレストラン。4階建ての劇場の2階に、劇団新感線と南河内万歳一座の稽古場をつくり、オフィスには大阪ぴあを誘致した。何の変哲もない大阪ガスの古い建物を若い人たちが楽しめる遊び場にしました。今はやりのリノベーションのはしりだったですね。オープンしたのは1984年でした。
その劇場をプロデュースするというのが劇場を本格的にプロデュースする最初でした。
水上 あの「扇町ミュージアムスクエア」の立ち上げの責任者だったのですか?
津村 大阪ガスの方も来られていたので、僕は副支配人兼プロデューサーでしたが、ひとつひとつ全部自分で企画させていただいて、若い子たちを集めてスタートしました。
忙しさで、1年でボロボロになりました。(笑)
28歳の時です。27歳の時に企画書を持ち込んで、リノベーションの形になってからは最終的に僕の企画が残り、やらせてもらった。ホントに手作りですよね。
南河内も新感線もまだ大学出て2年目くらいですね。ちゃんとした稽古場も持たず、転々と稽古場を探していた時です。ちょうど30年前です。
津村 誰もマユツバで、「こんなのできるわけないやろ」みたいな感じだったんですけども、そのレストランも2年目以降は1億円以上の売り上げをあげ、スーベニールというアート系の当時大阪には売っていない、東京の一部しか取り扱わないというものを探しに行って、販売をしていました。グッズですから大したことないと思っていましたが売り上げとしては1億近くまでいったんじゃないですかねぇ。
施設全体としては十分運営できる状態でした。家賃収入も入りますし。
水上 劇場経営のスタートですね。
津村 そこで全体をまとめた経営というものを学ばさせて頂いた。芝居と向き合い、ひょっとしたら、これ、一生の仕事になるんじゃないかなあって、感じる瞬間がありました。
水上 その施設に劇団を入れようと思ったのは?
津村 井上君(いのうえ ひでのり:劇団☆新感線 主宰)も内藤君(内藤裕敬:南河内万歳一座 座長)も大学の後輩なんです。(笑)でも、繋がりがあったからということではなく、彼らよりももっとお客さんを集めている劇団もありましたけども、いろんなお芝居を見させていただく中でこの2劇団がこれから絶対に大阪の演劇界を席巻するであろうし、東京に進出していくことは間違いないなと確信していました。「一緒に育っていこうよ」って。
<若い人たちに面白いことを提案する施設>
水上 アーティスティックな施設の核に劇場を入れるという発想は何処から?
津村 劇場とアートギャラリーとミニシアターが核ですね。
当時、文化的というと大げさかな、直接的に若い人たちが楽しんでいない、若い連中に「こんな面白いもんあるよ」っていうことを伝えたいことが先にありました。
それに関連して、こんな面白い遊びやろうよっていう提案ですね。その中にレストランがありまして、レストランをショーケースにしよう。全面ガラス張りの処にレストランを作った。当時、レストランというのは見えては駄目だったんですよ。逆に、全部見せよう、中を。シースルーのはしりでした。それ以降そういうものが増えたって、専門の方に言われました。シースルーにしたかったわけではなくて、遊びの中にシースルーっていう気持ちはあったんですけども、お金がなかったので、せざるを得なかったですね。(笑)
劇場を中心にした施設なので、ご飯を食べたりコーヒーを飲んでるのを外から見るのも一種の演劇、中が見える方が面白い、というコンセプトにした。それが大ヒットしました。テレビの番組に使われたり、ファッションショーが開かれたりとか、いろんなことに使っていただいた。
<レストランが即興のコンサート会場に>
津村 レストランの経営をお願いしていた方が舞台のテクニカルの会社の方で、フェスティバルホールとか近鉄劇場とかの仕事もされていたんですね。
面白かったのはフェスティバルや近鉄劇場、もちろんこの施設の劇場でコンサートや公演が終わった人が扇町へ来る。客席が80席くらいあったんですけどほぼ全員が顔がわかる人ばかり。久しぶりに会う人たちじゃないですか、役者とかミュージシャンとか。そうするとピアノを置いていたので、夜中に即興のコンサートが始まったりしましたね。レストランの中にいる人よりも外でそれを見ている人の数のほうが多かった(笑)。彼らもそれを面白がって、盛り上がる。そのころはそれ自体が珍しい。そういう意味では、核になった。
そこ全体をプロデュースすることがこの世界の入り口だったです。
水上 何年くらいされたんですか?
津村 準備に2年、オープンしてから4年で辞めました。
あえて辞めました。次の若い子にバトンタッチしていくこと。劇場のことをフォーラムって言っていましたが、ミュージアムスクエアというものと津村というものが、僕の中でうまくバランスが取れなくなって、自分が前に出て行くのはダメダメ、って。あくまで施設を前に出していかないといけない。
<伊丹AIホールで全国初の民間プロデューサー>
津村 そのあと、兵庫県の伊丹市から相談に乗ってくれ、と正式にオファーがあって、そこで、人生初の公共ホールの経験が始まるんですね。
びっくりしました。公共ホールに行って、こんなに民間とは違うものだなと。
水上 おいくつの時でしたか?
津村 32歳の時に、任せると市長に言われ、それが伊丹市立演劇ホール。愛称がAIホールというところだったんです。公共ホールなんですけど、市長に任せるといわれたので、直営館だったんですが結構自由にやらせてもらいましたね。法律は守らないといけませんし、市としての無茶なことはできない。でも、伊丹では、規制の中では何をやっても構わないと言われたので、じゃあ、ということで引き受けさせてもらいました。
水戸芸術館が1990年にオープンして、日本初の公共の芸術監督制度をひいたんですけど、AIホールは1988年にオープンしていますので、日本でもとても早い民間のプロデューサー制度だったですね。ましてやそれを32歳の若造に任せたというのは、いまだに市長って勇気あったなって思っていますね。
水上 その時の役職は?
津村 プロデューサーです。職員にはならなかった。契約という形です。そのやりかたも日本では珍しかったと思います。
小劇場なので、すごく自由にやらせてもらいました。ボックスホールで自由に組める、300席くらいかな。19メートル四方の正方形です。
小劇場のなかで、数年で、「扇町かAIホールか」といわれるまでになりました。
言えないこといっぱいしましたよ。僕ともう一人以外は全部市の職員です。何も失うものはない僕の責任でやりますから、というのがものすごく多かったですね。
<全国の劇場建設のお手伝い 「建設計画をやめろ」と提言>
津村 それから、当時の自治省の外郭団体で、全国の文化施設の支援をさせて頂くという財団法人地域創造に行って、いくつかの劇場の立ち上げに関わりました。企画委員会から始まってオープンするまでですね。地域創造は現在もプロデューサーとして関わっています。
その中で、実際に運営にかかわったのは、びわ湖ホールです。
急にどでかいホールの運営になりました。4面舞台の本格的なオペラができるホールと900の演劇・ダンスをメインにした中ホール、そして音楽専用の小ホール。そこを3年間、起動に乗るまでプロデューサーをさせて頂きました。
水上 まるで、立ち上げ仕掛け人ですね。
津村 仕掛け人かどうかわかりませんが、立ち上げは一杯やりましたね。
委員会で議論してて、これは駄目だとわかったら、「造るな」、ばっかり言っていましたね。
わかっていないんです。たとえば50億かかって1500席と400席くらいのホールと稽古場を持ったホールを造ったら、どのくらいのランニングコストがかかるかということが全然わからないんですよ。
なおかつ、どんな劇場にしたいのかっていうコンセプトがない。貸館オンリーならいくら、自主事業をやりたいとなるといくら、ましてや作品を創りたいとなるとこれだけ掛かりますよという、計算が成り立っていない。毎年数億円が必要になります。なおかつ、10年か15年たったら大規模修繕がでてくる。そこには「何十億かかかりますよ」って言ったら、びっくりする。でも、行政として計画をスタートしているので、余程のことがない限り、造ってしまう。その後えらいことになったホールはいっぱいあります、
全国に。目的やミッションが不明確で、なおかつ10年・20年先までを見据えていないことがわかった瞬間に、「造るな、造るな」って必死で抵抗しましたね。造ったら、あなたたちはいいかもわからないけど、20年先の職員は泣きを見ますよ。って、よく言いましたね。
<北九州は「文化は街の核」という覚悟があった>
津村 北九州芸術劇場も、そうとうの予算がかかりますよ、と言いました。でも、当時の市長のコンセプトがはっきりしていて、北九州という街をどう作っていくのかというビジョンの中に、文化というのは大きな核としてある。劇場を造るということに関しては、覚悟というか、目的とミッションを明確に持ち、そして理解をされてスタートしていただいたので、我々スタッフも目標を持って進めたことが大きかったと思います。
建物を創ったらそれで終わりという人、結構多くいらっしゃいますので。公共建設物は一生壊れないと思っている人がいたりしますからね。だって、家だって改築するでしょう?
<公共ホールの転換期>
水上 80年代後半から90年代、従来の市民会館型から事業を行う財団形式の劇場が建設されていったころですね。まさに移行期、その移行を推進する役割だった?
津村 AIホールに関わったころ、文化財団が生まれていく、一部のホールで自主事業をという形が生まれてきた、ちょうどそのころですね。
小劇場だけをとりあげてやっていくのは、全国でも珍しかったですね。32歳の人間にそれも民間の人間にプロデューサーを任せるというのは珍しかっただろうな。僕も伊丹で勉強させていただきました。のちのち、お互い理解しあえるベースになった。行政の論理っていうのは否定される方もいらっしゃるのですけども、よくみていくと、凄くよくできたスキームなんですね。これを使わん手はないと思いました。いわゆる舞台芸術の論理というか、芸術家の持っている自由な発想と相反するところがあるんですけど、芸術側のルールと役所側のルールのいいところを混ぜ合わせれば、きっとお互いが理解しあえるルールが作れるんじゃないかということは、勉強になりました。すぐに実践することはできなかったですけど。
津村 公共の劇場が事業を前向きに進めていくだろうな。という感触はすごくありました。
そのなかに、アート系が社会にとってどんな責任を取っていくのか、ということもすごく感じました。いち早く、ワークショップ系、研修系のものをAIホールには入れました。
演劇とかコンテンポラリーダンスがどう社会に向き合って、社会に対して何を提出していけるのか。公共ホールはどういう事業を組み立てていかないといけないか、
主は、いい作品を提供することですが、演劇やダンスが持っている力をどういうふうに社会に提供していけるか、俳優になりたい人だけのためのワークショップではなくて、もっと違う角度でワークショップをしていけるんじゃないか。AIホールの時代にさんざんいいましたね。
そういう流れが来ている時に、北九州を責任者としてやらせていただけた。ありがたかった。貯めてきたことを実践できる場として。
水上 魅力的な話で、長時間お話ししてくださいました。ありがとうございました。
時には刺激的な言葉も出てきましたが、第1回目は、ここまで。
次回は、いよいよ、北九州芸術劇場の話です。お楽しみに。
取材:水上徹也(シアターネットプロジェクト代表)
2014.03.31
カテゴリー:劇ナビインタビュー
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でも演劇に触れたことがない人のほうが多いのが現実 はてさて、その魅力をどう伝えようか
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